園庭の石段からみた情景〜園だより1月号より〜 2009.1.31
<何か感じない?>
 今年の冬は例年より2〜3週間先を走っているようです。いつも節分あたりにやってくる雪模様とその冬イチの寒波が早々と月なかばに訪れた後、今週には春の温かさを思わせる風に吹かれたりもして季節の勇み足を感じている今日この頃です。少し前にはこれまた一足早いインフルエンザと流行性の風邪によって十名を超える欠席を数えたりもしましたがだんだんとその状況から立ち直り、また子ども達の元気な声が幼稚園に戻って来つつあります。春待ち遠しい一月の暮れです。

 そんな日常の中、朝からお日様が顔を出すような暖かな日には『お散歩マラソン』と銘打って日土の山にお散歩に出かけたりしました。クラスの組み合わせはその時々によって異なりますがすみれともも組が一緒に出かけたときのことです。前に一度行ったことのあるもも組と初めて出かけたすみれ組。梶谷岡への道に出る所に咲いていた梅の花。前行ったお散歩マラソンから十日ほども経ち、咲き始めた梅の花も八部咲きまでになっていました。前回の記憶が心にしっかり残ってくれたのでしょう。「わー!いいにおいー」と喜ぶもも組の女の子。一方、先に先に早く行こうとするすみれ男子に「ねえ、なんか感じない?」と訊ねると、「なに?感じるってなに?」と男の子。みんなが何かに喜んでいるのは分かるのですが、自分には何のことかわからない。みんなが共有しているこのうれしい雰囲気の中に自分が入れないことに苛立っています。確かに前回の経験と言うアドバンテージがないのですが、「何か感じない?」という言葉の中に「ここには何かあるんだよ、探してごらん」というメッセージを込めてわざと正解は言いません。「なになに?」と躍起になるその子に「匂いをかいでごらん」と言っても「・・・?」。道脇に咲いている梅を指差してやるとやっと気がついたようで「なんだ梅か」とこぼしました。
 せっかちで先に先に行きたい男の子、もしかしたら梅の匂いには気付いていたのかもしれません。でもそれを愛でると言った喜びを知らなかったのでしょう。見ただけで「梅!」と言ってのけたところから見れば知識としては『梅』を知っていたのでしょうがそれがこんなにも素敵な香りをかぐわせ、春の喜びを告げていると言ったところにつながらなかったのです。そう、「そんなこと誰も教えてくれないもん」だから。
 私達は知識の上でも大量消費の時代を生きています。だから子ども達もいろんなことを知り、いろんな情報を持っています。でもそれが自分にちゃんとつながっているか、自分の物となっているのかという部分においてとても希薄になっているのです。「これはこれ」、「1+1=2」という教え方をしてきた大人達が個々の情報量は増やしたものの、それぞれをつなぐリンクやその用い方など『知識』を『知恵』へと昇華するために一番大切なものを教えてこなかったのではないでしょうか。

 幼稚園のおもちつき、今年はガスボンベを借りてきてガスでお湯を沸かし、もち米を蒸したらという提案がありました。例年そうなのですが、土間にあるかまどで火を燃せば家中が煙に包まれ「けむいけむい」と大騒ぎとなってしまいます。これにひとり大反対したのがおもちつきを仕切ってやってくれているひげのおじちゃん。「火を燃やすからいいんや」と譲りません。教師の方は「喘息の子がいるから」とか「目が痛くなるから」と子ども達を預かっている者の責任と立場から提案をするのですが平行線。最終的に今年はいつもより早く火を炊き出して、換気対策も万全にするということで例年通りかまどでのもち米蒸しをすることになりました。
 朝早くからの準備に加え土間から園舎への煙の流入の防止、サーキュレーターや扇風機をフル投入して徹底した換気対策のおかげで今年は子ども達に煙たい思いをさせることなくおもちつきが出来ました。その分、煙たい中で準備をしてくれたおじちゃん達に感謝しています。でもあれだけ見せたかったかまどやそれで蒸したもち米についてなんの説明をすることもなく、子ども達のおもちつきは進行してゆきます。せっかくかまどに火をおこしてやったのにおじちゃんのウンチク講義のひとつでもあるのかと思ったらそれもなく、見ているこちらが拍子抜け。それでも子ども達は大喜びのうちに「ぺったん!ぺったん!」の餅つきを楽しんでいました。

 お散歩マラソンの時、その時の情景をふと思い出しました。あれを口で語って教えていたらただの知識になってしまう。そうじゃなくてひげのおじちゃんも子ども達に感じて欲しいと願っていたのかな、とそんな想いがしました。力を込めて振り上げたきねと目の前にどっかと座る石の臼。ふと顔を上げその先を見渡せば、かまどに火が燃え釜から湯気が上がってせいろを蒸しあげています。そんなおもちつきの風景を子ども達の心に感じ取って欲しいと願う、ひげのおじちゃんの想いがその時なんとなくわかったような気がしました。
 ご飯は電気ジャーから出てくるもの、おもちは真空パックに入っているもの。子ども達の日常の経験に基づく理解はそうなって当然。それは利便性のために私達がその途中のいくつもの行程を省いてきた結果なのです。昔の暮らしのご飯焚きやおもちつきの中には、その行程や原理を自分の目で学ぶためのものがあちらこちらにちりばめてありました。日々の生活の中でそれらを見つめて子ども達は感じ、考え、分からなければ大人に尋ね学んでいきました。今の時代、そういった場をわざわざ設けてやらなければ子ども達に本当の物事を教えられなくなってしまったのかもしれません。教えられたテストは百点で、教わっていないものには無関心、そんな子どもでは味気ない。「何か感じない?」、子ども達に投げかけしてみませんか。


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