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<山の木陰に教えを請えば> 久々に完全OFFとなったある休みの日、僕は久しぶりに原付自転車のカブを引っ張り出してみました。自転車三昧だったこの秋、それに取って代わられたカブはここ数ヶ月エンジンに火も入れていません。幼稚園の門の所に置いてあるオートバイ、フォーストの低燃費かつ耐久性に優れたカブですがあまりに乗らないとエンジンが機嫌を損ねてしまうのがいつものこと。そろそろ乗ってやらないと言うこと聞いてくれなくなっちゃうだろうなと思い出し、暇を見つけて乗ってみることにしました。スターターのボタンを押してみます。かすかにキュルキュル音がしますが全く元気がありません。それならとキックのエンジンスタートを試みましたが、これにも応じてくれません。寒さ対策にと襟巻きとグローブを装備していたのですが段々と暑くなってきてついにそれらを脱ぎ捨てます。「これはたて続けにやってもダメなんだよね」と長年の経験からふっと空を見上げます。頭の上の桜の枝をシジュウカラとメジロがいったり来たり。オートバイを相手にあくせくしている僕をものめずらしそうに眺めています。そんな情景が僕の心に余裕を与えてくれます。言うことを聞かないものに言うことを聞かせようとするとき、人は熱くなってしまうもの。でもそれをふとした瞬間、客観的に見れたなら心に余裕も生まれてくるもの。「最初から分かっていたことじゃないか」、そう、だからこんな休みの日を選んでこいつを引っ張り出してきたのです。ふと幼稚園の子ども達の顔が思い浮かびます。「これって子どもと向き合っている時と同じだよね。無理無理やっても結果は良くは転がらない。気長にゆっくりゆったりやっていれば、こちらも変わるしむこうも変わる」。そんなことを考えながら二度三度休憩をはさみながらカブに向き合えばやっとエンジンが走りだしました。その間十五分程かかったでしょうか。結局なんでかかるのかいつもわからないのですが、根気良く付き合っていれば結果としてかかってくれるものなのです。摩擦熱でオイル抵抗が少なくなるのか、キャブから噴出するガソリンが程よく行き渡るのか、そんなことはどうでもいいこと。ただただ大事なことはかかると信じてキックを踏み続けること。子育てで言えば『子どもの心に投げかけ続けること』。それもこんを詰めずに休み休み。そんな僕にカブと子ども達はいつも応えてくれるのです。 せっかくのバイクなので自転車ではしんどい日土の山を目指して登ってゆきます。途中エンストすること二度三度。登り坂なので調子の悪いエンジンに負荷がかかればたちまちエンストを起こします。エンジンの音を聞きながらこまめにギアをあわせてゆくのですが、こういう感性は子どもに向きあうときも機械に向かい合う時も同じこと。相手の機嫌をしっかり受け止め、それに合ったギアをあわせて行くのです。でもただの機嫌伺いではなく、調子が出てきたなら少し余計にがんばらせてみてとその子を伸ばして行くことを心に置いて、二人三脚で一歩一歩?進んでゆくのです。調子が悪いと言いながらもさすがは原付バイク、そんなこんなをやりながらこの間自転車で一時間半かかったふれあい広場まで三十分でたどり着きました。 今回はさらに上を目指します。そこから先は薄暗い杉並木が続きます。道の曲がり具合と真直ぐ伸びた杉林のアンサンブルが妙に美しくてバイクを道端に止め何度も写真を撮りました。登り始めには陽に照らされ暑ささえ感じていた背中がいつのまにかひんやりと冷気を背負っています。標高600mの郷峠そして出石寺まで登った後、日土東の道を伝って山を下ってゆきました。東の山道は林の中を縫うように走っています。山肌に編まれた石垣に緑の苔がむし、それを木漏れ日が照らし出します。僕好みの風景にバイクを止めること二度三度、沢を流れる小川にカメラを向け、漆黒の木陰の中に演劇照明のように線を引く木漏れ日にシャッターを切り、カメラに詰め込んだフィルムが空になるまでその場にたたずんでいました。 写真を撮っていて感じたこと、確かにここには山里とは違った自然の厳しさがあるようです。一日中木陰に太陽を遮られ、標高の高さもあいまって晴れている日でも肌寒く感じます。冬の冷たい風が吹きすさぶドンヨリ曇った日に出石寺の方を見上げれば山肌に白い物が混じり、山上では雪がちらついていることがうかがえます。でもだからこそ一筋の陽の光がまばゆくこぼれ落ち、それに照らし出された緑が美しく輝くのです。そう、そんな情景を見つめているとふと思い起こすのがクリスマスの夜の闇とその下で星の光に照らし出された飼い葉おけの中で眠るイエス様の図。なぜイエスはこの世の最も小さいものとして最も弱いものとして私達に与えられたのか。まぶしい光の中で絶大な力を持つ王として立てられたダビデは後年、その地位や権力を自分の欲望のために用い過ちを犯しました。王になるまではつつましく神様の御言葉に忠実に生きたダビデでしたが、世の中の富や光は逆にその信仰心に影を落としたのです。まぶしい光はその光によって世の中に己の影を落とし、暗闇は小さい小さい輝きをも受け入れ、その光によって照らし出されるものなのです。 何の力も持たない赤ちゃんとしてこの世に送られたイエス・キリスト。イエスは日々自分を削りながら私達が子育てしている子ども達と同じように父ヨセフ母マリヤによって大切に育てられました。神様から与えられた大切な命として。それも私達と同じこと。一人では淋しかった心に神様は連れ合いを与え、その愛の証しとして大切な命を授けてくださいました。その子ども達は私達の心の闇を照らし出す光なのです。この子達を見つめこの子達に何かを語ろうとする時、自分の心の中にある不義や欲望が照らし出され、この子達に対して恥ずかしくない自分であろうとするのはこの子達が我々の心を照らしているから。子ども達はそんな世の光なのです。 |