園庭の石段からみた情景〜園だより3月号より〜 2011.3.13
<その気とやる気>
 ひなまつり音楽会をなんとかかんとかやり終えて、僕らもほっと一息。今年は舞台演出の中に新たな試みがあったり、なかなか仕上がってこない子ども達に最後の最後まで設定変更を余儀なくさせられたり、なかなか先の見えないかなりスリリングな『発表会前夜』を過ごしてきたものでした。前々日になって『歌入れ』を加えたMDが音跳びを起こし、それが大騒ぎの始まりでした。そもそも『MDが跳ぶ』なんてレアケースである上に、その対策としてアナログダビングをやり直したものが再生してみればまた別のところで跳んでいる。誰が悪い訳でもないのに苛立ちまぎれに「この劇、ダメなんじゃないの」などと憎まれ口をきいたりもして、今回は僕も相当追い詰められていたようです。その日は第一木曜日。もうじき教会の礼拝も始まるし、その後には月に一度の役員会。全部投げ出して今すぐ編集をやり直そうとまで思いましたが「こんな時こそばたばたしてもしょうがない」とぎりぎりの所で思いとどまり、礼拝を守りながら落ち着かない心のまま牧師先生の話に耳を傾けていました。その間、段々と気持ちも落ち着いてきて、しっかり役員会も参加して、結局家に帰ったのは8時頃となりました。半分開き直りだったのですが。それから食事を取り風呂にも入り、時は早9時過ぎ。そこから翌日本番に使うMD作りをようやく始めたのでした。
 結局そこから3時間かけて劇のMDと緊急用のCDを作り上げました。これまでと同じやり方でがむしゃらにアナログダビングを繰り返しても、きっとまたどこかでエラーが出るだろうと思い至ったのが転機となったようです。「礼拝をさぼって1〜2時間急いで仕事をしたところで、そういう時にはきっとうまくゆかないもの。最悪、徹夜でもすればなんとかなるだろう」と腹をくくり、家のMDデッキからCDレコーダー経由でパソコンにデータを取り込み、パソコンの上でデータを修復してゆく構想を決めた時、気持ちもすっと楽になりました。音楽データのパソコンでの修正はまだ僕にとっても未知なる領域だったのですが。使ったことのないコマンドをトライ&エラーで駆使しながら、瞬間的に音跳びしているところはその波形を修正し、何か所も連続で跳んでいるところは、前にも同じフレーズを取り込んでいたところから『カット&ペースト』。『繰り返し劇』特有の演出のおかげで使えるデータの取り込みに成功、なんとか劇が最後までちゃんとできるMDを作ることができたのでした。翌日本番で何事もなく再生できたMDを聞きながら、劇を終えて一番ほっとしていたのは僕だったのかも知れません。

 今回のことを通じて、「やはり人というものは心の持ちようなのだな」と改めて思ったものでした。今回の不安定要素は『アナログダビング』。でも幼稚園では2台のMDラジカセをモノラルピンコードでつないでダビングすることしか出来ません。「これでできるはず!」とがむしゃらにトライ&エラーを繰り替えしていたのではきっとうまくいかなかったでしょう。一秒でも早く作業に取りかかりたいというのも人の心情。いつまでかかるか分からない仕事をやり遂げるには時間を一秒でも多くかけた方がいいと言うのは人間の素直な想いでしょう。しかし『急がば回れ』、昔の人は本当によくよく言い当てたものだと感心するばかりです。
 こうやってまどろっこしいほどまでに時間を置いてスタートさせたことは結果的には良かったのですが、その途中いくつもの葛藤が僕の中にもありました。誰に対するものでもないのですが、大人げも無く『腹いせ』にここから飛び出して礼拝も役員会もさぼって作業をやろうかと思ったことが何度もありました。ですから決して偉そうな事を言える立場ではないのですが、はやり『急がば回れ』、それは確かに的を得ている言葉のようです。人間、無理押ししているときはどこか心情的な不安定さと状況判断の冷静さを欠くもののよう。