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<'09夏・帰京6〜古都の杜にたたずめば> 今年も鎌倉に行ってきました。基本コースはお寺巡りなのですが建築物とか仏像とか、そういうものが撮りたい訳ではないのです。古都の杜(もり)が織り成す光と影に会いたくて、僕はまたここに来ています。いつものごとく出発は円覚寺から。 JR北鎌倉の改札を抜けるとすぐそこにそびえ建つ円覚寺。その昔、駅のホームや線路のあるところまでこの寺社の敷地だったという広大な敷地を持っていたお寺です。今ではかんかん陽射しの下に照らし出されたホームと杜の木陰にたたずむお寺は全く別の世界のもののようで、そこに横たわる線路によって引かれた境界線はまさに現世から切り離された時間と空間を守っている結界のようにさえ感じられます。足早に山門をくぐり抜け、まずは一番奥の黄梅院を目指します。そこに至る道筋で目を留め、カメラを向けるのは苔と下草、そして木陰と木漏れ日のスナップショット。明るい杜のおかげで木陰の中でも光が優しくまわり、柔らかい影に包まれるこの円覚寺。この柔らかな光と影の作り出す情景が僕は好きなのです。 一回りした後はいつも山門前、杉の木立が優しく影を作ってくれるベンチにたたずみ夏のひとときを過ごします。自販機で求めたお茶を飲みながら耳をすましていると、蝉時雨に混じって時々電車の踏み切りの音が聞こえてきます。目の前にそびえる山門を見上げながら、ゆっくりと流れる時間の中にゆったりとこの身を落とし込みます。四半時ほどもそこにたたずんでいると山門の上の雲がその形を面白いように変えてゆくのがわかります。その形が心に触れた時、ベンチに座ったままカメラのシャッターを切るのです。こんな素敵な定点撮影、他になかなかありません。時間と共に移ろいゆく木陰を追いかけて、ベンチを移動すること二たび、三たび。そこに座り込んだ粘り腰は、なかなか先に進もうという気になってくれません。写真家としては困ったものですがあくせく先を急ぐより、「写真!写真!」と目の色替えて歩くより、自分の目と心でしっかりこの空間を感じることの方がずっと素敵なことだと思えるようになってきました。僕もやっと鎌倉の愉しみ方が分かってきたようです。そこは本当にいつまでも居たいと感じる心地良い空間です。今回の訪問ではそこで優に一時間以上も座って、夏の北鎌倉を味わってきました。 杜が変われば空気も変わります。隣の東慶寺を訪れれば深い杜によってその山肌や石段は暗い影に包まれます。それはそれで荘厳な空気感がその杜らしさを表していて好きなのですが、少々重く息苦しい。息を潜めながらたたずんでいるような気がして、円覚寺ほどゆっくり過ごしたいとは感じません。これだけ度々訪ねた北鎌倉。未だに「ここの仏像がなにで、ここのお堂がどうで」というウンチクは一切語れないほど頭に入っていませんが、それぞれのお寺の空気感、杜の雰囲気の違いは一つ一つ感じることができます。それもそれぞれの寺院の持つ因縁や人々の無念などと影響しあっているようで興味深いところです。この東慶寺や今年は訪れませんでした妙本寺などは深く暗い杜に抱かれ、不思議なプレッシャーを感じさせる寺院です。東慶寺は何人もの悲運のお姫様が仏門に押し込められて過ごしたお寺、妙本寺は鎌倉時代の政権争いの末に滅ぼされた比企一族の霊を慰めるために創設されたお寺。そんな歴史があるからか、静かな谷深い杜に抱かれた場所だからこのようなお寺が建てられたのか、いわれを知ってしまった今となっては僕には分かりません。でもなぜか円覚寺の持つのどかさや爽やかさとは違った空気をそこには感じます。でも恐ろしいとかおどろおどろしいと言った感覚ではなく、そっとそこに訪れて過去の悲運に生きた人々の想いを感じたい、そんな想いをいつも受けるからそこを繰り返し訪れるのです。言ってみれば鎌倉なんて町全体がつわもの供の夢の跡、僕らより遥か昔の時代を生き抜いた人々の喜びと悲しみが降り積もって今に伝わる町です。その人々の想いを杜の霊気が吸い上げて、力の儚さ、争いのむなしさをここに訪れる僕たちに伝えようとしているのかもしれません。人をひとり殺して生き抜いたなら、その人は最後の一人になるまで殺し続けなければならない。人をひとり欺いたなら、その嘘を守り通すためにその人はいくつもの嘘を重ねて生きてゆかなければならなくなる。そんな人の過ち、そんな人の悲しみを繰り返さないようにと、悲しい歴史を持つ杜は僕らに語りかけてくるのかもしれません。 その後は久々に鎌倉の山道、ハイキングコースを歩いてみました。北鎌倉から葛原ヶ岡ハイキングコースを歩き源氏山へ。そこから大仏ハイキングコースに乗り換え長谷まで行く尾根歩きです。ここも杜に包まれた尾根の山道で、深い影とまばゆい木漏れ日がまた違った陰影を見せてくれます。山肌を這う木の根がどこまでもたくましく伸び、その表情がとても魅力的な散策路です。その陰の深さに露出が足りなくなることもしばしば。露出を切り詰めながらその光と影を写真に切り取って歩きます。風景と言ってもなにが写っている訳でもなく、光と影と、道を包み込む木立と木の根、そんなものを撮りながら一時間半ほどの山道を歩いてゆきました。この季節、緑に茂った葉を抱く桜の木が続くこの道も昔とちっとも変わりません。その昔、桜の季節に歩き、花吹雪のトンネルをくぐって歩いたあの記憶を思い出し、「今でもきっと春になればあの光景がみられるのだろうな」とうれしく思ったものでした。変わらぬ自然の営みと生命力を感じた鎌倉ハイキングでした。 昔、人々が栄華を極めた大地に自分もこうして立ってみると、時間を越えて同じこの場所に今僕がいることの不思議さを感じます。時を越えて同じ座標に立っている二人の人間。そこから同じ眺めを見つめたであろうその人と、感じる想いは同じなのだろうか。それを感じる瞬間、歴史はロマンとなるのです。 |