園庭の石段からみた情景〜園だより10月号より〜 2010.10.17
<牛鬼が教えてくれたもの>
 幼稚園の先生達も経験したことがないという程ひさしくなかった運動会の順延を経て、今年も運動会が無事に終わりました。二日間のお休みの後、再び迎えた本番当日だっただけに子ども達のモチベションとこれまでやってきたことの『学習記憶』を僕らも心配したものでしたが、当の子ども達は「べつにいつでもOKよ!」って顔で難なくしっかりやり遂げてくれました。僕ら大人は日常生活の中で『予測行動』を駆使することでいろんなことをスムーズに効率的に行っていますが、その『予測行動習慣』の弱点はイレギュラーに弱いこと。予定と違った事態や想定外の物事に対しては極度に不安定さを露呈してしまいます。あまりに日常の中が想定管理されていることによって惰眠をむさぼり、とっさの時の判断や行動に疎くなっているのかも知れません。当の僕自身もカメラやビデオの撮影を始め、運動会準備・進行全般で大いにばたばたしてしまいました。でも子ども達は『いつでも全力、いつでも本番』。「まだ本番じゃないからこれを試してみよう」とか「練習だから」と言って手を抜くこともありません。子ども達はいつでも精一杯、真剣勝負。『ちゃんと出来る・出来ない』はその時々のモチベーションが全てで、頭で図って選択している行動ではないのです。だから順延だろうとなんだろうと精一杯頑張っている姿を僕らに見せてくれるのでしょう。やる気をリセットされ、再セッティングのどんより気分にテンションを下げていた僕らを尻目に。子どものイノセント・純真とは本当に力強いものだと感じた運動会でした。子ども達、本当によくよく頑張りました。

 運動会は終わりましたが日常のイレギュラーは続きます。次の日から通常通り始まった一週間が実に長かった。連日特別行事が目白押し、その合間を縫って運動会や敬老音楽会の思い出の絵を描いてご苦労様の子ども達でした。そんな週末最後の金曜の朝、翌週のおまつりパレードのために屋根裏から幼稚園の牛鬼を引っ張り出して来ました。これもパレードが土日にかかってしまったため幼稚園はここ2年ほど参加できなかったのですが、今年はまた久々の参加です。怖いもの知らずのわがもの顔で育ってきた今時の子ども達ですが、こんなアナクロニズム・時代錯誤のハリボテ人形には大いに怖さを感じる様子。毎年「わーきゃー」言ってこの牛鬼との初対面を迎えています。当の牛鬼君は3DだのCGだの模擬リアリティーの追求に明け暮れている今時の文明を嘲笑っていることでしょう。そんな少しユーモラスな顔のその牛鬼君がこの日は幼稚園の玄関横で登園してくる子ども達を出迎えました。
 日頃は先生達相手にイタズラを仕掛けて喜んでいるもも組の女の子。この日はなんの巡り合わせか、両手に小さい組のお友達の手を優しく引いて幼稚園の坂を上がってきました。素敵なお姉さんぶりに「優しいお姉さん、いいねえ」と僕も声をかけたのですが、朝のお迎えを終えて幼稚園に帰ってくるとその子が先生の腕に抱かれて泣いていました。玄関の牛鬼が怖くて泣き出したのだとか。こんなに『いい子』にしていたこんな日に限って、なんとも災難なことでした。

 秋のお祭り週間ではこの牛鬼君が大活躍?。怖いもの知らずの子ども達に自分の増長を知らしめる役を買って出ます。年度も中程までやってくると子ども達の成長の成果が色んなところで見られる様になってきます。色んなことが出来るようになってきた子ども達。僕らもそうですが、人間、過去の弱かった自分、小さかった自分の記憶は消去したいと言う想いも手伝ってか早々に忘れてしまうことが多いものです。自分の自信と反比例して弱さに対する意識が薄らげば、他人に対しての優しさを忘れてしまうのが人というもの。自分の弱さを知っているからこそ他人の痛みが分かり、その悲しみから救ってあげたいと願うからこそ人は強くなれるもの。でもいかんせん、それを悟るにはこの子達は若すぎます。だから怖いもの知らず君の増長に牛鬼君が喝を入れるのです。友達にいじわるしたり、調子に乗って先生をからかったりする子達は本来小心者。自己存在の絶対性に自信がないから相手をおとしめて自分が相対的優位に立とうとするのです。そんな小心者は何もしなくても牛鬼が恐い。この牛鬼君にお出ましいただいている間は小さく大人しくなってしまいます。そんな時にそんな自分を抱きしめてくれる大人や優しい声をかけてくれる友達のありがたみを感じてくれたならいいなと思うのです。
 お昼のお弁当時、牛鬼が見えない所でまた強気に戻り、先生を困らせている男の子がいたので一喝しようと教室の窓から牛鬼の顔をのぞかせれば、みんなびっくり「わーきゃーぎゃー」の大騒ぎとなりました。でも一番恐かったのは今日はずっとおりこうにしていたあの女の子だったようで、かわいそうにまたまた泣かせてしまいました。弱り目に祟り目とはよく言ったものですが、かわいそうなことをしてしまいました。計算違いとは言え、「こんな時こそ!」と僕の中にも考え足らずの『増長鬼』がいたのかもしれません。運動会来のお疲れと、牛鬼フィーバーの増長の思考欠如から、そんな失敗を他にもよくよくやらかした金曜日でした。

 大人も子どもも自分の増長は何かによって表されなければ感じることができないもの。それは自分の弱さに気付くことだったり、相手の痛みを感じることだったり。『怖れ』や『悲しみ』はそれを感じる大切なきっかけなのかも知れません。日本古来の『怖れ文化』の根幹はきっとそんなところにあるのでしょう。何かを怖れる心、それを受け止め肯定する心、それが日本人の心です。自分の弱さを否定し強さで他者を征服してきた西洋の歴史とは異なる日本人の和の文化。それが己を自ら知り、相手をそして社会の調和を大切に思う土壌となるのです。ちょっと僕も自己反省。


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