ひとり股旅、心の軌跡(ローカス)          2009.8.26
<'09夏・帰京2〜アナログな心> 
 少しずつ白んできた夜空、それが2日目、車の中で目を覚まし、最初に僕が目にした風景でした。さすが『霧ケ峰』というだけあって空は曇天、周りには霧が立ちこめ、地平線すれすれの低いところにだけ朝陽を当てた明るい空が見られる不思議な世界。「今日、写真は無理かな」と思いながらもごそごそと起き出し、出かける準備を始めます。車を出て、霧ケ峰の高台に向けて歩き出しても、周りに見えるのは鉛色の空だけ。でもただただ僕の好きなあの丘を目指して歩いたのでした。「なぜ?」、「写真が撮りたいから」、きっと違うと思います。だって写真が撮れそうもないこんな天気を承知の上で登っているのだから。きっとあそこに行きたくって僕は歩いているのです。ただただそれだけのために。
 何の計算も勝算もないままに登った丘の上。見通しの利かない景色を前に、しばらく、いや少し長いくらいの間、そこから大好きな霧ケ峰の風景を眺めていました。高原の朝はすがすがしく、肌寒ささえ感じます。上空をものすごい勢いで風が吹いているのでしょう。だんだんと雲の形が変わってきました。一面の曇天が形ある雲を作り出し始めました。低く重く立ち込める雲に高いところで筋のように流れてゆく雲。それによって生まれた空の隙間から朝陽の光がこぼれ出します。これはきっと神様のご褒美。雲と光の織り成す、僕が好きだったあの高原の風景が目の前に突然現れました。カメラのファインダーを覗きながら写真に切り取ります。僕のフィルムのカメラは現像が上がってくるまでどう写っているか分かりません。でもだからこそ想像したより遥かに素晴らしい写真が撮れていることもあるのです。もっとも失敗もその分多いのですが。失敗の数だけ自分は多くのことを学び、自分を育ててゆく糧になるのだと僕は信じています。

 ここでデジタル文化一考。デジタルカメラの画像は成果主義。「よく撮れている」と皆に評価され、失敗の少なさにもてはやされています。もっとも失敗しないのではなく、写りの悪い写真はその場で消去され、その痕跡を消されてしまっているだけなのですが。確かにデジカメは仕事の上でとても便利で効率のいいものです。でもその中から自分のやってきたプロセスや結果を意図的に削除すれば、「いい写真が撮れればそれでいいのか」という疑問に突き当たります。少なくとも自分のために写真を撮るという事は、その過程を、そしてその瞬間瞬間の自分を愛しみそこに刻み込むことなのではないかと思うのです。僕がリバーサルフィルムに撮った写真は現像され、スリーブという6枚ひとつづりのポジで残されます。そこには最終的に選んだ写真に行き着くまでの僕の思考や迷い、失敗なども全て焼き付けられ残されているのです。
 デジカメに罪はありません。それを使う人の心の問題。バーチャル社会の危険性を感じながらも便利さなどのためにTVゲーム、デジタル家電を何の疑問もなく操り、知らず知らずのうちに心の中に成果主義、潔癖主義、排他的心を育ててしまっていませんか。失敗したらリセットし、うまくいかなかったら消去して、きれいでないもの、ちゃんとしていないものは認めない、そんな心が僕らの中にきっと当たり前のように存在するようになって来ているのではないでしょうか。その対象が写真やデータだから何も考えずに消したりリセットしたりできるのですが、『消す』ということは『消されるもの』があるということ。もしそれが意思あるものだったら。それが命あるものだったら。そしてそれが人間だったら。恐い気がしませんか。
 『気に入らないものは消去する』、そんな文化の中で育ってきた人間がその感性をそのまま生き物や対人関係に持ち込んだとしたら。「そんなに人間は馬鹿じゃない」と笑うかもしれませんが、それが現代の動物虐待や無差別殺人などの構図であり、我々誰もが潜在意識の中にその可能性を持っているのだと感じるのです。昔から物語や漫画の中で描かれる「あいつきらい、消えちゃえ!」のストーリー。往々にして最後は虚無と後悔の中、呆然と立ち尽くす主人公が取り残されることによって、社会に対してこの思想の危険性に警鐘を鳴らしてきました。それがデジタルの時代になってその逆をやっていると思うのです。ゲームで相手を撃ち殺せば気持ちいい、自分が負けたらリセットで生き返る、必要ないものは消去でさっぱりしたい。これらが子ども達の心を育てて行ったとしたら、恐いことです。
 また教師や親の側も同じ。「なんでできないの!」とできないことをけたたましく非難され、心に傷を負っている子ども達が沢山います。『ちゃんとできること』は大切ですがそれが出来ないからと言ってその子を否定し切り捨てること、これこそデジタル思考だと思うのです。できるかできないか、1か0か。アナログにはあいまいな線がありました。『どこまでならできる』、『これじゃなくこっちならできる』、そういう逃げ道、回り道を経て自分に自信をつけ、いろんなことに挑戦し、いろんなことが出来るようになってゆく、そんな心のゆとりが子ども達を救ってきました。みんなと一緒のことが出来るようになる事は、社会に参画してゆこうとする子ども達にとっての課題かもしれません。でもそれが出来るようになるまでゆっくりと「ここまでできた!」、「これはできた!」と根気よくその子に付き合ってあげるのが幼児期の教育であり子育てだと僕は思うのです。時間を惜しんで、先を急いであくせくしても、それ以上に大切な仕事も課題も今の私達にはないでしょう。先回りして「できた!」の結果だけ手に入れても、子どもの心を置き去りにしてはその子もまた、人を1か0で評価するデジタルな人になってしまうから。
 今回は写真の話からデジタル文化論になってしまいましたが、文化は人の心が作り上げるもの。デジタル時代にも「アナログな心を忘れないで」と願っています。


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