園庭の石段からみた情景〜園だより7月号より〜 2009.7.12
<夏にきらめく命>
 空梅雨がささやかれる中、いったん雨が降り出せば梅雨末期の土砂降り雨と雨あがりの晴れ上がった青空の繰り返し、今年の梅雨はどうなってゆくのかまだまだ先は見通せません。生活のリズムを狂わされた大人にとっては「もう勘弁」の梅雨ですが、子ども達はこのドラマティックな季節を堪能している様子。毎日入れ替わり立ち代りで訪れる珍客の訪問に喜び勇んで過ごしています。

 ある朝、玄関のすのこの前をサワガニが歩いているのを発見。サッシの敷居をまたいで入ってきた訳でもないでしょうから、ずーっと続いている母屋の縁の下を伝って歩いてきたのでしょう。ここぞとばかりに捕まえて観察ケースにお入り願いました。このサワガニ獲りもなめてかかると指を挟まれ、文字通り痛い目にあいます。「こうやって背中からはさみの付け根を持てば挟まれないんだよ」とカニ取りの極意を子ども達に伝授、自分たちもカニ取り名人になった気分で神妙に聞き入っていた子ども達でした。
もも組の部屋に置かれたサワガニ君、朝来た子から朝の片付けそっちのけにみんなの注目を浴びています。そう、僕も子ども達もサワガニの事は知らないことだらけ。みんなを引き連れ図書室に図鑑を探しに行きます。本の数だけは数え切れないほど並べてある図書室ですがなかなか目当ての本を探し出すことが出来ません。子ども達もおぼつかない読解力で「か・ぶ・と・む・し、これじゃない」とか言って背表紙を読みながら検索しています。ある子がみつけたサワガニの本。お部屋に持って行って早速広げて見てみました。はさみの大きさが左右で違うこのカニ君。シオマネキがそうだという事は知ってた僕ですがサワガニもそうなのか、これはまた違う種類のカニなのか、それが知りたくて読み進めてゆきます。すると記述がありました。サワガニのオス、これは右手のはさみが大きいのだそうです。子ども達と顔を見合わせて「そうだったんだあ」とすっきり納得出来ました。
 「帰るときには放してあげようね」と約束して滞在をお願いしたサワガニ君との一日は広がってゆきます。お帰りの時間にはあの探してきた『サワガニの本』を先生に読んでもらったもも組さん。サワガニの秘密を知ってますます彼に熱い視線を送り、そしてちゃんとその日の最後にはサワガニ君にお家にお帰りいただきました。たった一日のサワガニとの関わりのひとときでしたが子ども達はその喜びと感動、そして知識欲と探究心を十分心に感じてくれたことでしょう。その週末にあった絵本の貸し出しでこの『サワガニの本』を借りて行った子もいて、とってもうれしかったです。ひょんなことから幼稚園に迷い込んだサワガニ君、いい仕事をしてくれました。

 また大雨が降った次の朝、園庭のマンホールに流れ込んできた砂場の砂をさらっていたら、そこに黒いものがゆらゆらと身をくねらせて泳いでいる姿を見つけました。いもりです。幼稚園では印刷室にやもり君が棲み付いており、寒い冬などには暖を求めてコピー機のガラスの上で昼寝をしていたやもりが飛び出してくるなんてことがよくありますが、いもりはなかなか見かけません。この大雨で山の上の溝子に棲んでいたいもりが流されてきたのでしょう。いもりくんを捕獲しようと水をさらうと濁ってその所在が分からなくなります。子ども達と一緒に作戦を練り、色々挑戦しますがなかなか捕まりません。そこで砂場遊びのざるを水の中に沈め、いもりが入り込んでくるのを待ちました。ざるを入れたときに濁った水が透き通るのを子ども達と一緒に息を潜めて見つめます。濁りがおさまってくるといつの間に入ったのでしょう、ざるの中にはすでにいもり君がいるではありませんか。急いでざるを引き上げめでたく『いもり君確保』と相成りました。
 そこからまたみんなで図書室に直行です。いもりが載っている本はなかなか見つかりません。『いもり』って専門書はあまりないですから。『水辺の生き物』や『かえるの仲間』の本を開きいもりが出ていないか探します。この『紙をくって探す』ということに僕は初歩の学びを感じます。その前後のページからいもりの仲間や生態の傾向を察することが出来るからです。実際子ども達は隣に乗っていた怪獣のようなオオサンショウウオに感嘆の声を上げ、「これ捕まえたことある」としっぽの青いトカゲを指差してうれしそうに語って聞かせてくれました。

