09キ保連四国部会研修会発題      2009.6.18
<キリスト教保育の取り組み>
 これは去る6月16、17日に行われたキリスト教保育連盟の研修会で僕が発題したスピーチの原稿です。日頃『キリスト教保育』と謳っておきながらその理念を言葉にしきれないもどかしさを感じていましたが、発表という場を与えられそのために自分の中で再考・再構築してみて、なにかひとつ手がかりがつかめたようなそんな気がしています。これが全ての答えでない事は重々承知しておりますが、どうぞ皆さんもご一読いただき保育について考える機会となってもらえたらと思います。

 私達、キリスト教教会につながる幼稚園ではどこでもそうだと思いますが『キリスト教保育』の理念に基づき、キリスト教保育を行っています。私の日土幼稚園でも毎朝クラス毎に礼拝を行い、週に一度の合同礼拝では3歳児から5歳児までみんなで一緒に聖書のお話を聞いています。これらは我々教師、そして保護者にとっても『キリスト教を教える保育』というものを体現化する大変分かりやすいカリキュラムです。しかし『キリスト教の理念に基づく保育』を語ろうとする時、とたんに皆五里霧中の中に立ち尽くしてしまうのではないでしょうか。分区の教会の研修会などでもテーマに上がるこのキーワード。各園の園長先生をもってしても「一人一人を大事にしています」、「公立とは違うんです」との答えしか返ってきません。確かにその想いや情熱は分かるのですが、公立や他の宗教系の幼稚園でも「一人一人を大事にしていない」なんて園はあろうはずないものですし、あってはいけないことです。園児の人数が多い少ないで『一人一人』の割合は違ってくるでしょうが。だから「一人一人を大事にしています」という言葉は決定的な答えにならないのではないかと常々思っていました。となれば明確に定義できる言葉が必要になります。僕はここ数年、このことについてたびあるごとに考えてきました。

 園の事情で一昨年の三学期と昨年一年間、僕はクラス担任を持つことになり、その事について子ども達と向き合って考える機会を与えられました。初めて持つクラスの運営に、子ども達への対応に精一杯努めながら、その中でもいつも『キリスト教の理念に基づく保育』を体現するためにはどうすれば良いかを考えながらクラス担任のありようを模索していました。でも初めにその定義は持っていなかったし、子ども達との関わり、問題となってくる出来事も一様ではありません。一つ一つの事例に、一人一人の子どもにその度毎に向き合いながら、その解決策を求めて行きました。
 キリスト教保育を行なうために偉い先生の講義本を読もうとは思いませんでした(すみません)。どこの世界にも『虎の巻』的参考書はあるものです。きっとその本を読めばある程度それに関する理念も分かったかもしれません。でも園長先生や牧師先生をもってしても一様の答えを得られないこのテーマ。その著者の解釈や理念は分かるかもしれませんが、逆にその理念に目の前の子ども達を押しはめてしまうのではないかとそんな気もしてその手段は取りませんでした。では何にその解を、そのヒントを求めたかと言うと「イエス様だったらこんな時、どうこの子に向き合うだろう」と考えるということでした。
 聖書にちりばめられたイエス様のエピソード。これは客観的に評価するととても複合的な複雑な面を持っています。だから聖書に基づいても『キリスト教保育』は一義的に定義できないと僕は感じていました。例えばこちらで言っていることと、あちらで言っていることが矛盾していたり、科学的考証ではつじつまが合わなかったりと、ひとつの定義で全てを表すことが出来ないのです。でもそれを良い悪い、正しい正しくないで総括する価値観を超えたところに聖書の考え方、宇宙観があると思うのです。「科学的に立証できないから信じない」ではなく、「信仰をもって信じ、受け入れる」、聖書はそのことを語っていると信じています。だから何かことある毎に、「イエス様はこのときこんな風におっしゃったよね」と聖書のその箇所を思い起こし、目の前の子どもにその想いを伝えたのです。
 『迷子の小羊』の話はキリスト教保育を語るにもっとも重要なエピソードだと思いますが、「皆を平等に扱うことよりも困っている一人のことをみんなで想おう」というメッセージは聖書のあちらこちらにちりばめられています。『放蕩息子の兄の言い分』、『ぶどう園で働く者がもらった賃金の話』なども実際に幼稚園で子ども達の間に起こるもめごとと本質的になんら変わりありません。物事を論理的に考えられる年頃になってきた子ども達は自分の正当性を主張し、相手の非を非難します。でもそんな時にはそれらのエピソードを思い浮かべながら子ども達と話し合ってきました。子ども達もお互いに自分の非を認め合いながら、赦し合い想い合い、納得してくれたものでした。

