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<物言わぬもの達が教えてくれるもの> 冬休み、子ども達にとって数々のイベントやお楽しみが連日のように押し寄せ、きっとプレゼントやご馳走、お年玉と言った夢のようなご褒美で心を躍らせた日々であったことでしょう。しかし子どもはそんな楽園にいつまでも満足できない生き物。あれほど喜んでみせたおもちゃへの感嘆の声も時と共に薄れ色あせ、毎日ゆったりまったり過ごした日々にも退屈の色が見え隠れ。じらしじらされての登園となった三学期の始まりは、何でもない日常が戻ってきただけだというのに子ども達には何よりも輝いて見えたようです。 行く年来る年を挟んでなお子ども達の心の中に鮮やかに焼き付き輝いていたものはケイトウの花でした。山を登り降りする坂の道脇に植えられていたケイトウの花、あの鮮やかな赤、桃色のふさふさを採っていいと言われた子ども達が瞬く間にこの花のとりことなったのは去年の暮れのこと。花の盛りが過ぎ、時の流れのままにしておけば朽ちてゆく花が、子ども達の心の琴線に触れたことによって文字通り『もうひと花咲かせる』ことができたのです。その子ども達、年明けイの一番に「ピンクの花が欲しい」と山登りをおねだりにやってきました。僕も「ピンクの花などこの季節にあっただろうか」と思いを巡らせますが、どの花も頭の中で該当しません。「あっちのピンクのはな!」と繰り返す子ども達にもしかしてとケイトウが思い浮かびます。冬休みも幼稚園の風景は僕の日常にあって、とおの昔にケイトウの花が終わってしまったことも僕の中では承知の事項。しかし子ども達の想いの中ではまだあの丘に鮮やかに咲いているケイトウが息づいていたのです。 「ケイトウはもう終わっちゃったよ」と言う僕に納得できない子ども達。それならば自分の目で確かめるのがいいだろうと、その子達を連れて山を登っていきました。ひと月ぶりに登る幼稚園の丘ではあれほど咲き誇っていたケイトウはすでに土に帰り、子ども達はその期待はずれの風景に「・・・」。とぼとぼ歩く帰り道、やはり喜び踊るように立ちしゃがみを繰り返した真っ赤に萌える落ち葉拾い、その紅葉の木を仰ぐように見上げてみればそこには一片の葉っぱも残さずに裸となった木が一本立っているだけ。こうして自然は子ども達の想いをむげにも打ち砕き、ただただ無言のまま『季節はめぐりゆくもの』であることを教えたのでした。 あの楽しかった情景を夢見て幼稚園にやってきただろう子ども達の期待に反した自然の仕打ちに、彼女達の熱い想いも拍子抜け。何でも思い通りになった冬休みの記憶が転化した新学期への希望があっけなく砕け散った幼稚園の始まりでした。でもそんな子ども達にも自然はちゃんとプレゼントを用意してくれています。自然とのふれあいを求めてがんばって裏山を登った子ども達へのご褒美として、モノトーンの山肌を彩る黄色に輝く菜の花が花束になって子ども達の手にしっかり握られていました。ひと月前よりずっと沢山の花をつけだした菜の花。春の訪れをいざなうようにこれから益々咲き広がり、幼稚園の丘を埋め尽くすほどになることでしょう。その日から子ども達の『これが欲しい』の対象は菜の花に変わりました。季節を繰り返す自然は『これでなければダメ』という人間の欲望を諌めたしなめつつも『その代わり』を私達にちゃんと与えてくれるのです。その立ち位置が僕らに子ども達を向き合うときのものの道理を教えてくれていると思うのです。 『これが欲しい』は人間の本能、でも時としてその自我の偏重とそれが往々にして受け入れられてしまう日常の中にあって『これでなければダメ』という想いへと変貌してしまうものでもあります。想いが通らずに我を失って泣き喚く子ども達にほとほと困ってしまった経験は誰にでもあるでしょう。そんな時、なだめる母親にその充たされぬ想いを転嫁するかのごとく無理を言い続けるのが子どもではあるのですが、何も物言わぬものであっても別の『これ!』が目に留まり想いがそちらに移譲できたなら、何事もなかったかのように別の自分をリスタートできるのも子どもなのです。大人が理詰めで納得させようとすればするほど、子どもは受け入れられなかった自分とそれを正当化しようとする大人の態度にますます心を硬化させるもの。そんな時はたわいもない言葉をぽつんぽつんと投げ込んで、子どもの当りを待つのがいいでしょう。釣り人がポイントをちょっとずつ変えながら釣竿をキャスティングするように。意の外にあった菜の花が子ども達の心を惹いたように。 そんな時に大事となるのがお互いの感性。子ども心に宿る『美しいと感じる心』、『面白そうだと感じるセンス』、『これはあれになるかも知れないと直観させる想像力』、その感性が縦横無尽に張り巡らされた子どもの心なら外界のいろんなものを自分の中に取り込み、沢山の『これ!』を生み出すことができるのです。逆にそれが乏しい子どもの心には『これでなくっちゃ』が多きを占め、自分の世界を狭く狭くしてしまうのです。でもそれは大人も同じこと。子どもに対して『こうでなくっちゃ』を押し付けてばかりいたならば、お互いに狭い狭い世界の中でやり取りしなければいけなくなってしまうのではないでしょうか。 今年最初の山遊びで子ども達と日土の自然が見せてくれた情景が、僕にこんな文章を書かせてくれました。完全OFFの冬休み、『充電』と称して沢山の書物を読み漁り埋もれながら過ごしていたら自分の想いを見失い、丸々ひと月ぶりに書き出した『園庭の』がなかなか書けずに四苦八苦。でもこうして子どもと自然に目を向けてみればやっと自分が戻ってきたようです。物言わぬもの達が教えてくれるもの、それは見失ってしまった自分の想いと自身のありようなのかも知れません。 |