 次の日はそのとかげくんが登場。雨あがりの園庭に干してあったブルーシートの陰にとかげくんを発見。このとかげくんは捕まえるのが一番難しいのです。無理に引っ張ればしっぱが切れてしまうし、すぐに狭いところに逃げ込んじゃうし。でもこのときはそっと包み込んだ手のひらの中に上手に納まってくれたとかげ君を手づかみで捕まえることが出来ました。抵抗するとかげに噛まれながらも、「あっ、噛まれた。でも歯がないんだ、痛くない」なんて新たな発見に感動したりして。すると横にいた子が「そうよ、とかげって噛むんよ」とささやき、『僕は知っている』と誇らしげな顔をしていました。そう、自然を相手にしているときにはどっちが教師か子どもかなんて関係なくなるのです。先に経験した者が先生となるのです。もやしっ子だったお父さんよりこの子達のほうがよっぽど自然博士なのかもしれません。そんな時はただただ目の前の子ども達がまぶしくたくましく見えるものです。
 ケースにお入りになったとかげくんをすみれの男の子があっちこっちに連れ歩いていました。本に『ダンゴ虫を食べるとかげの図』を見つけ、餌を探してやろうと思ったのです。でもそのうち違う遊びに夢中になり、とかげの入ったケースを失くしてしまいました。「どこやったの?」の問いに訳がわからない困惑の顔をしている男の子。僕がいつになく真顔で問いかけるので自分のしたことの重大さを感じ取ったようです。「あんな中に入れられたままじゃ、死んじゃうんだよ」、これはその子に言いながら自分自身に訴えていた言葉でした。自然や生き物とのふれあいを通して命の大切さを伝えようとしたつもりだったのに、僕は今そのかけがえのない命をおもちゃにして奪ってしまおうとしている。そうは絶対したくなかったので一生懸命探しました。お帰りの時間で探しにいけなかったその子の代わりに。他のクラスの部屋を見て周り、砂場や園庭もあっちこっち探しました。そして最後にすべりだいの下においてあったあのとかげの入ったケースをやっと見つけたのです。そのケースを持って男の子の元に馳せ参じます。「すべりだいの下にあったよ。生き物と遊ぶ時にはちゃんと最後まで面倒をみなくっちゃだめ」と言う言葉に「ごめんなさい」と神妙な面持ちで答える男の子。このとき一番ほっとしていたのはこの僕だったでしょう。

