ひとり股旅、心の軌跡(ローカス)          2009.8.26
<'09夏・帰京3〜自然が教えてくれたこと> 
 もう一度、場面は霧ケ峰に戻ります。変わらぬ姿で僕を迎えてくれたこの丘の上から遥か遠くを見渡せば、連なる山並みが目線と同じ高さに臨めます。この風景をぼんやり眺めながらふと思うのは、「人はなぜ自然を愛するのだろう」。そんなこと今まで考えたこともなかった僕ですが、こんなゆったりした時間の中で大きな自然を目の前にしているとそんなことも考えてみたくなるものです。
 田舎暮らしがイヤで、みな都会に憧れ出てゆくこの時代。でも鉄筋仕立てのマンションの中でも植物を育て、休みの日には都会近郊の自然に向けて車を走らせるのが現代人。自然の中で暮らすことは望まないが、自然を感じる生き方をしたい。「自然に癒される」と言葉で言ってしまえば簡単なものですが、何に対して私達は『癒し』を感じるのでしょう。僕は自然の持つ『不変と再生』という特性に人間は癒しを感じるのだと思うのです。

 マクロの視線で見るならば、自然は我々の生きている時間の流れの中ではゆったりと安定しているものです。我々の変化に比べ、自然や地球といったものの変化は時間をかけて緩やかに行われます。それが人にとっての『不変』。人間が意図的に壊さなければ、自然はその姿を長い時間そこに留めておいてくれます。僕は今、初めてここに登った二十年前と同じ感動でこの風景を見つめています。どこまでも広がる草原、中景に林が広がり、遠くには遥かなる山々がそれらを包み込むようにそびえています。このイメージは昔から少しも変わりません。都会だったら5年もしたらあれほどに流行っていた店舗が閉店し、こちらの空き地にビルが建ち、再訪する者の目にその変化の激しさを感じさせるでしょう。だから都会は恐いのです。「おまえなんか知らないよ」と言われているようで。だからいつまでも変わらないこの風景に出会えたとき、「僕を迎えてくれている」、とそんな想いを感じるのでしょう。
 でもこれが人の手で作られたものであるなら、二十年も経てば傷み、風化してしまいます。何百年も建っているお寺や文化財も、それを守り補修する人がいてこそ現代まで受け継がれてきたのです。それが自然では『再生』というメカニズムで毎年毎年、その姿を受け継いでいます。目の前に生えている草花、この命は花であれば二週間ほどのもの。草だって冬を越すものはあまりありません。樹木は一年で大きく枝を伸ばし、新しく生えるもの、枯れて倒れてゆくものが入れ替わり立ち替わりその森を作っています。だからミクロ的に見れば、これらはどんどんものすごい早さで変わってしまっているのです。でもそれは個でありながら全、どうしてもその個でなければならないというものはそこにはないのです。ただただ命をつなぐための個が入れ替わり立ち代りしながらそこにあり続けている姿が我々の眼には変わらない風景として映っているのです。それが『再生』。自然がいつまでたっても瑞々しいのは絶えず新しい命によって支えられているから。個々の命はいつも新しく再生されているのに、全体を見ると昔と変わらず同じイメージで存在できる自然。人はそこに自分が生きること対する願い、変わらぬ若さと自分らしさを投影しているのかもしれません。

 でも私達人間は一人一人が『どうしてもその個でなければならない』という存在です。それは神様が私達に『この世に生まれてきた理由』を与えてくださったから。人は理由なしには生きられません。「自分はなぜここにいるのか」、「自分は何者なのか」、そのことをいつも自分に問いかけています。そしてその答えとして、自分は人に愛されるためにここにいて、人に愛される者となりたいという想いを抱くのです。
 それは子どもの想いそのままです。いつも親のことなど顧みないでひたすら遊んでいるように思われる子ども達。でも自分と母親との距離感をたえず測りながら遊んでいるのです。それは物理的距離しかり心の距離しかり。一緒に遊びに出て、夢中になって自分の遊びに没頭していた子どもがふと我に返った時、見渡す範囲にお母さんがいないと、どうしようもない不安に駆られます。子ども達は「お母さんがそこに居てくれるはず」という全幅の信頼感から心置きなく自分の遊びにのめりこむことが出来るのです。「お母さんがどこかに行ってしまうのでは」、という不安を抱いている子はとても母親の手を離れて遊ぶことが出来ないのはそのためでしょう。
 また自分の成果をいつも親に認めて欲しいと願うのも子どもの性。「僕はこんなにできるよ」、「私はこんなことが出来るようになったのよ」とうるさいほどに訴えるのは大好きな母親に対して自分の存在意義を認め、自分を受け入れて欲しいから。そしてもう一つ、大好きなお母さんが喜んでくれる顔を見たいから。母親からしてみれば「何にも出来なくったって、私はあなたを大好きなのよ」という想いを子ども達に抱いているでしょう。でも子どもはいつも不安なのです。「お母さん、なんでいつも怒るんだろう」、「私のこと嫌いになっちゃたのかな」と。大人がいくら「あなたのためを思って言ってるのよ」と言ったって、その時の感情はしっかり子どもに伝わっています。明らかに怒っている、苛立っている大人の想いが子どもの心を不安にさせるのです。大人が『しかっている』のか『おこっている』のか子ども達の感性はしっかり見抜き、感じています。大人がまず伝えなければならないこと、それは「あなたは他の誰でもない、ただ一人の大切なあなたなのよ」ということ。その想いが伝われば子ども達はしかられる言葉の中にも相手の想いを感じ、それに一生懸命応えようとしてくれるものなのです。
 そんなことを教えてくれる自然だから、僕はまたここに来て自然に対して教えを請うのかもしれません。ひとり股旅は僕にいろんなことを考えさせてくれます。


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