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<子育てマジック、個々様々> ひなまつり音楽会が終わったとたんポカポカ陽気が訪れて、『ほっと』の想いもあいまって気分はすっかり春爛漫。でもなんか全て終わって「めでたし、めでたし」のように感じていた僕らのゆるんだ心をたしなめるかのように、すぐさま訪れた何度目かの寒波の襲来に気持ちも再びキッと引き締まり、最後の最後まで子ども達と一生懸命向き合って過ごせた三学期の終りとなりました。それはきっと子ども達も同じこと。音楽会をやり遂げた自信とその後の開放感、進級進学の喜びに舞い上がり何かと羽目をはずしがち。ゲームの中でのルール破りや遊びの中での限度を越えた傍若無人。それを見つけたその時はここぞとばかり呼びつけて、最後のお説教をのたまう金八先生モード。「ゲームと言う遊びの中で、ルールという約束が守られなければ何の公平さ、何の面白みがあるだろうか。君達はそのことを分かっているはずだろう。それでいいのか」。子ども達も『最後に一本取られた』という顔で自分の不義を認め、もう一度あの真面目に一生懸命だった心を思い出していました。三寒四温の繰り返し、それは季節の移り変わりのためだけでなく、人の心を育てるためにもまた必要なものなのかもしれません。 『子どもに言うことを聞かせること』、これが教育の全てでないのはもちろんなのですが、それによって子ども達に何かを伝え教えようとする場面は多いもの。またそれが受け入れられた時、大人の側にとっての励みや救いになることも事実です。「なんでこの子は私の言うことを聞いてくれないのだろう」、子育ての現場でそう思うことも多々あるでしょう。僕は大人が子どもに投げかけることの全てが正しいとは思いません。何をもって正しいとするかにはまた別の問題が介在するのでこう表現するのですが、僕らがするべきなのは『大人が子どものためによかれと思うことを一生懸命考えて投げかけること』。『正しい・正しくない』で仕分けされてしまうものならば、大人の子どもに対する教育など出来なくなってしまうと思うのです。自分の行いを自ら振り返り省みることは大切ですが、『正しい・正しくない』で自分の心を縛り上げた結果、子ども達への投げかけが出来なくなってしまうようでは、リアルタイムで子どもに向き合っている僕達が子育てなどできはしないのです。 子ども達が僕らの言うことに同意し、従ってくれる時には必ず何らかのキー要素があるものです。納得、共感、尊敬、羨望、愛情、自己肯定、逆説、慰め、トレードオフ、ギブ&テイク、等々彼らの心のピースにはまり、彼らをその気にされてくれるものは様々です。幼い子ども達の思考においては論理と感情のバランスが感情に大きくシフトしているので、この子達の感情をくすぐるような投げかけが功を奏することが多いようです。理詰めで相手を論破しようとするのが大人の理論ですが、それは子どもにとってはただただ感情を逆なでし憤慨させる元でしかないもの。そんな時には言葉でまくし立てるのでなく何気に視点や話題を変えたりして相手の、そしてお互いの感情の高ぶりをリセットさせてみるのがいいでしょう。そんな時、おとぼけキャラは絶好のカード。相手が根負けして笑ってくれたなら取り付く島が出来たというもの。子どもばかりが憤慨して分からないようなことを言っているようで、実は自分も高ぶっていたなどと言うことはよくあることです。第三の人格を演じてみるのもいいかもしれません。硬軟交えて投げかけながら子どもの表情をよくよく観察します。とにかく相手の言う反対のことをやってみせる子どもなら(子ども達もいつも同じリアクションではありませんからそんな時には)逆説攻撃。「せん!」という子に「うん、うん、せんせん!、無理無理」と逆説的に切り返せば「するする!できるできる!」と乗ってくるもの。苦手なことに尻込みしている子ども達に「すっごーい!