ひとり股旅、心の軌跡(ローカス)          2009.8.24
<'09夏・帰京1〜弱さに向き合う勇気> 
 この夏は日曜学校のキャンプ、幼稚園の夏期保育が早々に終わり、久々にゆっくりした日程の夏休みとなりました。そうとなるならば計画の根幹に据えようと想いを寄せるのは楽しくもきつくもある車での帰京。行き帰りの道中撮影旅行、ギターを積んでの歌い旅、東京エリアでのドライブなどなど、ただの一度の帰京がいろんな可能性へと膨らんでゆきます。問題は東京に行き着くまでの夜をどこで明かすかということ。三年前の自動車帰京では度々マーチの中で夜を明かしましたが、あれは結構きつかった。昔、宮崎駿の映画、『カリオストロの城』を見て以来、スモールカーのファンになってしまった僕。ルパンと次元があの狭いフィアット500で旅する姿に憧れた記憶が僕をマーチでの旅に駆り立てたのですが、あの中で寝付くことはなかなか出来ませんでした。それはそうです。窮屈さを感じることのないアニメーションの車の中と実車の中の生身の人間では、感じ方が同じであるはずがありません。それを身を持ってして体験しないとわからない人のおろかさ(僕だけかも知れませんが)。ひたすら下道を走って、狭い車の中で寝て、やせ我慢の中、一人ロマンを追い求めたのが前回の車旅行でした。
 その反省を踏まえ、今年はブルーバードを旅の友に選びました。乗り始めてからすでに十二年。日土にやってきてからは小回りの利かなさのゆえにマーチに主役の座を譲り、寂しい想いをしているに違いないブルーバード。当時の最先端技術CVTと日産4気筒のフラグシップを誇ったSRエンジンは今でも健在です。『SSS』の称号を頂いている割にはソフトにチューニングされたサスペンションが少々物足りなさを感じさせますが、走り出せば足腰の確かさを感じさせる往年の名車です。2000kmにも及ぶ長距離のドライブと車中泊にしんどさを感じるようになってきた今日この頃。これが最後の車旅になるかもしれないと、そんな予感も感じながらそのパートナーにブルーバードを選び、思いつくだけの荷物を積み込んで今回のドライブをスタートさせました。

 「お互い、よく走ってきたよな」と古い友の労をねぎらうようにゆっくり走りながら東京を目指します。昨今のETC割引のおかげでずっと高速道路をイージードライブ。交通状況を適切に判断しながらも、頭の中は真っ白に無負荷状態へとリセットされてゆきます。こういう時には長い旅がいいものです。時間だけは腐るほどあるのですから。そのゆっくり流れる時間の中に身をゆだね、自分のこと、家族のこと、周りの人のことなんかをひとつふたつと思い起こします。
 出発する時に見送ってくれた両親や夏休みで遊びに来ていた甥っ子達の「いってらっしゃい」の言葉に思わず涙が滲みそうになり、それを振り切るように車に飛び乗ります。別れの情景は僕の苦手。昔、夏休みを終え東京へと帰る国鉄八幡浜駅に見送りに来てくれた祖母との別れがなぜか悲しく、電車の中、母の膝で泣き通した、そんな記憶までも蘇えってきて今回の旅立ちをメランコリックなものにしてゆきます。でも旅の始めなんてそんなもの。日常に背を向け、非日常の扉を開こうというのだから。旅はどこに?がっているのかそのはじめの瞬間には誰にも分かりません。過去の思い出を探しに行くのか、今の自分に向き合うために出かけるのか、これから進むべき道を見定めに行こうというのか。それを感じ、考えながら、自分なりの何かを掴み、必ずここに帰ってくるというのが旅というものなのでしょう。

 そんなことを考えていると「ここから逃げ出したくて、僕は今、この車を走らせているのだろうか?」、そんな自問自答にたどり着きます。現状の自分からの逃避、そんな要素は少なからずあるのかもしれません。今年の旅のはじめは少しへこみモード。「でも今の自分を受け入れるところから始めないとこの旅はちゃんと終われない」、そう思いました。自分の弱さを肯定し、それを認めてもらえることによって初めて、人は今の自分より強くなれるのだと思うのです。
 自分の弱さを感じた時、その弱さが子ども達の弱さに思い結ばれ、その心の弱さゆえに涙していた子ども達の顔を思い起こしました。淋しいことですが本当に相手の想いを感じてあげられる瞬間とはそんな時にしかやって来てくれないのかもしれません。強い人はなおさら、相手の弱さや涙に苛立ち、泣いてる相手を更に追い込んでしまいます。大人はいつも「もっと強くなりなさい」と子どもに言いますが、「強いふりをする前にちゃんと弱い自分と向き合わなければその子の心はこわれてしまう」と僕は思うのです。泣きたい時は気の済むまで泣いたらいい。心も身体も疲れたときには「もうダメ」と声に出してギブアップをしたらいい。それがその時の偽りのない自分自身なのだから。弱い自分をちゃんと発信できたならそんな弱い自分、何も出来ない自分でも受け入れてくれる人がきっと現れてくれるはず。それは父親かもしれないし母親かもしれない。兄弟や家族、友人や好きな人、そして教師だってその人になれるはず。そんな弱い者を思いやれる優しさ、その愛の象徴としてただただ私達を優しく深く受け止め、それから進むべき道を示してくださるイエス・キリストがいるのです。だから僕は今の自分を赦されたものとして受け入れ、東京へと車を走らせます。「逃げてもいいじゃないか。ちゃんとここに帰って来て、もう一度ここからはじめられるならば」。

 その晩は信州霧ケ峰の駐車場で月明かりに照らされながら眠りました。それは心の闇を照らし出す希望の光のようで心地良く、いつになく安らかに眠りについた僕でした。それが今年のひとり股旅、第一日目、僕の心のローカス(軌跡)。


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