園庭の石段からみた情景〜園だより9月号より〜 2009.9.21
 <サイクリング・ブルース>
 風で落とされた渋柿の実が、山の上から転がりに転がり落ちてすべりだいの下で転がっている姿を見ると、何につけても秋の深まりを感じる今日この頃。でも陽射しはまだまだ強く、夏を思わせる暑さを僕らに振舞ってくれています。僕の自転車LIFEはおかげさまでまだ続いています。気まぐれのようで意外と根気のある性分の僕。寒さにめっぽう弱い性分との駆け引きが始まる頃まで続くでしょうか。その寒さに打ち勝って一年続けばこの決意は本物だったと言えるのでしょう。「自転車はブルースだ」と言った忌野清志郎の言葉をかみしめながら毎日、いや三日に二日以上はペダルを踏みしめています。自分の心と身体で感じると言う事はいろんなことを驕り高ぶった自分に教えてくれるものなのです。
 自転車に乗っていると真っ先に感じること、それは『自分は非力だ』ということ。水平より少しでも勾配がつくともうペダルがしんどく感じ始めます。さらに風。向かい風がこれほどつらいかと言うことを、僕は初めて感じました。学生時代、あれほど乗り回していた自転車なのに。思えば当時はロードマンタイプの自転車だったので基本が前傾姿勢。あれにこれほどの意味があったのかと言うことを二十年の時を経て今更感じています。また東京の杉並ではこんなに風が吹くこともなかったのですがこの日土の川沿いの道、とにかく風がいつも吹いています。フォローの時はペダルが軽く、「おっ、こんなに筋力がついたのか!」と勘違いするほど。でもアゲインストの時にはその半分もスピードが出ず、自分の思いあがりをいやと言うほど突きつけられてしまいます。毎日自動車や原付のカブで通り過ぎていたこの道。その時には微塵も感じなかったことを自転車は僕に思いださせてくれました。

 僕らは今の生活の中で自分の力で何かをしていることってどれだけあるでしょう。移動は内燃機関の自動車。掃除・洗濯は電気駆動。計算や情報処理はパソコンの電子頭脳。遊びはテレビや電子ゲーム。それでは頭も身体も心までも退化してしまうのは当たり前のことでしょう。自分の力では出来ないのに、自分で出来ているような気にさせてくれる現代文明。これはとても素敵でありがたいものです。自分の力、一人工(いちにんく)以上の仕事を僕らが出来るようにしてくれた素晴しいものたちです。でも生まれたときからそんなものに囲まれて育ってきた僕らはそのありがたさと、そのアシストがない時のしんどさを実感として感じることができないのです。世の中なんでも簡単になりました。でも子ども達はどうでしょうか?どんなに文明が発展しても自分の力でやらなければいけないことから人間は解放される事はないのです。自分でトイレが出来るようになる自動トイレ装置はないし、好き嫌いをなくす道具を出してくれるドラえもんはいない。出来ないことをみんなと同じように出来るようにするのが学校のカリキュラム(幼稚園も学校です)。でも子ども達にそれらを強いている僕たち大人は、子ども達と同じようにそれが出来るのでしょうか?逆上がりできますか?こま回しできますか?人前で歌って踊れますか?お母さんや先生だって人前で演奏したり歌ったりするのは嫌がりますよね。もちろん子ども達にそれをさせると言うことは教育的見地から必要であることは重々承知しています。なぜならば大事なことは、『それが出来るようになるために努力すること』だからです。大人であれば『出来ることもあって出来ないこともあって、でもそれでいい』というものが子どもに対しては『それでもがんばれ!』と言うのは何事にも自ら取り組んで行ける人間になって欲しいという想いからなのです。
 そのことは日頃、子ども達に「がんばれ!がんばれ!」言っている立場のものとしてよくよく分かっているつもりです。ではそんな僕らが子ども達にしてあげられることは何でしょう?ただただ子ども達のつらさや心の内を知ろうとせずに「がんばれ!がんばれ!」言うのは坂道で重いペダルを漕いでいる子ども達の後ろから原付バイクで伴走しているコーチのようなもの。そのつらさや限界を逐次感じ取ってあげなければ本当のコーチでも何でもないのです。自分も子ども達の目線、子ども達のつらさまで視線を落として、高ぶっている心を押し下げて一緒に感じてあげるところから始めなければ。今、僕は自分の心にこのことを投げかけています。

 『自転車はブルースだ』。今はまだ清志郎の言っていた意味の全ては分かりません。でも自分に向ってくる向かい風を感じながら、そのペダルを止めてしまいたくなる想いを感じながらもペダルを漕ぎ、このしんどさを自分の中に感じ受け止めていると無力な子ども達のことを思い出すのです。たかだかこんな坂、息を切らせながら走っている自分は子ども達の息切れに気付いてあげられたのだろうか?車で走っていた時のように何も感じることなく、アクセルを踏み込んでいたのではないだろうかと。彼の言葉に続けて僕は子ども達にこう言いたい。『人生はブルースだ』。ブルースは黒人音楽がルーツです。何の後ろ支えも希望もない奴隷生活を強いられていた彼らが奏でた音楽。その向かい風を身体いっぱいに受け止めながら、でも未来に向って精一杯生きようとしていた彼らの人生と彼らの音楽。苦しみや悲しみを受け止めながらなおかつ未来への一歩を歩み続けた彼らの音楽。今時のディスコやユーロビートのトントン拍子の音楽、打ち込みでリズムもメロディーも全てプログラムされた音楽にはない、憂いや悲しみの中からわきあがってくる希望を歌ったそんな強さがあるのでしょう。そう、「人生はブルースだ」。その想いを胸に、僕は子ども達と一緒に歩いてゆきたいと思うのです。順調な時ばかりではない、笑顔のときばかりではない、時には一緒に悲しみながら、喜びながら、休みながら、力強く、寄り道しながら。ブルースのリズムを奏でながら一緒に歩いてゆきたいと思うのです。


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