 自然、そして命を教育の中に持ち込む事は大切なことですがその用い方はとても難しいものです。捕まえたものを飼育することには『小さな命のお世話することによって思いやりの心を育てる』という目的はあるものの、その用いられ方によっては人間の絶対化、特別意識を育ててしまう可能性もあるからです。確かに本物の命を身近に感じ向き合うことは大切です。バーチャルのペット育成ゲームで命と関わっているつもりになっているものなどはどれだけいいか分かりません。バーチャルゲームは嫌悪感を感じさせないようにできています。死んでしまってもリセットすれば生き返るし、ものによってはあるところから再現できたりもするのです。でもそんな命ってあるでしょうか。そんなものに育てられた人の心ってどうなるのでしょうか。人間は偉い、人間は強い、と神にでもなった錯覚を起こさせるだけだと思います。人の手ではどんなに小さな命一つさえ作り出すことは出来ないのに。
 本物の命を相手にしているとき、それが失われれば悲しいと感じ、それが自分の手によるものであるならば罪の意識を感じるはずだと我々大人は思いがちですが、それは大人や社会によって育てられた意識だと思うのです。それは「命は大切だよ」と教え教えられしてきたからこそ感じる心であって、原初の自然に近い子ども達の心は必ずしもそうではないはず。むしろ生物としての他の生き物を捕獲しようとする本能と、他の生き物に対する好奇心からその命に対して残酷なことをしてしまうことが往々にしてあるはずです。それを「いけないことだよ」ということを教えるのが大人の役目で、それを感じさせてくれるのが本物の命達なのです。
 子ども達は喜んで獲ったダンゴ虫をプリンカップに入れてその後忘れてしまいます。そして数日後にカラカラになって死んでいる死骸を見つけることがあります。子ども達に殺意や悪意は決してあるわけではなく、その命を軽んじてしまうことにより起こる出来事です。でも生き物の命を扱う以上、それは決して忘れてはいけないことだということを私達がこの子達に教えてあげなければいけないのです。「あ、死んじゃった」で終わらせてはいけないのです。

 僕は幼稚園に遊びに来てくれたこのサワガニ、いもり、とかげはみんなその日に自然に帰しました。他の生き物を捕まえたときもいつもそうしています。それはなぜか。彼らは自然の中で自分の力で生きているからです。その彼らを飼ってお世話しようというのは基本的には人間のエゴ、神格化だと思うのです。彼らは人間に餌を与えられてケースの中で安全に生きるより自然の中で自分の力で生きることを望んでいるのです。あの捕まえたいもり、目の前に餌のいりこがあるのに一切目もくれずケースの壁をずーっとよじ登ろうとしていました。あの「外の世界で生きたい」という彼の想い、子ども達に伝わったでしょうか。だから子ども達を納得させる時にはいつも「このいもりもお家に帰りたいって言ってるよ」と擬人化して子ども達の心に訴えかけます。「みんなもお母さんの所に帰りたいでしょ」と。
 それでも自分を棚に上げて子ども達はでんでん虫やダンゴ虫をお家に持って帰ります。人間は経験をしないと分からない生き物なのです。毎日餌を食むでんでん虫を見つめ愛しく思ったり、ダンゴ虫の死骸を見つめ「やっぱり帰してやればよかった」と後悔したりして命の大切さを学んでゆくのです。だからその生き物達の「自然で生きたい」という想いや本物の命と引き換えに、大人はその命の大切さを教えなければならないのです。僕自身、この小さな命達と向き合うとき、幼き日に自分の手をかけたトンボや蝶などの小さな生き物達のことを思い起こします。彼らは命をかけてその命の大切さを僕に教えてくれました。キタキツネは親が獲って来た餌のねずみなどを半殺しにした状態で子どもに与えることがあるそうです。子ギツネ達はそのねずみをいたぶりながら狩りの方法を学ぶのだという話を聞いたことがあります。私達がしていることもそれと同じようなことなのかもしれません。でも命との付き合い方を知らないで大きくなった子ども達は、人の命との関わり方を知らず命を軽んじる大人になるであろうと現代の悲劇的な事件が訴えかけています。

 自然は大きな教室です。命のきらめきを見せてくれ、学びの心を呼び起こし、命の儚さと大切さを教えてくれる大切な教材です。でもそれをどう用い、教えるかは私達大人の心にかかっているのです。そのために私達自身がしっかり自然と向き合い、真摯な態度で自然やそこに生きる命を見つめなければと思うのです。これから命きらめく夏本番、どうぞ小さき命の想いや重みを感じながら子ども達と一緒に心ときめく夏を過ごしてみてください。では、よい夏休みを。


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