麓屋のカウンターに想いを寄せて〜書き下ろし昔物語〜 2009.5.27
<すばらしい日々5〜続生物部列伝〜> 
 その年の秋のこと、生物部同期の有志で東京の最高峰、雲取山に登ろうという話が持ち上がりました。それまで登山と言えば標高600mの高尾山がいいところ。それが2000mを超える山を登り、山小屋で山中箔しようと言うのですから結構な冒険です。まあこれも勝手知ったるKがリーダーシップを取り、何とか計画され当日を迎えました。僕はと言えばどのルートで歩いたのか思い出せないほど人任せお気楽モードで挑んだ雲取だったのですが、僕らはKに連れられて東京都の遥か果てまで電車とバスで移動し、登山を開始しました。参加したメンバーは全部で5人。生物部+天文部の友人1名でしたがみんなアウトドアには慣れており、それなりのペースで歩を進めました。尾根伝いに雲取に至る山々を縦走して行った僕らはその日の夕暮れ近くに雲取山頂の山小屋にたどり着きます。山小屋前では早くも先着のハイカー達がテントを張り始めていました。その『山らしい光景』を眺めながら山小屋の扉を開いた僕等は唖然としてしまいました。開いた扉の先では先客の登山家達が板間の上から土間の下に至るまで色とりどりのシュラフを所狭しと敷き詰め、そこにはすでに足を踏み入れるスペースさえ残っていなかったのです。その現実に愕然とした僕ら。山小屋と言っても無人の掘っ立て小屋で誰が使ってもいい緊急避難用のもの。先客がいれば「はいそれまでよ」なのにそんなことを全く想定していなかった僕たち。「山小屋は僕らのために待っている」くらいに思っていた僕らが携帯していた装備は街中で寒さをしのぐジャンバーとスリーシーズン用の薄っぺらな寝袋だけで当然テントの備えなどありません。すでにひんやりしてきた外気にびびりながらマヌケな高校生がどうするこうするで騒いでいると気の毒に思ってくれたのでしょう、先に山小屋に入って寝支度を整えていたおじさん達が「俺ら、テント持っているからここ使っていいよ」と自分たちの場所を譲ってくれました。僕らは深々と最敬礼のお礼を言って、その譲ってもらった土間のスペースにシュラフを敷きました。その瞬間やっとほっとひと心地つけたこと、忘れません。
 その後例のごとくレトルト夜飯を済ませ、あたりが暗くなるのを待って外に星を見に行きました。それはそれは見事な星空で、多くの星々に埋められ僕ら素人では星座を見つけ出せないほどの星たちでした。あれは僕の生涯イチの星空だったでしょう。寒い初冬の夜空なのに星の光が揺れているように見えたことを覚えています。星の光は強ければ揺れたり滲んで見えたりするものなのでしょうか。『星がまたたく』と言うのはこんな感じなのかと思ったものでした。夜風の寒さや山男達の情の厚さに僕らの目が潤んでいたのかもしれませんけれど。

 山小屋という天国に逃げ込んだと思っていた僕たちでしたが、秋山登山?はそう甘くありませんでした。ジャンバーを着込んだ上からシュラフに潜り込んでも冷え込んできた空気に身体が凍え始めます。しかしその寒さに耐えかねていたのは僕らマヌケな高校生達だけではなく、一緒にその小屋の中で夜を越していたほかのハイカー達も同じでした。そこに暖炉はあるのですが燃やす物はみんなそうそう持参していません。誰かが拾ってきたらしい薪もまだ生木だったのでしょう、なかなか燃え出してくれません。みんなして「なんかないか」とわいわいやっているとそこにいたおじさんが「油もっているよ」とサラダ油のプラボトルを差し出しました。「おお、これだこれだ」と暖炉の薪にふりかけたのですがかえって燃えが悪くなってしまったようです。そう、高温になってこそ発火もするサラダ油ですがたき火の上にかけたところで火勢を弱めるばかりだったのです。「そのままのサラダ油に火がつくかよ」とその結果を見届けてから小声で文句を言い出す僕ら。結局その山小屋にいた僕らを始めとする烏合の衆集団はその山小屋の中で凍えながら一晩を過ごしたのでした。人の温かさとそれを軽くこえてゆく標高2000mの山の寒さとをしみじみ感じた僕らでした。

