園庭の石段からみた情景〜園だより10月号より〜 2009.10.25
 <スローライフ保育>
 自転車に乗っていても大汗をかくこともなくなり、心地良い秋風の中、自然を感じられるような季節になってきました。映画監督の大林宣彦がよく引用する言葉、『人間がこの地球上を移動するのに最も幸福なスピードは馬の背にゆられてゆく速さである』は芸術家そして科学者でもあったレオナルド・ダ・ヴィンチが残した言葉です。『空間の移動が目的ならばそれに掛かる時間は短ければ短いほどよい』と我々は効率や移動に対するストレスばかり憂慮し、もがきあがいています。でも考え方を変えてみれば「移動を楽しめればいいんじゃない?」。で、それがダビンチの言う馬であり今の僕の自転車と言う訳です。心地良い汗や体のほてりを感じ、眺める景色に秋を感じながら写真に収め、落ちているどんぐりを拾い、道行く小学生に手を振って、車に乗った幼稚園の子どもやお母さん達に気付いて笑顔を交わし、今日も自転車を漕いでゆけばほらどれだけ愉しいことがあることでしょう。朝、帰りに顔を合わせた時に「最近、自転車はどうですか?」と声をかけてくれるお母さん達が何人もあってこれまた『園庭の・・・』史上一番反響のあったトピックスにもなりました。そこで「私も高校生の頃は・・・」なんてお互いにうれし恥ずかしいような話も聞けてなんか幸せな気持ちになってしまいます。そう、僕らが日頃生活し、行き交う町中にもこんなにたくさんの『幸福』が落ちており、それに気が付いて見つけられた人だけが「自分は幸せだ」と言えるのかもしれません。
 それは自転車のスピードだけでなく生き方のスピードもまたそう。近頃『スローライフ』という生き方が提唱されるようになりましたがやっぱりなかなか実践できません。でもそこに自分の理想を掲げ『自然と共に生き、自分のエゴをたしなめ、人のために生きよう、相手に優しくしてあげたい』とそう願うところから僕らの『幸福』は始まるのです。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』、あれは決して賢治が「自分はこんなに偉い人間だ」と言っている詩ではないのです。賢治は最後にこううたっています、「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」(そういうものに私はなりたい)。

 この夏、僕の心の中に落とされたサイクリング・ブルースの音色は僕、そして幼稚園の子ども達の中にもどんどん広がっていっています。秋の陽射しの中、園庭で子ども達が思い思いに遊んでいます。足元を駆け抜ける三輪車、前傾姿勢で三輪車を漕ぐその子が「しん先生の自転車の真似!」とうれしそうに叫んで行きました。この間の保護者アンケートに合わせて職員も『教師の自己評価』を行いました。どこかの偉い先生が作ったその設問集、僕は『はい』に半分も丸が付きませんでした。その中に『「先生のようにやってみたい」と園児が思うようなモデルとしての姿を心がけているか?』という設問がありました。子ども達の目を意識しての自転車ではないのですが、「子ども達の心に何かを残すことが出来たんだな」と思い、ここだけは丸がもらえる気がしました。偉い幼稚園の先生から見た評価では落第点のこの僕ですが、これからも子ども達の『心の支えと励み』になれるよう子ども達の方をしっかり見つめていきたいと思っています。忌野清志郎が歌った『僕の好きな先生』、「ちっとも先生らしくない 僕の好きな先生 僕の好きなおじさん」を目指して。

 ある日の『おのこり』の時のこと、うんていの下に並べられたベンチにきんきん団子が置かれていました。なんとなく「大丈夫かな」という気がしていたのですが、うんていに登って遊んでいた子が罰の悪そうな顔でお友達のところにやってきました。「あそこのきんきんこわしちゃった」。その子が降りてきたちょうどその下に運悪くおだんごが置いてあり、見事に踏み潰してしまったのです。相談されたその子は「えーあれ、○○ちゃんのおだんごよ。おっこられるよー」とちょっぴりオーバーに答えます。その口調にみんなの表情が一瞬こおりつきました。この○○ちゃん、どれだけみんなから恐れられているのでしょう。続けてその女の子、「早く代わりのお団子を作って謝った方がいいよ」とちょっとしゃらっと人ごと風に言ってのけます。言われたその子はたーっと砂場に走って行って団子作りを始めました。
