園庭の石段からみた情景〜09秋の書き下ろし1〜 2009.9.13
 <全部だきしめて>
 長い長い夏休みがあっという間に過ぎ去って、いよいよ二学期がやってきました。僕も心と身体をいっぱいに充電して迎えた新学期、夏の東京生活の中で思うところがあり、自転車LIFEに挑戦しています。『田舎暮らし』というと『タフ&ワイルド』って感じがしますがこの時代、都会暮らしより実に低運動量。移動はみな自家用車、つまり電車通勤の立ちっぱなしや交通機関を渡り歩く徒歩移動すらない生活を僕達は知らず知らずのうちに送り、それによって身体も筋力も退化させていることをこの夏の在京で僕は悟りました。そしてそこで久々に乗った自転車にその解を見出したのです。
 運動不足だからと言って『ジムで自転車を漕ぐ』、というのは僕の嗜好の正反対。何事も道理と効率が兼ね備わっていなければ納得できない性格のため、運動のためだけに自転車を室内で漕ぐなどという非生産的活動は自分の中に受け入れらません。では用事のために自転車を漕ぎましょう、ということで日々のお買い物に自転車を導入することにした訳です。毎日何かしら用事を作っては、保内町や八幡浜の駅の方まで自転車を漕いで買い物に出かけています。実際に自分で漕いでみると自転車の優れた点が一つ一つ理解できてきます。一つに適度な有酸素運動となりうること。自分の心肺機能に多少の負荷を掛けながら連続的にペダルを漕いでゆきます。その際、呼吸をマラソンの時の要領で『すうすう、はくはく』のペースでリズムよく行えば、2分から5分位過負荷の状態でペダルを漕ぎ続けることができます。それを何セットか続けて行えばエアロビ相当の運動になるのではと思いながら自転車に乗っています。また膝への負担が少ないこともいいところ。マラソンでは体重に比例して一歩ごとに膝に衝撃が加わりますが、自転車の基本は回転運動。Gによる衝撃はありません。だから運動量に対して体の疲労度が少ないと実感しています。スポーツジムが自転車を導入するのにも一理ある訳です。
 自転車はスピードや勾配によって負荷は変わりますが、それはペダルを漕ぐ速さを変えることによって、『自分の最適プラスα』の負荷を掛けながらの運動とすることができます。この運動を続けて感じる事は『自分のトルクが太くなった』ということ。負荷を感じてギアを落としたいと思う状態でもペダルを漕ぎ続けることが出来るようになって来ました。今では名坂の峠越えも一番重いギアのままで登り切るほど。これが体力というものなのでしょうか。子ども達と登る幼稚園の坂道は前より楽に感じられるし、一緒にサッカーをやっていても『次の一歩』が楽に出てボールに追いつくことができます。これも自転車のおかげなら、生活習慣改善の面においてもこの夏の東京研修(ただの遊び旅行ですが)は意義があった訳です。

 よく『馬力』と言いますが、馬力は加速のための尺度つまり瞬発力、トルクは仕事量、どれだけこつこつと仕事を積み重ねられるかを表します。馬力は加速するために使ってしまえばそこからはもう伸びる事はありません。それに対してトルクは今の負荷が掛かった状態のまま、どれだけがんばれるかを表しています。僕らの日常において本当に必要なのはこのトルクの方だと思うのです。発表会や運動会、その場をここ一番の力を振り絞って自分を出し切る時に生きるのが馬力。『やる気』や『その気』がこれらの源になるものです。でも僕らの日常を粛々と乗り越えて行くためには『心のトルク』が必要なのです。

