園庭の石段からみた情景〜園だより2月号より〜 2010.2.27
 <僕の外遊び論>
 大寒の頃に穏やかな小春が早々訪れ、もう春かなと思っていた立春過ぎ、猛烈な寒波が訪れて一度緩んだ気を引き締めることが出来ずに寒さに凍えた2月でした。そんな寒い日々の中でも「寒い!寒い!」とつぶやきながら凍りつきそうになる心の氷をかち割って、僕らは毎日子ども達と外遊びに飛び出して行きました。「寒い!寒い!」はぼやきのための言葉だなんて誰が決めたことでもありません。「寒い!寒い!」は「寒いから、外で走って温まろう!」という僕らの合言葉。皮の薄い僕が日土の極寒期をしのぐために着ている服は計6枚。それが子ども達とボールを追いかけ走り出せばあっという間に2〜3枚にまでスリムダウン。それほど人の身体の内燃機関の熱エネルギーとは大きいものなのです。外遊びを終えて部屋に戻れば、遠慮気味に回っているファンヒーターでさえ暑苦しくさえ感じられます。まあそれは身体の熱が冷めるまでの一時のことではあるのですが。エコブームのこの時代、寒い冬に着る服を一枚減らして運動量で暖を補ったならダイエットなどもいらなくなり、一石二鳥も三鳥も手に入れたイカシタ現代人となれるのかもしれません。

 しかし上には上がいるもので当の子ども達に目を向けてみると、外遊びに出かける時にはどんなに寒くても「ジャンバー着なさい!」と声かけをしない限り決して上着を着ようとはしません。声をかけられても『着ないとお外はダメって言うんでしょ』としぶしぶジャンバーを着る始末。これには敬服してしまいます。子どもの放射熱量がどれだけ高いかを物語っています。子どもの体感的にはきっと全然寒さなど感じるレベルではないのでしょう。でもそのまま過ごせば『知らないうちに風邪をひいてしまっている』ことを僕らは経験から知っています。外に飛び出したからとて、皆が皆、走り回っている訳ではありません。北風の吹きすさぶ日陰の砂場にしゃがみこんでとろとろ遊びに興じる子など、こんなのは気がついたら風邪をひいているパターン。そんな子ども達への心配りで、「暑くなったら脱いでいいから」と声をかけ上着を着せながら外遊びを共に過ごすのです。
 『老婆心』とはこんなことを言うのでしょうが、これも経験から頭の中に染み付いた確率論。風邪をひけば熱が上がるが、これは熱によって病原菌を攻撃するため。であるならば、運動によって体温を上げたなら身体に侵入していた菌を弱め、病気から身を守ることも出来る。ということで外遊びを奨励するのですが、ただただ外にいるだけでは放射熱の方が多くて体温が下がるのでしょう、逆に風邪をひかせてしまいます。ということで子ども達がどのような遊びに飛び出してゆくか分からない当初は、先ずは上着を着せようという思いがめぐるわけです。

 僕の外遊びは2〜3人の子ども達を小声で「お外行きたい人?」と一本釣りで釣り上げ引きつれ始まります。外遊びを待ちわびた子ども達は早速砂場や三輪車に散ってゆき、僕はと言えば日なたのタイヤブランコで身を揺らしながらひなたぼっこ、そこから子ども達の様子を眺めています。やはり冬の日なたは心地よく居心地がいいものです。子ども達も僕のブランコに「かーしーてー」と寄ってきて来ます。『あらゆる関わり、これ教育なり』と先ずはここは大人気なく「いーやーよー!今乗ったばっか!」、この子達の口癖を真似てみせます。恨めしそうに見つめ返す子ども達。「だって○○ちゃんもいつも言うでしょう」と言えば「・・・、もういわん!」。「じゃあ、いーいーよ。お友達にも替わってあげてよ」と投げかけ交替して他の場所の視察に移動します。あれこれ言われたってブランコに乗れればご機嫌笑顔の子ども達。どれだけ伝わっているかは分かりませんが、こうして『考える機会』、『学びの種』を蒔き続けることが僕らの仕事なんだと思うのです。強制するのではなく、変わってもらえなかったジレンマ、変わってもらえたことによる喜びを繰り返し繰り返し経験してゆくこと、そこから相手の思いを察するような心が生まれ育ってくれたならと願っています。そんなこんなのおかげか、この子達自身の成長か、春に比べてブランコのもめごとも少なくなってきた気がする三学期。理屈や正論では行動できなかったこの子達が、友達同士ぶつかり合って削りあって、とんがって傷つけあっていた角が丸く優しくなれたのでしょうか。一年を巡りまわってきた後の春はそんなうれしい子ども達の成長が感じられるもの。まったくうれしい季節です。

 今年は職員会で『なるべく外遊びを大事にしよう』、『自由遊びでの子ども達一人一人との関わりを大切にしよう』と話し合って保育にあたってきました。発表会の季節になるとどうしても練習や製作に時間を取られ、自由時間まで子ども達を拘束してしまいがちになるものです。でも子ども達もがんばっているからこそ、自由時間には思う存分好きな遊びに興じて欲しいし、教師も「何々をしなさい」ではなく自由に遊ぶ子ども達と関わって遊んでやって欲しいと願ったのです。今年はそんな光景がよくよく見られ本当にうれしく思っています。クラスの時間をやりくりしている先生達には本当に大変だとは思うのですが、子ども達の顔を見ていればそれだけがんばった価値はあるというもの。でも保育ってそんなものだと思うのです。やらせがんばることも必要、子ども達の自由な想いをしっかりと受け止めることも必要。何事も一番最後にそこでふんばりがんばれるかどうかは、その子の想いの強さによるものだから。自分の想いが満たされた子ども達は、きっとがんばるべきところでもがんばり、自分を表してくれることでしょう。そんな姿を今度のひなまつり音楽会では感じていただきたいと思うとともに、そうなることを願い祈りながら本番当日を迎えようとしています。僕にできるのはきっとそんなことぐらいだから。


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