 もうひとつ聖書から感じられたこと、それは聖書におけるイエス様の言葉は常に講師的ではないということでした。正しい答えをバン!と提示して、「このように行いなさい」、お弟子さん達が「はい!」で百点満点!という話、なかなかない気がするのです。『2匹の魚と5つのパン』の話でもそうですが弟子達に課題を与え、「どうしてそんなことできるでしょう」と言う弟子達に「信仰の薄い者達よ」と諌めながらも答えをお与えになるイエス様。これって保育のスタイルのような気がするのです。
 幼稚園の保育において、「これをしなさい!」と模範解答まで提示してそれにどれだけ近い物が出来たかということを評価の対象とすること、よくあることです。これから小学校に入って『皆と同じことが出来るようになること』を求められている今の園児たちにはある程度必要なことです。時代が、社会がそれを要求しているのですから。でもそれに押しつぶされてしまいそうになる子ども達があることも事実なのです。「まずは自分の感じるままにやってみなさい」、そういう想いを僕はクラスの子ども達に投げかけました。年少から年中にかけての時期を共に過ごした子ども達、初めは自分に自信がなくお母さんともなかなか離れられないと言った子ども達でした。でも製作や歌・合奏などでも自由に自分を表現することを求められた彼等は自分のやる気に励まされ、がんばって出来るようになったことに勇気付けられ、自分というものに自信をつけて行きました。一枚の茶封筒を渡しただけで後は全部子ども達が色を塗り、ひれを切りして作ったこいのぼり。片面に目が二つあるひらめくんになったり、尾びれを切ろうと切りすぎて寸詰まりのたいやきくんになったりと、出来栄えを見れば「これがこいのぼり?」という製作でしたが一人一人の個性が刻まれてお母さんも一緒に大喜びしてくれました。それを見ながら子ども達と『泳げ!たいやきくん』でひと盛り上がり。みんなで歌を歌って、「今こんな歌を歌っています」とお家に報告したら、お母さん達にも『リバイバル・泳げ!たいやきくん』ブームが訪れて、ひところ園でお家で「まいにち、まいにち、僕等はてっぱんのー」と一緒に歌ったものでした。
 発表会の合奏ではピアノパートのキーボードを取り入れて「やりたい人?」と募ったら全員が手を上げ、みんなで交代でやることになりました。これも手を上げたものの、弾ける子ばかりではありません。それでも「やりたい!」というその子の情熱を買ってやってもらいました。本番でも補助の先生に指送りを教えてもらい、たどたどしいながらもがんばって弾いたその子。その子のがんばりとやる気を本番の舞台を見たお母さんもとても喜んでくれました。出来栄えから言ったら「みっともない!」と言ってやめさせるべきレベルのものでしたが、「危なげない完璧を見せるのが発表会ではない」、「その子のやる気をがんばりを育ててあげるための発表会でありたい」という願いからそういう判断をしました。その子は前ならできないことに「僕はせん!」と言って逃げてしまうような男の子でした。そんな子が人の前で、自分で完璧でないと分かっていても「がんばっている姿をお母さんに見て欲しい」と勇気を奮い起こしがんばってくれたのです。本当にうれしいこの子の成長でした。その子は発表会が終わった後もその曲を練習して、一人でちゃんと弾けるようになったそうです。これはうれしい事後報告でした。『発表会のための発表会』ではない『子どもの成長の糧となるための発表会』にできたこと、僕にとって大きな収穫になりました。

