園庭の石段からみた情景〜園だより4月号より〜 2010.4.23
<メイちゃん達の大冒険U>
 今年も新しい年度が始まって2週間が経ちました。わちゃわちゃ「ママ!ママ!」の第一週目を乗り越えて、さっさと自分のマイペースで歩き出した新入児の子ども達。お母さんと離れられないで涙していた昨日なんて『もう遠い過去のこと』って顔で早速やりたい放題を始めています。でもそれが幼稚園生活におけるいつものお決まりのプロセス。お母さんと初めて離れて過ごした時間に最初は涙も出たけれど、自分とお母さんだけの世界から一歩足を踏み出せば外の世界には楽しいことがいっぱい。そのことに気づけば涙より先に好奇心が湧いてきます。まずはそんな子ども達がこの『始めの一歩』を踏み出せたことを一緒に喜んであげてください。
 そして次にその好奇心同士、自我の利害関係がぶつかり合って、初めての社会勉強が始まります。『みんなと一緒』に始まって『譲り合って』、『順番こ』、『ごめんね』、『許し合うこと』など、初めて出会う社会のルールや倫理に要求される自己規制、最初は納得などできるはずなどありません。でも人間は自分で経験して初めて、理解し受け入れられるようになる生き物なのです。自分がした結果、相手を泣かせてしまったその事実や、逆に自分がされて泣かされた経験と、それらを調停してくれる教師の働きかけによって『社会のルール』と言うものを自分の中に受け入れることが出来るようになってゆくのです。それが理解できるようになるまでは毎日いさかい、毎回揉め事。そんなこんなでまた違った『わちゃわちゃぶり』に発展しつつある子ども達ですが、僕達もこのわちゃわちゃと辛抱強く付き合って、その度にそれを教材として子ども達にメッセージを送り続けたいと思うのです。そんな園生活の中で『幼稚園はちょっとだけがんばるところ』、それを自分に言い聞かせて毎日ちょっとだけがんばったなら、それがいつのまにか自分の実力となってお兄ちゃんお姉ちゃんになれるっていうこと、そのことをこの子達に伝えながら励ましながら一緒に歩いてゆきたいと思っています。

 四月も半ばになるといろいろな生き物達が幼稚園に顔を出し始めます。これも例年通り、一番最初に子ども達の興味を引いたのはだんごむしでした。園庭のプランターをひっくり返しながら「だんごむし、だんごむし」とつぶやきながら探して歩く男の子。面白いのがこの子達、だんごむしは欲しいものの「こわい」だの「きもちわるい」だの言ってなかなか自分で触れません。ケースに入っていればご満悦・ご機嫌顔であっちこっちに持って歩き、枯葉なんかも入れてお世話気分も味わっているのですが、自分の手ずから触って捕獲するところまでいかないのです。そこで考えたばら組の男の子。一緒にだんごむし集めをしていた隣の男の子のだんごむし、その子がよそを向いている間にケースごと傾け『さらさらさら』と自分のケースに流し込んで素知らぬ顔。ふと振り向けば自分のケースが空になっているに気づいた隣の子。「ない!ない!」とあたふたあたふた騒いだ後、不自然に一杯になっている男の子のケースを見つけて「取られた!取られた!」と先生の所に半泣きの訴え。どっちもどっちのショートコントに先生も笑いながら間に入って幼子達にものの道理を教えます。『人のものを取ったらいけません』、『取らんとって、僕の返してって言えば済むことでしょ』とそれぞれの子を教え諭し、社会のルールや人との付き合い方を教えるのです。そう、こうやってひとつずつ子ども達は実生活の中で社会というものを学んでゆくのです。端から見れば笑い事ですが、この子達にとって見れば大問題の一大事。だからこそ心に深く響く学びの教材、教えの種となるのですが、それだけに大人の役割は重要です。ただのわちゃわちゃを子ども達への『教えの教材』へと昇華するために、僕らは子ども達の行いと心の様を見つめているのです。

