古代山城 屋嶋城                               2009/10/14
        


1. 巻頭言 幻の屋嶋城発見のその瞬間(とき)
 100%予想外のでき事でした。『これは何だ!こんな事があって
いいのか?』と目を疑いつつ茫然と眺めていました。お城の話を聞い
たときは信じがたい夢物語。しかし、この頃には歴史背景を理解して
屋嶋城の値打ちを知っていました。天然の断崖を城壁に利用した山上
部には、お城の遺構はないと言われていました。山上外周を踏査して
登れる所が少なければ『心の中にお城を描けるかも』と思ったわけで
す。屋島に魅せられた男の5年計画の遊びです。
 そろそろ山頂かなと見上げた瞬間に、高さ5mほどの石垣が目に飛び
び込んできたんです。この日はこの場所で休みながら観察しただけ。
写真も写さず、場所を覚えることに注力しました。
 学術面では素人。喜びよりも、驚きと偉い物に出会ったという心の
重荷の方が勝っていた様に思います。数日後に、『屋嶋城跡の石垣は
私を待っていた』と。仕事ではないけれど、いつの間にか重荷を背負
う覚悟が生まれていました。
(城門の発掘に繋がった、平岡岩夫氏が実際に城門石塁を発見したと
きの様子)

                     
           最初に出会った高石垣


2. 古代山城(こだいさんじょう)の屋嶋城(やしまじょう)に
   ついて
(1)屋嶋城の概要
 香川県高松市屋島東・中・西町、高松町に所在する屋島(南嶺標高
292.1m)に築かれた古代山城。 667年(天智6年)高安城
(たかやすじょう)・金田城(かねだじょう)と共に築城された。1917
年(大正6年)に発見され、1922年(大正11年)に北嶺〜南嶺
間の浦生(うろ)の石塁(せきるい)・物見台(ものみだい)が屋嶋城の遺構
として報告された。1980年(昭和55年)初めて発掘調査が行な
われる。浦生の石塁は、標高100m付近にある。長さ47m、基底部
幅約9mを誇るが、外壁は大きく崩壊している。この浦生の遺構が
屋嶋城唯一の遺構とされ、山頂部はメサ地形(注)の急崖を利用して
城壁は築かれなかったと見られていたが、1998年(平成10年)
平岡岩夫氏により南嶺南西斜面で石塁が発見された。
 新発見の石塁は、標高270m付近に南北約150mにわたって断続
的に続き、残存の良好な石塁は長さ6.5m高さ4.7m。城壁上部の
城内側に車道(くるまみち)状の平坦面も確認された。これにより南嶺
には、山頂急崖線の切れる部分に城壁遺構があることが判明した。南嶺
全周は約4qである。2000年からは、南嶺北斜面外郭線(がいかく
せん)の発掘調査が開始され、土石混合状の土塁(どるい)であることが
判明した。
 2002年、南嶺南西斜面石塁の北側で、城門遺構が検出された。城
門幅5.4mの国内最大級の規模。門道(もんどう)中央に排水溝が設
けられ、床面は四段の階段状である。城外と城門前面の床面に2mの段
差を設け、戦闘時は昇降設備を撤去して城壁に戻す、懸(けん)門(もん
)構造。門道床面で柱穴が確認され、上屋の存在も実証された。城門内
で築城年代の土器も検出。敵の侵入を容易に許さない種々の工夫が見
える城門である事が解明された。学術調査は継続中。
(出典:東アジア考古学辞典)
(注)山上近くが断崖となる卓状地形


屋島全景航空写 西側より望む      城門正面
城門遺構空中からの写真


(2)歴史的背景
 7世紀後半、朝鮮半島では新羅(しらぎ)の統一が進み、660年には
唐と連合して百済(くだら)を攻め滅ぼした。わが国は百済再興の援軍
を送ったが663年、白村江(はくすきのえ)(錦江河口)で唐・新羅
の連合軍に大敗し(白村江の戦)、以後わが国は朝鮮半島から全く手を
引くことになった。新羅は668年、唐とむすんで高句麗(こうくり)を
を滅ぼしたが、676年には唐の勢力も排除して朝鮮半島の統一が完
成した。
 国内では、斉明(さいめい)天皇の没後、中大兄皇子(なかのおおえの
おうじ)が皇太子のまま政治を執っていたが、やがて即位して天智(てん
じ)天皇となった。天皇は、唐・新羅の来攻に備えて対馬(つしま)・
壱岐(いき)や九州北部の各地に防人(さきもり)と烽(とぶひ)をととの
え、筑紫(つくし)に土塁と水濠(すいごう)からなる水城(みずき)を築い
て大宰府(だざいふ)をおき、九州から大和(やまと)に至る要所に、
山城(やまじろ)を築いて防備を固めた。(出典:新詳日本史図説)