 日常の中にもめごとが起こったときに子ども達と一緒にしたのが反省会でした。「どうしたからこうなったんだと思う?」、「どうしてあげたらいいだろう?」、いつもそんな投げかけの反省会。聖書のエピソードの中にはイエス様と弟子達のやりとりが多く記されていますが、「言ったら悪いけれどこれってブービートラップだよな」と思えるものも結構あるのです。つまり言葉は悪いのですが、弟子達が引っかかりやすいように前振りをしているかのように見えることがあるのです。先の『2匹の魚と5つのパン』もそうですし、『嵐の中の小船』の話もそうでしょう。嵐の中、わざわざ同じ船にいながら寝ていなくてもいいのに…と思いたくなるものです。でもそれも幼いものに対するひとつのものの教え方だとも思うのです。最初から「私がいるから大丈夫」と言えば弟子達の中でも本当に信仰深い者達は安心したかも知れませんが、それは講師的指導になってしまいます。逆に言えば「イエス様がそこにいなければ大丈夫じゃないのか」ということになりイエス様の言いたかったことの本質は弟子達にそして聖書を読む私達に伝わらなかったかもしれません。後に十字架にかかり、弟子達と共にいられなくなるイエス様が伝えたかったのは『イエス様がいつも一緒にいてくださると信じることの大切さ』だったと思うのです。弟子達は自分自身の手で間違いを犯し、それを諌められて学んでゆきます。この自分自身で考え判断するということが人を成長させる上で重要なのです。だから反省会でも初めに答えは決して言いません。みんなで話し合いながら考えながら答えを探していきます。そんな時、僕が繰り出すブービートラップ。わざと違う『悪魔の誘惑』を口にして誘いますが子ども達は分かっています。決してそんなものには乗って来ません。そうやってみんなでいろんなことを話し合ってきました。

 こうやって僕の1年5ヶ月を振り返りながらそこにあった『キリスト教保育』についてもう一度考えてみるとなんとなくひとつの筋が見えてきました。聖書は神様はイエス様は、我々人間に自分で考え、間違いを犯しながらも正しい道を求め歩もうとすることを望んでいるのだと。間違いを許さないなら目の前に禁断の実のなる木(『善悪の知識の木』)を置いたりしないのです。それを望まないなら間違いを犯す前に「これが答えだ!」と正解を掲示し、禁断の木など切り倒してしまうことも出来るはずなのです。ではなぜそれをしないか。自分で物事を感じ、考えることのない木偶の坊が、自分で動くことの出来ない操り人形が百点満点の答えを出しても、それは神様の望まれていることではないのです。私達が育てている子ども達も同じです。自分の想いを表現し、自分らしさを糧にして、間違いながら失敗しながらも正しくありたいと祈り続けられる、そんな子ども達に育って行って欲しいと僕は願っています。私達にとって『キリスト教保育』はそのための道標なのです。私達は決してユダヤの律法学者達のようになってはいけないのです。規則や規格や枠組みを遵守し、そこに当てはまらないはみだした子ども達を良しとしないこと、それはキリスト教保育ではありません。枠の中に入れない迷える者、過ちを犯す者、悩める幼き者にこそ目を向け手を差し伸べて抱きしめてあげる、それがイエス様の愛だと、『キリスト教保育』だと思うのです。それが今の僕の精一杯の解釈、そして子ども達に対して出来ることだと思っています。