 ある雨の日、今年も一名の『メイちゃん』が「お母さんのところに帰る!」と幼稚園の門を後に旅立ちました。僕は3m離れた後をついてゆきます。お約束通り先ずは下の駐車場まで降りていった女の子、お母さんの自動車がないのを確かめて「おかあさーん!」とひと叫び。メイちゃんの『母を訪ねて三千里』が始まりました。川下の方へ歩き出す僕らの横を、少し遅目に登園してきた子ども達の車が通ってゆきます。連れて上がってあげたい衝動に駆られもしたのですが今はちょっと取り込み中。99匹の羊を残して1匹を追いかける羊飼いの想いをかみしめながら女の子の後をゆっくりとついて行きます。そう今、心の迷子になっているのは目の前のこの子なのだと自分に言い聞かせながら。
 こんな日に限ってどしゃぶり大雨。去年のミッションよりも更に厳しい状況の中、メイちゃんの頑張りは続きます。傘をさしながら歩くものの二人ともすでにびっちゃんこ。それでも橋二つ分の道のりを一歩一歩あるいてゆきました。その辺まで歩いてくるともう涙も止まり、ただただ歩き続けることに想いが行っています。二つ目の橋、昭和橋のあたりから僕が少し前を歩き、何食わぬ顔で松岡へたどる山への道へと乗り換えます。それにしずしずとついてくる女の子。去年のメイちゃんは「この道、ちがう!」なんて鋭いチェックを入れてきたのですが、今日は幸か不幸か土砂降り雨の日。山道から流れ下る雨水に誘われるように、びちゃびちゃ山道を上がる女の子。これも『天の神様の言うとおり』、こんな雨の日だったからか、流れる水に気を引かれたからか、僕についてきてくれたのでしょう。途中聞こえてきた「ぴちゅぴちゅ」という歌練習中の鶯のさえずりに「ぴちゅぴちゅぴかちゅうだって、ぴかちゅうが鳴いているのかな?」なんて声をかければ「えー!」とにっこり笑ってくれた女の子。採石場跡で緑や白い色の石を拾えばうれしそうに受け取りしっかと片手に握り締めます。雨にぬれたツワブキやフキのはっぱを摘んで「トトロの傘だねえ」と手渡せばあっという間に傘を持たない方の片手は素敵なお土産でいっぱいになりました。途中、倉庫の古どいが壊れて滝の様に水が流れ落ちてくる下に傘を差し出して「トトロになっちゃったー」と傘にどかどか打ち付ける水の音を楽しんで見せれば、私もやりたくなっちゃう女の子。同じ様に真似をして、しばらくのあいだ流れ落ちてくる「どどど!」の音を楽しんでいました。そんなこんなで幼稚園上の僕の家のあるところまでたどり着きました。
 幼稚園へ下る坂道を歩きながらふと下を見渡せば、なんか見覚えのある風景に気付きます。「あれえ?」、幼稚園に戻ってきた事になんとなしに気付き始めた女の子。ここが一番の詰め所。「いやあー」ってなったらまたやり直しです。坂道を流れ落ちる雨水に「あれー流されるー、たすけてー」と坂を下る足を速めて気を引けば女の子は足早に追いかけて来てくれます。その途中で見つけたアザミやシャガの花を摘んでは手渡して、どうにかその子のその気を紡ぎ足します。そうしてなんとかかんとか幼稚園の玄関まで帰ってくることができました。「幼稚園いかないー」と言うその子に「行かなくていいからお着替えしようよ。先生もびっちゃんこだー」と促すと一緒について入ってくる女の子。小一時間ほどもかけて一杯歩いて納得して、その子の心も落ち着いたのでしょう。それからはいつも以上に従順に先生の言うことに耳を傾けてくれたその子は、機嫌よくその日の後半を過ごしてくれました。
 結局僕のしたことはただの子どもだましだったのかもしれません。でもただただ自分を受け入れ付き合ってくれた大人に対して、その子は何らかの信頼感のようなものを抱いてくれたような感じがするのです。だから最後はだまされた形で幼稚園に帰ってきたことに気付いても、それに抗わずにみんなの元へ帰って行ってくれたのだと思うのです。こうやって子ども達は自分自身でも抑えきれない憤りを、発散や置き換えによって、受け入れ乗り越えてゆくことが出来るようになってゆくのです。それに必要なのは自分でとことんやってみて納得すること。「お家にかえる!」と泣きながら歩いたその子は自分の足でがんばれる限りを歩き通しました。こっちが「こんなに歩けるんじゃん!」って思えるほどに。普段は抱っこだのおんぶだの言っているくせに一時間も歩けば立派なものです。この一時間歩いた経験がこの子の中の想いをなんか変化させたような気がします。途中で想いを遮られ、強制的に行為を中断されるのでは決してたどり着けないその先の自分に、きっとこの子はたどり着いたのです。でもでもきっとどの子もきっと同じです。こうやって自分をひとつひとつ確かめながら、納得しながら子ども達は一歩ずつ成長してゆくのだから。