 一学期、何事もないように通っていた子が、二学期になって幼稚園に来れなくなってしまいました。ずっと自分のエンジンを高回転に保って馬力を捻出し、みんなから遅れないようにとがんばっていたのでしょう。回転数を落とした状態、つまり自然体で多少の負荷を感じながらも自分の毎日を受け入れる訓練ができていたなら心のトルクも太くなり、新学期もすっと受入れられたのかもしれません。がんばり疲れた心が夏休みに開放され、回転数が落ちたのんびりLIFEに入ってひと夏が過ぎ去ってしまえば、またがんばるために回転数を上げようとしても心のエンジンが言うことを聞いてくれない訳です。心のトルクがあればそのままの低回転数のままで二学期に突入しても何のことなく元の幼稚園生活に戻って行けるのですが、心に募るのは不安ばかり。自分の心は調子が出ないのにみんなは音楽会や運動会の練習で先へ先へと行ってしまうよう。ひとり置いていかれてしまったような気がして、自分だけできない者になってしまったような気がして、どうにもこうにもやりきれなくなってしまったのではないでしょうか。
 私達大人は子ども達にいつも「がんばれ!がんばれ!」と投げかけています。最初はできないこともがんばることによって出来るようになるからです。でもそれは回転数を上げて馬力を稼いでいる状態。いつまでもそのままの状態ではオーバーヒートしてしまうことでしょう。その状態を見極めることこそ子ども達に「がんばれ!」という際に最も大切なことなのです。思い起こせば一学期の終わり頃、「歯が痛い」、「耳が痛い」と普段は口にしないぐずりを何回か見せていたその子。その辺りでその子の心のエンジンは悲鳴をあげ始めていたのかもしれません。そのサインに気付いてあげられなかった教師の鈍感、心の鈍さを痛感します。その時気付いていたならどうだったでしょう。その子の想いを認め受入れ、心のメンテナンスをしてあげることもできたでしょうか。「がんばらなくてもいい」とは言えなかったでしょうが、そのストレスを一緒に背負ってあげる事はできたかも知れません。そして心の回転数を下げた状態でトルクによって乗り越えるすべを教えてあげることが出来たかもしれないと今更ながら思うのです。
 言ってみれば子ども達が心にストレスを抱え馬力で乗り切ろうとしている状態、それは「出来なかったらどうしよう」、とか「ダメって言われたらどうしよう」という不安を抱えたままがんばっている状態です。それを乗り越えるために子ども達は全速力の高回転でペダルを漕ぎ続け、峠を乗り越えようとがんばります。一方でそのストレスを取り除いてやるために「出来なくってもいいんだよ」、「止まっちゃってもいいんだよ」、「またそこからやり直したらいいんだから」と声を掛けられたなら子ども達は自分のペースでペダルを漕ぎ続け、いつかその峠を乗り越えて行けるのではないでしょうか。その『自分のペースで漕ぎ続ける』ことが『心のトルク』、『心の体力』となるのです。