 次の朝、僕らはいつものレトルト朝食を食べながらその日の日程について話をしていました。僕がその日の朝食べたのはパンだったかカロリーメイトだったそんなものだったと思うのですが、誰かがせっかく沸かしたお湯が余っているというのでレトルトのお赤飯を湯煎して温めてもらいました。その時は空腹も満たされていたのですが、まあ後で食べることも出来るしと思ってそうしたのですが仲間たちは「冷えたらそんなのおいしくないじゃん!」なんて冷たく僕を批評します。しかし後にそのお赤飯が僕らの命綱になったのは本当に皮肉なものです。
 雲取山頂を後にして縦走を続ける僕たち。そろそろお昼時になりました。僕らは地図を見ながら歩いていたのですがどうも道を間違えたようです。道を間違えたことには気づいたのですが、そのまま歩いてゆけばまた計画したコースに戻ることができるというのでそのまま歩いていた僕らに問題発生。「水場がない」。その歩いていた道には水場がなかったのです。山歩き用にポリタンクを持って行ったように思うのですが足取りの重たい2日目の山歩き、コースには水場もあるということで山小屋を出るときにお湯を沸かすための水を汲んで持って行きませんでした。それが僕らの命取り。腹をすかせた高校生5人が「めしーめしー」と騒ぎます。『背に腹は替えられない』と言うことで一人がまだ湯煎前のレトルト白ご飯を取り出しかじりつきます。「俺にもくれ!」とそれを奪いかじりつく仲間達。ぺっと吐き出し「まずい!」と面と向って言ってのける薄情さ。「おまえ、ひとのもの、それはないだろう・・・」と切なさ一杯の顔で白ご飯の持ち主が訴えます。そんな騒ぎの中、「朝温めたお赤飯あるよ」と僕が言うとみんなやってきて「おまえはえらい!」なんて言いながら5人で一口ずつかじりながら空腹を慰めました。日頃ひとのことをほめたこともないようなやつらが「冷めた飯なんて・・・」などと言った言葉などきれいさっぱり忘れた歓喜の顔で「えらい!」と言うのですから、みんなよほどひもじかったのでしょう。こうして『同じ釜の飯を食った』僕らはその後目的ゴールまで歩ききり、雲取山縦断登山を全員でなんとかかんとか制覇したのでした。

 Kはこの登山にカメラを持ってきたのですが途中で飽きたのか何なのか分かりませんが「貸してやる。撮っていいよ」と僕にカメラを渡しました。僕も言われるがままにカメラを構えてみましたがピントの合わせ方が分かりません。当時のカメラはマニュアルフォーカスでファインダーの中のマイクロプリズムでピントを合わせます。一眼レフを扱いなれない僕はその合わせ方がよくわからず四苦八苦したのを覚えています。でもあれは僕が一眼レフをちゃんと扱った初めての機体でした。その後Kの貸してくれたカメラと同じ機体、Nikon FE2を求め本格的に写真を始めた僕。プロになるほどの腕前にはなりませんでしたが、その趣味が幼稚園や教会で人に喜んでもらえるほどのものにはなったこと、いつかKにお礼を言わなければいけないでしょう。照れくさくていつのことになるやら分かりませんけれど。また麓屋で飲んだ時にでも。
 登山が終わった後、Kが「そのフィルムもやるわ」と撮り終わったフィルムをくれました。それが彼の友情だったのかただの気まぐれだったのか、はたまた現像代を惜しんでのことだったのかは今となっては分かりませんが、5人で写した雲取山山頂の看板前で笑う幼い笑顔を写した記念写真のネガが今も僕の手元に残っています。K自身にとっては決して深く考えてのことではなかったはずなのですが、僕の中に何かと残っているKの振る舞い。これが相性というものなのかもしれません。

 僕の今回の豊多摩高校生物部列伝はとりあえずここまで。またみんなで集まって麓屋で飲みながらなにか思い出したことがあれば続きはその時にでもしたためたいと思います。しかし20年も昔の記憶を急ぎ早で綴ってきたので思い違いもきっとあるはず。またそれも飲みながら仲間達で時代考証、裏づけ証言を重ねあいながら思い出をたどりなおしてみたいと思っています。だから近況報告が終わった後で延々とあの熱かった時代の僕らの青春話をまたみなで繰り返し繰り返し語ることでしょう。きっとまたこの夏も。





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