普段は幼稚園でも各クラスを外から眺め写真を撮ったりレポートを書いたりしている僕ですから、物事を客観的に俯瞰で見る習性はわりと身についているものと自負していました。しかしいきなり『明日までになんとかしなくっちゃ』と言う状況を突きつけられ、ばたばたあがく失態を演じてしまいました。またまた『僕ってやつもたいしたことないなあ」と思ったものです。しかし時間を置くことによって冷静な自己分析ができたのでしょう。今までやってきた作業の中でエラーの発生する確率の高い要因、過去の仕事での成功事例を思い巡らせ、自宅での作業でMDを一から作り直す方法を選びました。マスターとなるCDを作りそれをMDにデジタルコピーする、それはこれまで失敗したことのない方法であったし、MDがまたおかしくなってもCDがその時の保険になる。それを思いついた時は「ちょっとひらめいちゃった」と自分でちょっとうれしくなってしまいました。真面目に礼拝を守り神様の御言葉を聞いたことによる、神様からのご褒美だったのかも知れません。
 そうなると同じ作業でもやることのノリも違ってきます。一からの作業に手間と時間はかかりましたが、またその時間の間にも色々なことが思い浮かんできます。このMDでのラジカセ操作は全てがぶっつけ本番。操作する先生が勘違いしたり
誤操作した後のリカバリーが出きるようにと、全ての曲をトラックで区切って曲ごとに『ぽんた1』などとトラックタイトルも付けました。苛立っていた時にはそんな余裕もありませんでしたが、人間とは本当に不思議なものです。僕本人は何も変わらない人間のままなのに、これが『神様の御心』と言うものなのでしょうか。『モチベーション』の持つ力の大きさ、これは大人も子どもも同じく自分達が考えているよりもはるかに大きいものなのです。このように僕自身、自分がやる気をなくしたときの『ふぬけさ加減』を痛いほど知っているからこそ、「子ども達にはまず、その気とやる気を」といつも願うのでしょう。「やってみようかな」と興味を示すこと、それが『その気』。それでやり始めたことに夢中になり「やってやる!」と熱中してやれること、それが『やる気』。それさえあればどんな形になるかは分かりませんが、最後まで突き抜けることができると思うのです。最終的には出来た物に目標や規格の方を近づけて「よし」とするような勝手な所が僕にはありますが、それでも最後まで何らかの形でやり遂げることが次につながるのだと思うのです。

 今回の音楽会でその『その気とやる気』を見せてくれたのはすみれの男の子でした。いつもならへろへろほよよんしている彼が何を感じ思ったか、『その気』になって合奏の大太鼓に手を上げ立候補。先生も「何があったか起こったか」と思いながらも彼の想いをうれしく受け止め、大抜擢に至った訳でありました。やることになってからもまたまた色々あったこのチャレンジストーリー。先ずは彼がリズムを取れない所から始まります。そもそも『自由気ままキャラクター』のこの子が何かに合わせること、これがなかなか大変なこと。先生が目の前で拍子を取って見せても、『気もそぞろ』な彼はそれに合わせることができません。クラスメイト達も親切心から「こうだよ!」とまわりでやいのやいの言うものだからだんだんいやにもなってきます。それでも「がんばってやるから」と言う約束で任された大役を彼も自分の心に言い聞かせていたようです。段々と先生の指揮を見れるようにもなり、二人の大特訓は続いて行ったのでした。
 なかなか上達しない自分に「これではいけない」と思ったのでしょう。シャイなこの子は努力している姿をお母さんにも見られたくなかったようです。おじいちゃんの家でこっそりダンボール箱を叩き練習していたのですが、おじいちゃんには「うるさい!」としかられ、おばあちゃんには「この子はなにをやってるのだろう」と不思議がられ、それでも言い訳ひとつしなかったと言う話も聞きました。これが彼の『やる気』だったのです。その努力の甲斐あって、彼はなんとか上手にリズムを取ることが出来るようになって行ったのでありました。