 今更そんなことを考察してみてもそんなことで目の前のこの子は立ち直れません。その子と毎日しっかり向き合おうと僕は朝の受入れを行ってきました。ある朝は下の駐車場に何度も通いその子が僕の差し伸べた手を握ってくれるまで繰り返し迎えに行きました。次の日はお母さんと3人、幼稚園の門の所に三十分、一緒に座って過ごしました。その時その時はなんとか幼稚園に登園でき、笑顔も見せながら一日過ごすのですが次の朝になるとまたリセットされ「幼稚園行きたくない」になってしまいます。ある日、「家に帰る!」とごねるその子に僕がお母さんと先に一緒に坂を上がる素振りを見せるとその子が「しん先生のばか!」と叫んだのです。その時は「ばかでいいよ」と受け流したのですがとても心に残った言葉となりました。きっと大好きなお母さんには絶対言わないであろう言葉。そして担任に向っても決して口にしない罵倒の言葉。その言葉が僕の心に深く突き刺さったのでした。
家に帰ってからも想いは巡り巡ります。子どものとっさに口にした言葉を真に受け傷ついて、全く大人げない教師です。でももう僕にはどうしようもないのではなどと思い、あきらめようとさえしてしまいました。この子の一番の理解者で、この子に一番好かれている教師であるとうぬぼれていた自分がこのたった一言で全てを失ってしまったのです。「自分がわざわざ出て行かなくても担任もいるのだからと」、撤収を決め込もうかと考えている自分がそこにいました。そんな時、吉田拓郎の歌が聞こえてきたのです。
 それはこの夏、東京で見つけた拓郎LIVEのLD、一番最後のボーナストラックに入っていた歌でした。『いいさ落ち込んで誰かを傷つけたいなら迷うことなく僕を選べばいい』。「そうか、僕は君に選ばれた僕なんだ」、そのくだりを聞いて僕はこのことをふとそんな風に感じたのでした。誰にも言えないで我慢して我慢していたその言葉。「それを僕に吐き出したのは僕に対する甘え、信頼なのだろう」とそう思うことが出来たのです。その歌はこう続いています。『全部だきしめて君と歩いてゆこう、君が泣くのなら君の涙まで』。「そう、僕はその子の全てを受け入れ、全てを抱きしめて一緒に歩いていこう。泣いたから、泣かなくなったからではなく、どんな時にもただただ一緒に寄り添って」、その時の僕は何かに啓示されたようにそう感じていました。どれだけ落ち込みやすい悲観屋で立ち直りやすい楽天家なのでしょう。「さすがは拓郎、いいこと言うぜ」と思いきや、作詞は別の人でちゃんちゃんのオチもついてしまったのですが。

 別の日、なんとか登園してお母さんに見守られながら英語遊びも参加した男の子。玄関の階段の所でお母さんと別れる段になってまた泣き出しました。お母さんは後ろ髪を引かれながら帰っていき、僕は泣き続けるその子を自分の膝の上に抱き止めました。初めは抗っていたその子もぎゅっときつく抱かれたその腕に身を任せるようになり、顔を僕の胸に埋めていました。文字通り『抱きしめる』とはこういうことを言うのでしょうか。荒かったその子の息遣いも段々と落ち着いてきて、時より掛ける僕の声に耳を傾けています。ホールではクラスの友達がダンスの練習をしている様子がうかがえ、向こうを気にしながらもまだあの中には飛び込んでいけない男の子。「もうしばらくここでこうしていようか」と尋ねると「うん」と小さくうなづきました。二人でそうして時を過ごした後、ホールに向うとクラスは次の練習に移るところ。その子も仲間の中に入って、そこから一緒に練習することができました。この時、僕はこの子の全部を抱きしめてあげることができたのでしょうか。涙や淋しい心までも全部。

 その子に「ばか!」と言われた次の日、僕はその子に尋ねてみました。「昨日、君は僕のこと『ばか!』って言ったんだぜ。おぼえてる?」。『B型は根に持つといつまでも』、全く面倒な生き物です。その子は「うん、ごめん」と答えます。「じゃあ仲直りだ」と握手して和解成立。これで僕もその子もお互いにすっきりしました。言ったほうも気にしていたようです。こんな儀式もやはり必要なのでしょう。その日はそれからいつものようにじゃれあいなから遊んで過ごしました。
 これからこの子がどのように変わってゆくか僕には分かりません。でもこの子にとってこの毎日が心のトレーニングになるのでしょう。がんばり過ぎない状態で、多少の負荷を感じながらもそれが平気になってゆく『心のトルク』を増やしてゆくために、時にはまた涙し、時には笑い、時には慰められ、時には励まされしながら。僕はそれが出来た出来なかったで一喜一憂するのではなく、ただただそばにいて一緒に歩いて行こうと思うのです。それにはお互いに時間も辛抱もきっとまだまだ必要、でも僕らにはまだ半年も時間は残っています。半年先のゴールをしっかり見据えて、あせらずはやらず一緒に歩いてゆこうと思うのです。拓郎の歌を一緒に口ずさみながら。「全部だきしめて君と歩いてゆこう、君が泣くのなら君の涙まで」。


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