(3)古代山城について
 飛鳥時代に西日本各地に造られ、「日本書紀」・「続日本紀(しょく
にほんぎ)」等になんらかの記載が有る山城、およびその系統の山城。
特に663年の白村江の戦いの後、唐や新羅による侵攻に備え、天智
天皇の命で水城と各地に山城が建設された。
 日本書紀における大野城(おおののき)、基肄城(きいのき)等の記事に
「亡命百済貴族が築城の指導に当った」とあることから、これらを含め
築城年代・構造など共通性が見られるものを「古代山城(こだいさん
じょう)」と称する。文献に記述のない遺構として、総社市(そうじゃ
し)の鬼ノ城(きのじょう)(1986年国の史跡に指定)など、西日本
各地で16城発見されているが、未調査の遺構もある。新たに発見さ
れる城も予想されている。文献に記述はあるものの、まだ場所が確認
されていない城もある。大規模である古代山城跡の解明には、まだま
だ年月が必要な様子である。

 日本書紀に築城年が明記された山城(やまじろ)

 名 称     読 み     建設年      所 在
高安城  たかやすじょう 667年  奈良県生駒郡平群町久安寺・
                   大阪府八尾市高安山
屋嶋城  やしまじょう  667年  香川県高松市屋島東・中・
                   西町
長門城  ながとじょう  665年  山口県山口市(詳細は不明)
(※)大野城 おおのじょう 665年  福岡県太宰府市・大野城市
(※)基肄城 きいじょう  665年  佐賀県三養基郡基山町小倉
(※)金田城 かねだじょう 667年  長崎県対馬市美津島町黒瀬
                    城山
(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(wikipedia)』
(※)大野城、基肄城、金田城の読みは、史跡指定名称に基づき記載。

3.今後の屋嶋が目指すもの
(1)屋島の歴史
 667年 屋嶋城が築かれる。
 754年 唐の高僧鑑真が、北嶺に千間堂(せんげんどう)を建立。
 815年 空海が、北嶺から南嶺にお寺を移し屋島寺と称す。
1180年 源頼政が後白河法皇の皇子以仁王を奉じて平氏討伐の
      兵をあげる。
1183年 平氏、安徳天皇を奉じ、屋島に行宮(あんぐう)を設(しつ
      ら)える。
1184年 平氏、摂津の国に進出。
1184年 兵庫県、摂津一の谷の合戦で平氏は源氏に敗れ屋島に
      退く。
1185年 香川県、讃岐屋島の合戦で平氏は西海に敗走。
      山口県、長門壇ノ浦の合戦で平氏は滅亡。
1815年 屋島神社は、高松藩主松平頼儀公が創建、讃岐東照宮
      (さぬきとうしょうぐう)と称した。
1929年 屋島ケーブル開通。
1934年 瀬戸内海国立公園・史跡・天然記念物に指定される。
1940年 高松市に編入。 
1961年 屋島ドライブウェイが開通。
1969年 屋島山上水族館オープン。
1976年 四国村オープン。
1998年 屋嶋城の城門石塁を発見。
2001年 千間堂跡を発掘。
2002年 城門遺構を発掘。
2005年 屋島ケーブル休止。
2006年 新屋島水族館がリニューアルオープン。
2008年 高徳線屋島駅に観光案内スペースオープン。

(2)今後の屋島が目指すもの
 屋島は、瀬戸内海国立公園・天然記念物等の素晴らしい自然的な景
観と、源平の古戦場、屋島寺、屋島神社そして屋嶋城等の歴史的・
文化的な価値のある超一級の観光資源に恵まれています。
 また、昭和60年に『腹鼓記』(井上ひさし(第14代日本ペンク
ラブ会長)著作 新潮社)の舞台となった地域で、その昔、屋島の北
嶺には狸の大学として綜芸種(しゅげいしゅ)智院(ちいん)大学があった
ことなど、文化的な香りの高い地域です。
 さらに、屋島地域には、屋島をよくする会、里山クラブ屋島、元気
YASHIMAを創ろう会、むれ源平まちづくり協議会等の民間のボラン
ティア団体が屋島のために日夜取り組んでいます。
 しかし、屋島を今後どのような方向に導いていくのか、或いは今後
のビジョンはどうなのかということに関しては明確な方向付けがなさ
れておらず、行政からも指針が示されていないのが現状です。
 瀬戸大橋が開通した、昭和63年には、213万人を超す観光客が
屋島を訪れましたが、今ではその四分の一までに落ち込みました。
新屋島水族館のリニューアルオープンにより回復の兆しはあるものの
その継続的な効果は不透明なものがあります。                   (屋島全景航空写真)
 今後屋嶋城跡の整備が進めば、全国から注目が集まる施設になるこ
とは想像に難くありません。そのような中で、今後の屋島が目指すも
のは何か。その答えは一朝一夕には出せないかもわかりませんが、少
なくとも、地域のボランティア団体や行政が大同団結し、点で存在し
しいる貴重な観光資源を面に変えるべく、今後の進むべき方向を見出
していくことが必要ではないでしょうか。

   
   屋島全景航空写真

※本文中の掲載写真は、高松市教育委員会より提供を受けております。

                                                               

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