 あわてて作るせいか何度作っても団子が壊れて割れてしまいます。「どうしたらいい?」と泣き出しそうな顔のその子に「僕も一緒に作ってあげる」と投げかけました。でも実は僕、このきんきん団子を作ったことがなかったのです。子どもの頃は作って遊んだりもしたのでしょうがあまり記憶にもありません。僕がこの子達の頃を過ごしたのは東京の園庭も狭い幼稚園、今思えば外遊びに関してあまり魅力的な幼稚園ではなかったのかもしれません。廃材工作やヒーローもののお絵描きに勤しむ僕も『お部屋小僧』だったのでしょう。その当時はキカイダーやハカイダーが流行っていた頃で戦隊シリーズの元祖『ゴレンジャー』が丁度始まった時代。喜んでそんなものを描いていたのでしょう。日土に帰って来てからも常時カメラを手にしていたのでなかなか砂遊びに腰を据えて一緒に遊ぶ機会を作ってきませんでした。これがいい機会と一念発起。「こんな感じ?」と子ども達の見よう見まねでお団子を握り始めます。でも僕が作ってみても、やっぱり何度握っても団子はぽろぽろ壊れてしまいます。先ほど相談された女の子、おだんご作りに関しては園でイチ・ニを競う腕前の持ち主。いい大人が園児に教えを請います。「どうやったらいいの?」。そんな僕達に「もっと水を入れて」、「もっと大きくして」と人ごと顔だったその子も段々と親身に教えてくれるようになりました。「大きくして」の言葉に「大きい方が壊れやすいんじゃないの?」と思っていた僕の既成概念が崩れます。確かに小さな団子を大きな手で握れば一様に団子を握ることが出来ずに加わる握力のバランスの不均衡から団子が壊れてしまいます。そこでちょうど手のひらで覆えるほどの大きさの団子にすると手の形と団子が見事にフィットし、力を入れて握っても崩れなくなりました。『球体の全方向から均一に圧力が加わるように団子の大きさを設定する』、このことを何の知識もない子ども達が経験の積み重ねから自分の『団子理論』として自分の中に持っていたこと、これは驚きでした。それから『さら粉をさらさらかけて表面の水分を除いてゆくこと』、『水分がなくなった団子の表面をやさしくなぜると団子がぴかぴかになってくること』を教わり○○ちゃんが戻ってくるまでになんとかきれいなきんきん団子を二つ作ることが出来ました。
 戻ってきた○○ちゃんに僕が声を掛けます。「あそこに置いてあった○○ちゃんのお団子、この子がこわしちゃったんだって。ごめんね。代わりにお団子を二人で作ったからこれで許してあげて」。なぜか僕までが恐る恐るかけた言葉に○○ちゃん、あっけないほど「いいよ!」と答えてくれました。そう、僕に対しいてはとっても素直な○○ちゃんが子ども達の間でこんなに恐れられていたのが不思議だったのですがやはり子ども達の受ける印象というのはインパクトが強いと言うことなのでしょう。僕の前だけで優しい素振りが出来るような自分を使い分けることのできる○○ちゃんではありません。だとしたら本当は優しいのに損しちゃっている○○ちゃん。でもこれって僕ら自身にも言えること。僕ら教師やお母さん達も何気ない一言や態度で子ども達を傷つけ、「この人は恐い!」と思わせてしまっているかもしれません。本当は子ども達のことを心から思っている優しい大人なのに、ちょっと残念。