 クラスの練習も終盤となって、全体練習も熱を帯びてきました。この男の子もいい感じで太鼓を叩いていたのですが、後半になって異変が生じてきます。段々テンポが遅れ出し、最後は見事玉砕。完全に裏拍にひっくり返り、合奏も破綻してしまったのでした。僕も彼をじっと見ていたのですが、ちゃんと指揮を見ているし一生懸命やっている様子がうかがえます。リズムも同じパターンの繰り返しで、後半難しくなるものでもありません。それでも後半の手の振りの遅れとしんどそうな表情から、どうもこの子の体力不足が原因なのではないかと思い至りました。彼の握っていたバチは大ぶりなもので重さも結構あるものです。それを2拍子でずっと叩きつづけていれば、腕はだんだん重くなり握力も次第に落ちてきて、バチが飛んで行ってしまうようなことも度々。そんな様子を見て取った僕はみわ先生に相談して、一つ小ぶりなバチを使わせてみることになりました。そのバチは端にストラップもついていてこれで『すっとび対策』も万全。それで再チャレンジした彼は最後まで的確にリズムを取って太鼓を叩くことが出来るようになったのでした。
 そんなこんなをやりながら、さあ音楽会の本番がやってきました。じっと先生の方を見つめながら太鼓を叩きつづける男の子。なかなかいい調子です。しかし曲の後半、段々ピッチが遅れ始めました。「あっ、疲れてきたな。がんばれ!」とビデオを撮影しながら僕は彼に身振り手振りで応援を送ります。それが彼に見えたかどうか分かりませんが、最後の最後に持ち直し、決めのフォルテッシモをばしっと決めて、合奏の有終の美を飾ってくれました。
 今回、この男の子の『がんばったストーリー』を追いかけながら彼のことをじっと見つめてきたのですが、この『むらっけ』のある性格と『その気・やる気』になった時の一途さがなんだか自分のことを見ているようで、なんとも気恥ずかしい気がしたものです。でもだからこそ彼の想いもよく分かるし、このがんばりを一杯ほめてあげたいと思うのです。自分からは決して「がんばったよ!」なんて言わないこの男の子。でも「がんばったね!」と言ってもらうと『べつに!』って表情を見せながらも大いにテレながらうれしそうな顔をするはず。そんな所までまるで同じ。だからきっとこれからも普段はふわふわほよよんやりながら、「これこそは!」と思ったときに『その気・やる気』モードを立ち上げてまたがんばってくれることでしょう。歳とともに『やらなきゃいけないこと』とも段々折り合いをつけながら。でも彼のモチベーションの源はやはりこの『その気・やる気』に宿り続けるはず。良くも悪くもそれが自分らしさ。そしてそれが自分を支えてくれる糧となるのです。

 さあ、こうして今年度もなんとか終わろうとしています。今年のすみれさんも「これで小学校、間に合うの?」などと心配した季節もありましたが、みんなそれぞれ自分達の『その気・やる気』に支えられ、大きな成長を見せてくれました。『体操教室』をきっかけにみんなの前で自分をPRできるようになった男の子がありました。『耳コピ・ピアノ』の世界にはまり込み、『マリオのテーマ』のマスターなどを経て、今では机上の音楽理論を学ぶことなしに『聖者の行進』を短調に変調して弾いてみせる天才君達もありました。みんなみんな『やらされ事』で修得したものではなく、『その気・やる気』の成果として身につけた特技達です。この他にもこの子達は、自分の興味に促されながら色んな『その気』を胸に抱き、それを『やる気』にまで昇華させて自らの成長の糧として来ました。僕達大人はこの子達の『その気』を上手に汲み取り誘発し、『やる気』にまで昇華してやるお手伝いをしてあげられればそれでいい。それが僕らの、そしてこの幼稚園の役目だと僕はそう思うのです。


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