がんばってるー!」と叱咤激励してあげれば「うん、ばんがるー!」とその子に勇気が湧いてきます。「うわーお姉さん!」、「ん?赤ちゃんベイベー」と尋ね煽ってみせたなら「お姉さん!」とがんばって見せてくれたりもします。どの子にどんな投げかけという固定されたセオリーはありませんが、その子の表情を見ていればどんな言葉に反応し励まされ、その気になってくれそうか感じることはできるのです。もちろんいろいろやってやっぱりだめな時もありますが、手を替え気分を替えして投げかけることは僕らにとっても楽しくもありいい気分転換ともなるもの。僕は学生の時から実験&レポートの世界で勉強してきたのでこういうのは苦にならないようです。『自分は万能の神ではない』、それだけ分かっていればそれでいい。思いついたアイディアとそれを仮定とした方法論、そしてそれに対する子ども達の反応の観察を辛抱強くやっていれば、なんとなくその子その子の傾向や法則が見えてくるもの。その結論に支配されないように気をつけながら、『子どもは生き物、その通りにならないこともいっぱいあるし、成長に伴いその傾向も変わってゆくもの』、そのことを自分に言い聞かせながら、子ども達の反応を楽しみながら向き合っています。 たとえばお弁当のお話し。苦手なおかずやお弁当の完食に四苦八苦するのは毎年どのクラスでも必ずあるもの。しかしながら面白いことですがクラスのカラーや仲間意識と言うものは確かにあるようで、今年のたんぽぽさんにとっての『お弁当マジック』はご褒美の折り紙でした。がんばって食べたら何かひとつ折り紙をご褒美プレゼント。それに闘志を燃やしてがんばってくれたのがこの子達。人気アイテムは『女の子』、『ウサギ』、『さめ』、『金魚』、『パクパク鳥』、『イルカ』などなど。これが欲しくてお弁当をがんばってみせる子ども達。そのおかげかサンドイッチのキュウリを食べられるようになったり、食べられなかった子ががんばっているうちにうれしそうに「キュウリ大好き!」なんて言ってくれるまでになったりしてくれて、なんともうれしい『折り紙マジック』でした。また音楽会の時には「がんばったらこのサイコロプレゼント!」と言って差し出された折り紙6枚作りのサイコロにやる気をくすぐられたこの子達。「おもちゃの」と投げれば「チャチャチャ!」と返すパブロフの犬のような姿に思わず笑ってしまいましたが、これもその気になってくれました。今でも僕が何気なく折り紙を折っているところにやってきては、何も言ってないのに「おもちゃの、チャチャチャ!」と自分で振っては自分で返す姿に笑わされて、ついつい折り紙を大盤振る舞いしてしまっています。今では『おもちゃのチャチャチャ』は折り紙プレゼントの魔法の呪文となってしまったようです。まあそんな行き過ぎはありましたが、この子達にはがんばったらもらえる『トレードオフ』が励みのキーワードとなりました。 ここでこの子達から学んだこともありました。がんばってお野菜を食べるのですが、いつまでも飲み込めず口の中に食べたものが残ってしまう子が何人もありました。最初はわざとやっているのかと思っていたのですがどうも本人にもどうにも出来ない様子。いくら噛んでも口を開ければしっかりそこに食べ物が残っているその現象を不思議に思っていたのですが、ある時性根を入れて観察してみました。その子達の口の中を見てみるとその残った食べ物は歯の外側、歯とほっぺたの間に収まってしまっていました。だからいくら噛んでも噛めないのです。おそらく当初は噛めば美味しくない味が出てくるのでそこに押し込んで後でぺっと出していたのでしょうが、いざ食べようとしても無意識にそこに食べ物を押し込んでしまい噛めない状態になってしまっていたのです。なるほどと思い、その子にこんなアドバイス。「お口の真ん中、ここに食べ物を置いてかみかみしてごらん。すぐに小さくなるからそうしたらお茶でごっくんって飲んじゃったらいいよ」。