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<すばらしい日々1〜豊多摩高校生物部列伝〜> 東京に帰京した際に必ず訪れる飲み屋『麓屋』、そこに集い一緒に一杯やるのは高校時代の悪友たちですが近況話が尽きると話題はあの時代の話に移りゆき、閉店までその話題で盛り上がります。あれってなんでなんでしょう。一緒に過ごしたのはわずか三年足らず。でもあの三年間を一緒に過ごせたことが何よりうれしいことだったし、それを今更語り合うことが愉しみになっていると言うのは『僕らも若いつもりが歳をとった』ってことなのでしょう。人間、どれだけニヒルを気取ってみても自分を全て否定しては生きてゆけないものです。今の自分を感謝し、あの時の自分を認めることが出来る人生、人にとってそれが一番幸せな生き方なのかもしれません。そんな今の自分を与えてくれたあの時の自分と仲間達に感謝を込めて、昔話を思い返してみようと思った次第です。しばしのお付き合いを。 中学時代、体育会バスケットボール部に入りながら根性のなさゆえに退部してしまったことを引きずって、高校に入ってからもずっと帰宅部を決め込んでいた僕を部活の世界に再び引き戻してくれたのが前にもお話したKでした。彼は彼なりの友情とB型の『自分の世界に他人を引きこもうとする本能』で僕を生物部に誘い入部させてくれました。あれは高校一年の三学期のことです。蝶班だった彼は仲間を引き入れたく僕を誘ったようなのですがその時期に蝶がいるはずもなく、入部のためのプレリュードとして高校の裏にあった善福寺川緑地に僕を誘い、双眼鏡を渡してバードウォッチングを教えてくれたのでした。その当時、彼が貸してくれたテキストはHow To本ではなく小山田いくのコミック『ウッドノート』でした。主人公の高校生達が部活のバードウォッチングを通して友情を確かめ合い、非日常的な冒険を体験して成長してゆくというストーリーの漫画だったのですが、当時から勘違い派センチメンタリストだった僕は魅了され、そのまま鳥班に入ってしまったのは彼の計算違いだったでしょう。でもあの時、本当に親身になって鳥のことを教えてくれたKのこと、そして初めて見た鳥が都会では珍しいモズだったこと、今でも忘れていません。結局鳥班を選んでしまった僕をKは残念そうにしながらも認めてくれました。それからもKは一人で蝶や鳥を追いかけていました。蝶だけでなく音楽にしてもその他のことにしても思うがままに自分の嗜好を相手に投げかけてきたK。その熱さの割に相手に受け入れられなかった時のさばさばした態度が彼の男っぷりのよさだったと言ったらほめすぎになるでしょうか。 僕が彼のいた蝶班や甲虫班など昆虫採集系の班に入らなかったのは昔の自責の念があったからかもしれません。まだあちらこちらに空き地のあった神田川の畔に住んでいた小学生時代、昆虫採集は僕らの日常の遊びでバッタやコウロギ、アキアカネなどいろんな昆虫を際限なく獲っていました。たくさん獲れるということは人の心に増長を生みます。一つ一つの命を軽んじ、結果として無駄に死なせてしまった命もたくさんありました。だから今、子ども達に向って言っている「ダンゴ虫こわい!」と言うのは半分本当。目の前の小さな命に増長しないように、いつも自分に言い聞かせるように言うのです。「ダンゴ虫は大きくなったら王蟲(オウム)になるから」なんていつも冗談にして笑ってしまうのですが。 生物部に入部してから急に仲間が増えた僕でしたが冬は生物部のOFFシーズン、まだ見知らぬ部員達もたくさんありました。そんな中、放課後の部室にやってきては水槽を洗うだけ洗って帰る不思議な同級生がありました。それがあのIでした。二年生に進級した時にクラスメイトになったI、不思議なめぐり合わせだと今更ながら思います。彼は商売をしている家の手伝いのため慌しく帰る放課後も部室に顔を出し自分の仕事をやってのけてから帰宅する律儀な高校生でした。Kと対照的に全く押し付けがましくないI。他人にこびることなく全くもってマイペースな彼。相手に無関心なのかと思いきや頼られたときには親身に支えてくれる兄貴肌。Kとクラスが分かれIと同じになった僕にとって近しいものを感じることのできる一番の友達と言うか兄さんのような存在でした。この友情はその後20年間も続き現在に至るのですから若いときの直感と言うかインスピレーションというものは信じるに足るものだと今更ながら思うのであります。でもそういう彼もB型。類は友を呼ぶ?不思議なものです。 忙しいと言いながらもIの家にはよく遊びに行かせてもらいました。今は鉄筋仕立てのビルディングになってしまいましたがその当時は木造二階建ての日本家屋でした。土間のあるような間取りや薪で沸かすお風呂が田舎の日土(今ではそこに住んでいるのですが)の母屋を思い起こさせ、なんだか親しみ深いものを感じたことを覚えています。二階にあるIの部屋には畳敷きのしぶいベット。同じ高校生なのに少し大人びた嗜好がなんか妙に印象に残っている心象風景です。当時からIのお母さんにはお世話になり(それは今も変わらず甘えっぱなしですみません)、おやつだのジュースだのことあるごとにご馳走になりました。遊びに行くといつも出してもらったお店の『プラッシー』。チェリオでなくペプシやコカコーラでもないこのプラッシーが僕らの青春のシンボルと言ったら笑われるでしょうか。僕らは流行や大衆嗜好から一歩離れたマニアックな?でもアットホーム、そんな何の変哲もない等身大の高校生でした。この部屋でいろんな冒険の計画を練ったり準備をしたりしたものです。あの夜中の荒玉水道を自転車走らせて行った伝説の『多摩川の夜釣り』もそのひとつ。と言ってもそれもほとんどIに何から何までおんぶにだっこで連れて行ってもらったのでしたが。次回はその話から始めましょうか。(つづく) |