 この時普通の先生だったなら当事者の二人を向かい合わせて「ごめんね」、「いいよ」という仲介介助をして、「ダメ!」と相手がむずかった場合に許してあげることの大切さを説き聞かせるのかもしれません。そう、相手の失敗を無条件で許してあげられること、これは大切なことでしかも難しいことです。大人の仲介で「許してあげられるよね」と最後はご隠居の印籠を突きつければその子は「うん」と言わざるを得ないでしょう。幼い心に対して『先生だから、権力を持つものだから言うことを聞かなくてはいけない』という想いを植えつけること、これはやっぱり淋しいことだと思うのです。幸い時間もたっぷりの預かり保育、団子を壊した子も「ごめんね」の誠意として一生懸命団子を作り、僕も子ども達に教わりながら必死に団子作りに挑戦してみました。このことで「ごめんね」、「いいよ」だけのスピード解決では見えなかったものがいっぱいいっぱい見えてきました。そういう『子ども時間』の時の流れの中に身を置くことも大事なんだなとそんなことを教わった出来事です。いい大人が団子作りにあくせくしてなんて「♪ちっとも先生らしくなーいー」、でもそんな僕らが謝った「ごめんね」だったからこの子の心に伝わったのだと信じたいのです。これまた僕のスローライフ保育です。

 秋の実りがおいしい季節になってきました。子ども達もそれをよく知っています。もも組の部屋の外の柿の実がおいしそうに生りだしたら子ども達の目も輝きだします。子ども達を引き連れて柿の木の下に立ち止まれば、みんな口を開けて頭の上の柿の実を見上げます。「どれがうまそうかな?」と吟味してると「こっち!」、「あっちだよ!」と子ども達の声が掛かり、一番甘く熟れていそうな柿をもぎ取るとそのまま台所に直行。流しで実を洗い、丁寧に皮を剥いたら小さく小さく柿を切り分けていきます。『おいしそうな柿の実を一つだけ』、『みんなで分け合っていただきます』、それが幼稚園の柿作法。乱獲も独り占めもありません。一かけずつ口にほおばり満足顔の子ども達。みんなの所を一通り回り終えたなら、柿好き小僧たちがおかわりをもらえます。ほんの一口ずつの柿試食ですが、やっぱり取れたては一味違います。熟れることによって生じる自然の甘みが心地良く口の中に広がってゆくのです。「それで満足、また今度」子ども達は全く心得たものだと感心するばかりです。「もっともっと」と駄々をこねる子はひとりもありません。「みんな自然作法上手な日土っ子になりつつあるなあ」と感心しつつこの子達のうれしそうな表情を見つめています。
 もう一つおいしい獲物は胡桃の実。丘の井戸の上にある胡桃の木、毎日バケツ一杯拾っても次の日にはまたバケツ一杯実を落としてくれる、まさに幼稚園の秋の主役です。子ども達は毎日その実を拾い、園庭の丸井戸の周りに集ってごしごしブラシできれいに洗います。すると真っ黒で筋だらけだった胡桃が黄土色に輝きだします。それを喜んで持って帰る子ども達。でも年長ともなるとこの胡桃が食べれることを知っているのです。「くるみたべたいなあー」と寄って来てはささやく男の子。その想いに押し切られ部屋から大きなハンマーを持ってきます。「食べる前にこの胡桃と自分の手をきれいに水道で洗ってきて」と言うが早いかみんな蛇口に飛んでゆきました。子ども達が洗ってきた胡桃をタオルの中に挟んで上からハンマーでたたけば「ぐちゃ!」っと音がして胡桃がばらばらに割れ、覆いをのけると「ここは高崎山のサル山か?」、子ども達が手に手を伸ばし胡桃を口に運びます。「ガラも入っているから上手により分けて食べてよ」と声かけしますが子ども達はたいしたもの。大人以上に手や口・歯を使って胡桃を上手に食べています。「うまい」、「あまい」と口々に子ども達。幼稚園の胡桃は『鬼胡桃』と言って固い上に食べる中身も少ない胡桃。でもでも自分達で拾って洗ってその場で食べられるこの胡桃をおいしくたいらげてしまった子ども達。きっとこの幼い心に根ざしたこの想いはいつまでもいつまでも残ってゆくことでしょう。大人になってウイスキーのグラスを氷で鳴らしながら胡桃をつまみ、幼稚園の胡桃の木のことを思い出すことでしょう。この子達のこの想いが己生えの木一本を大事に思う心に育って行ってくれたなら、この国の自然ももっと元気を取り戻しくれるはず。そしてまたその頃の子ども達に夢と希望と冒険と、おいしい秋の味を振る舞い、脈々とスローライフの精神を受け継いで行ってくれると信じています。子ども達の心を育てるのには時間と自然が必要なのです。


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