その子はその通りにやってみせるとお茶でごっくん、口を開けてみればあれほど飲み込めなかった食べ物がきれいに無くなっていました。「できたじゃん!」と二人で大喜び。それで自信がついたのか、ものの食べ方が分かったのか、その子は野菜もちゃんと食べれるようになりました。僕らは子ども達の仕草って見ているようで見ていないこと、反省させられました。連絡ノートを書きながら時々振り返って「まだ終わらないの?」なんて態度ではきっと未だに食べられるようにはなっていなかったでしょう。手間隙かけて関わって、よくよく子ども達を観察することは本当に大事なことなのです。 これが2年前のばら組さん、今のすみれの子達なのですが、この子達の『お弁当マジック』は『抱き合わせおかずコラボレーション』でした。苦手なおかずと好きなおかず、一緒にお箸につまんで口の中に「あーん!」と運んでやるのが大当たり。 例えば竹輪が食べれない子には玉子焼きとセットにして口の中にほおり込みます。その子に「やっぱりまずい?」と聞けば「まずくない、おいしい!」と大好評でした。『お弁当マジック』と命名されたそのコラボ作戦。みんなお弁当箱を持ってきては「お弁当マジックして!」と口をあけて食べさせてもらったものでした。これも目先の味が変わることもあるでしょうが、食べさせてもらうことに対する甘えの容認や愛情確認などの要素が多大にあったと思います。このクラスの子ども達、真面目でおりこうちゃんであるがゆえに自分で抑えてしまっていた『甘えたい想い』や『淋しさを慰めて欲しい想い』、それを受け入れられることによってがんばる力を得ていた様に思うのです。今ではそんな昔話が懐かしく感じられるほどみんなたくましく素敵に育ってくれたのがなんともうれしい限りです。 そんなこんなの『子育てマジック、個々様々』のお話でしたが、やはり子ども一人一人に対する関わり方はその子その子に対して考え、投げかけ、観察し、確認してゆくべきものなのでしょう。こんな僕でも毎年新しく入ってくる子ども達との間には距離を感じてあせることがあります。それはそのはず、だってその子達のデーターはその時点ではまだ何もないのだから。つまりその子は何が好きで、何をうれしいと感じ、何を励みとしてくれるのか、それが分からなければ僕もお手上げだということです。何年教師をやっていてもそれは同じこと。だってその子は初めて出会った、ただ一人のその子なのだから。新しい環境、新しい相手にすぐにはなかなか心を開けずにいる子もかなりあるものです。僕がコミュニケーションの手段として、またその子との距離を測る尺度としてよくよく用いているのがカメラです。初めはデジカメに写ったその子の顔を見せてあげたりしながら話しかけてみるのですが、そんな子達は最初硬い表情、警戒や防備を感じさせるような表情をしているもの。でもこうやっていろんな球を投げかけ観察しているうちにその子のことがだんだんわかってきて、その子の『うれしい』を探し当て、ついに満面の笑顔に出会えるようになるのです。それほどに子どもの表情とは自分の想いを素直に表しているものなのです。一度我が子の表情をじっと見つめ覗き込んでみてください。言葉にならない、だけれどもお母さんに感じて欲しいと願っているこの子達の想いをきっと感じることができると思うのです。 教師と園児の関わり方は、母親と子どものそれとはまた違うもの。でも大人と子どもの関わりと言う点においては同じものです。何が違うのかと言えば教師か親かという『立場』だけ。肉親にはどうしても甘えたり感情的になってしまうものですが、それはそれでいいことです。親は親として子どもを愛するのだから。でも立場の違う教師の言葉に感じ入り、笑ってもらえたなら、次に子どもと向き合う時に違った心持で臨めたのではないでしょうか。そんなお母さん達への励ましになればと思い綴ってきたこの『園庭の石段・・・』、今年度もご講読ありがとうございました。 |