園庭の石段からみた情景〜園だより5月号より〜 2008.5.24
<風を感じる心>
 吹き抜ける風もさわやかにあっという間に駆け抜けて行った今年の五月、とても過ごしやすいひと月でした。お天気続きの毎日に子ども達は元気よくお外で遊んでいます。お部屋で小ぢんまり遊んでいたばら組さん達もお外遊びの楽しさに目覚め、砂場遊びやお山のすべりだいを愉しんでいます。またここに至るまでお部屋小僧で通してきたすみれさんまでももの部屋まで顔を出し、「しんせんせい!サッカー勝負しよう!」と誘いに来てくれると言ううれしいおまけつき。そんな子ども達のうちに芽吹く新たな燃ゆる想いをうれしく受け止めています。そう、5月とはそういう季節なのです。
 今、幼稚園のお山ではたけのこがあちこちで頭をのぞかせており、それをお散歩がてら、みんなで取りに行っています。ひとたび山に行けば帰ってきたその両手には持ちきれないほどのたけのこが。それを山にいけなかった子、たけのこが取れなかった子達に文字通り『やまわけ』し、うれしい山の恵みのおすそ分けをふるまいます。こういう所この子達、えらいなあと思うのです。自然が豊かだと人の心も豊かになるのでしょうか。だとすれば山里の豊かな自然に抱かれたこの幼稚園で行われる保育はこの子達にとってとても素敵な環境なのかもしれないと、子ども達を見ていてちょっぴりうれしくなりました。
取ってきたたけのこ、さっそく石段に座り込んで子ども達の皮むきが始まります。誰が教えるわけでもないのに『たけのこは剥くもの』とばかり子ども達はひたすらたけのこの皮を剥きます。硬い皮にてこずっている子が「どうやってむくがー?」と聞けばその隣の子が「こうやって、こう」とレクチャーを始めます。ここには『勉強』なんて子ども達にとって忌まわしい言葉は存在しません。でも遊びの中に自ら学ぼうとする想いがあふれ出し、その想いが子ども達を毎日少しずつ成長させているのです。出来ないことには興味を示さず自分の手の届く範囲を世界の全てとしていた子ども達が、自らの足で新たな世界へと踏み出そうとしている、そんな姿として目に映り、しばらくその光景を眺めていました。それも一人ではなく、みんなで連れ立って、助け合って。とっても素敵な光景でした。
 たけのこ取りも子ども達にとっては遊びのひとつ。となれば非日常性を大きく帯びれば帯びるほどその満足度も大きくなるものです。初めはかわいく頭を出していたたけのこに喜んでいた子ども達でしたがある時、たけのこの皮をかぶった青竹を見つけました。そう、これも何日か前にはかわいいたけのこちゃんだったもの。それがほんの一雨降った後、ぐんと背丈を伸ばして伸びて、子ども達の頭を軽く越えるほどのたけのこに成長していました。でもでも頭はかわいい茶色の皮かぶり。子ども達は次の獲物をこの『でかたけのこ』に定めました。自分では折れないので先生に折ってはもらったものの、一人で持てる代物ではありません。どうするか見ていると3人がかりで真中と両端を抱えて「わっせわっせ」と山から運び出しました。誰のものと言って仲たがいをするわけでもなく、みんなの戦利品としてみんなで持って帰る子ども達。ここには『誰の所有』といった現代人の私達なら真っ先に問題化するであろう狭い価値観はなく、ただただみんなのうれしい気持ちが溢れていた、そんな素敵な情景でした。
 こんなさわやかな明るい陽射しの中、お天気に恵まれた五月でしたが、程よいほどに雨も降りました。昔から変わるはずもないのですが、そんな雨の前には湿り気を含んだ重たい風が吹きぬけて行きます。朝のお迎えで坂を下りるとき、そんな風を感じます。それがとても心地良いのです。潤いを帯びた少し重みのある空気、そうそれは昔まだ噴火する前に行った三宅島の原生林に囲まれた小さな池のほとり、しばしたたずんだ時に感じた空気と同じ匂いがすると、10年以上も経った今になってふと思ったのでした。今時の言葉で言えば『マイナスイオンを帯びた風』と言うのでしょうか。心も身体も潤してくれるようなそんな雰囲気の中を子ども達を迎えに駆けてゆきます。もう何年も毎日毎日何回も上り下りしてきたこの坂道で、今更ながらこんなことに気付くなんて面白いものです。長年、こちらから心と身体をぶつけるように接してきた子ども達との関わり、それがクラスを持つことで子ども達から学んだ『受け止める保育』へと、クラスの外においてもその重心を移動させてきたようです。その過程でこんな風の匂いを感じると言った感受性もリフレッシュさせてもらったのでしょうか。子ども達の想いを感じる感受性と一緒に。
 もう早くからお母さんの手を離れ、一緒に坂道を上がっていた女の子。しっかりちゃんを誇りに想い、毎日がんばって歩いて来たけれど、周りを見ればみんなお母さんと一緒。おまけにおんぶに抱っこの甘えんぼ。淋しくなって当たり前。道の途中までお母さんにおんぶされてたまたまやってきたその日に限って、おせっかいな先生が手前の橋まで迎えに来ちゃったものだから、恥ずかしい自分を見られて・・・。しばらく一緒に坂を上がってくれなくなっちゃいました。「ほんとにごめんよ」と謝りながら、「しばらくお母さんと一緒に上がるのもいいよね」と坂を上がってゆく二人の姿を見送りました。ある日、お母さんの手は離れたもののぐずぐず歩くその子が道端の小石を拾いました。それを見て「こんな石はどう?」と丸い形の石を差し出します。ふと目を輝かせる女の子。うれしそうに受け取ってくれました。「こっちのは?」と次を渡すと「大きすぎ」、その子の中には素敵な石の定義がしっかりあるようです。二人で石を捜し拾いながら坂道を上がってゆきました。おかげでその日から仲直り。また楽しく一緒に登園してくれるようになりました。大きなお世話でその子の想いを傷つけ、小さな想いを感じ取ることでできた仲直り。私達は常に感受性を磨いていないと子ども達の想いを感じることができないのかもしれません。


戻る