 ひとたびはここで締めたこの論文でしたが、これを繰り返し繰り返し読みながらなにかまだ足りなさを感じ、続けてペンを取ることにしました。ここまで『キリスト教保育』について語って来ましたが、では自分は、そして私達は日頃それがどれだけできているだろうかということ。確かにここに述べてきた事例においてはそういう意識が働いてこのような投げかけをしてくることが出来ました。でもそうでなかったこともあったはず。「全てがうまく行きました」なんてことあろうはずもないのです。自責の念を込めて今更ながらそう思うことが沢山あります。日々の保育は子ども達を目の前にした一挙手一投足がリアルタイムのぶっつけ本番勝負。子ども達の想いを踏みにじってしまっていることも必ずあるはずなのです。
 教師などという職業を長いことやっていると、自分が『律法』だと思うことないでしょうか。「そんな大それたこと・・・」と皆さん言うかもしれませんが、では「右向け右」と自分がかけた号令に従えない子どもを疎ましく思った事はないでしょうか。自分からはみ出る子ども。自分の理想とそれを実現してくれない子ども達、その関係の中に葛藤が生まれます。その時どちらを救うか、選択を迫られます。初めは「ああしたらどうだろう」、「こうしてみれば」一生懸命その子だけを見つめてその子のために全身全霊をつくすことでしょう。そう、99匹の羊を残して迷子になった一匹を探す羊飼いのように。でもそうしたからといって子どもは必ず応えてくれるものでもありません。だんだんと苛立ちを覚えやがてその一頭から心は離れ、「私にはクラスがあるから」と自分に言い訳しながら迷子の羊を置き去りにしてしまうこと、あるのではないでしょうか。でもそれは99匹と一匹、どちらを救うかではなく『自分と迷子の一匹』どちらを救うかの選択なのです。迷子の一匹を救うために自分を否定しなければいけないつらさに耐えかね、迷子の一匹を否定することを選んでしまうのです。「あの子はああいう子だから」と。
 そう、それが生身の教師の限界だと思います。僕自身も子どもと相対したその瞬間その瞬間にそんな思いにかられたことが何度もありました。でもそんな時は家に帰ってその子とその時の自分を思い返します。「出来なくて一番苦しんでいるのはあの子自身なんだから」、切なそうなその子の顔が心の中に浮かんできます。そしてニュートラルになった感情をもってもう一度子ども達のことを想い返すのです。「そう、僕達に出来る事は繰り返し繰り返しこの子達の心に種をまくこと、投げかけ続けること。『成長させてくださったのは神です』の言葉どおり、それに応えられないのはこの子のせいでも自分のせいでもない。その時がまだ来ないから。いつかきっと神様がその時を与えてくださるのだから」と自分に言い聞かせ、子ども達そしてお母さん達を励まし続けました。
 これがキリスト教保育のもうひとつ素敵なところ。イエス様が一緒に私達の心の重荷を背負ってくれるのです。現代の成果主義では責任問題が必ずついてまわり、誰かがどこかで傷ついています。それが保育の現場では子どもであったりお母さんであったり、そして教師であったり。もちろん子ども達の成長を願い、みんなができる限りのことをするのは当たり前として、がんばったあとは神様にお任せすればそれでいい、その時を与えてくださるのは神様だけなのだから。そんな境地を悟ってから僕も子ども達も、そしてお母さん達もみんなとても楽になれました。誰も否定しなくてもいいのです。皆で信じることからキリスト教保育は始まるのです。
 子ども達は大人のそんな想いを敏感に感じ取ります。「あの子はダメって言われたらどうしよう」、「出来なかったらどうしよう」、そんな想いに苛まれ涙を流していた子が、「できなくてもいいんだよ」と声をかけられた途端にできる子になってしまう不思議。自分を否定されることへの恐怖が心を硬く縛り付け身動きできないようにしてしまっていたのに、肯定された途端に自分の心で力いっぱい羽ばたき期待に応えて見せてくれた子ども達。でもそれが私達の目の前にいる子ども達の姿なのです。自分の心を閉ざしてしまった時には一歩も前に踏み出せなかった子が、心の呪縛から解き放たれた瞬間に自分の足でどんどん先に歩いてゆけるようになること。このことが教えているのは我々が子ども達に教えるべきものは歩き方や足の運び方ではなく、「思うようにやってみればいいんだよ」と伝えてあげること、そのことではないでしょうか。「安心して行きなさい、あなたの罪は許された」と言って私達を丸ごと肯定し、心を苦悩から解き放ってくださったイエス様のように。

 結局改めて論じてみて分かったこと、私達は『キリスト教保育』などできていないということ。自分自身のかわいさゆえに子ども達を否定してしまう私達にそれが出来ているなどと言えるはずもありません。でも私達はイエス様が身をもって示してくださったキリストの愛の形を知っています。それを園の中で具現化するのが『キリスト教保育』であり、それを心に掲げ、そうありたいと願う事はできるのです。そこには子ども達の心を救ってあげられる何かが、私達大人が救われる何かが必ずあるのです。それが何かは一人一人にとって違うけれど。
 私達はキリスト教保育を抱きしめながら子ども達と向き合うことによって日々の自分を、自分の保育を見つめなおし、神様から私達に預けられた子ども達を導いてゆくことを業とする『キリスト教保育者』なのです。今日はそのことを自分達の胸にもう一度問いかけ、確かめ合えるひとときとなればと祈っています。


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