 またある日、二人の女の子がじゅんこ先生にお説教されていました。先生の話によると二人で障子にびりびりぼこぼこに穴を開けている現場を見つかったのだそうです。叱られはするものの、あまり悪びれた様子もない彼女達に思わず笑ってしまいました。僕にも覚えがありますが、『魔が差した』ということは多々子どもにはあるものです。『誰かがしていた』、『そんな跡があった』がトリガーになるのは良くあるパターン。きっと障子の一箇所に不注意で誰かが開けた穴があってそのままにしてあったのでしょう。それが全部几帳面に修繕してあれば「これは穴なんか開けたらいけないんだ」と思ったかもしれません。そこにあっただろうたった一つの小さな穴と、進級に浮かれた開放感から『魔が差した』のではないかというのが僕の考察です。でもこれも大事な教材です。今まで「これしちゃダメです」を学んできたこの子達が『やっちゃった』あとの後始末を学ぼうとしているのです。自分達の『楽しい』を見つけることはこの時期の子ども達にとってはとても大事なことですが、でもそれだけで行動してはいけない、なぜしたらいけないのか、行動したらどうなるのか、それを学ぶのもこの時期に大事な事なのです。翌日、障子の修繕を課せられた女の子達。この奉仕に懲りて「もう二度としない」と心に誓ったか、「障子張りも楽しいからまたやっちゃおう」と思ったか定かではありませんが、こうやって自分で体験して学びを得たこと自体はいい経験だったと思います。これも今まで『おりこうちゃん』で過ごしてきたメイちゃん達の羽目を外した大冒険だったのでしょうか?今回は大失敗だったけれど。
 でも全く子ども達と言うものは何をやらかしてくれるか分からないから面白い。これも大人の側の捉え方次第で、こんな子どもを笑ってやれるか『カーっ』となってしまうかでその先の子ども達に投げかけるものが大きく異なってしまいます。毎日我が子と向き合っているお母さん達にとっては笑い事で済まないことの方が多いでしょうが、やってしまったことにいつまでも目くじらたてて怒ってもしょうがない。ならばやってしまったこのことをどう使って子ども達に教えを給うか、そう考えたらとりあえず「こらー!」と怒った後、うぷぷと笑ってあげられるのではないでしょうか。

 子ども達の新生活はどの子も往々にしてこんなものです。子ども達はこんな経験を積み重ねてゆくことによって『自分』というものを磨いてゆくのです。幼稚園の新生活にはこんな面白話があふれています。子ども達一人一人の新生活の中には意気込み、舞い上がり、勘違いなどによるこんなエピソードが必ずあるはずです。子ども達の様子と表情をよくよく覗き見てみてください。まだまだ口による自己説明能力が不十分なこの子達の動機や心のうちを推察してみるのも僕らの楽しみです。どれだけその子のことを分かっているかという模擬試験みたいなものですから。大人も子どもも先ずは楽しみを探すところから始めましょう。きっと我が子が自分の描いた小説の中で生き生きと息づいている主人公のように見えてくるはずです。そしてきっと更なる大冒険と大活躍をこの子達の中に夢見たくなることでしょう。


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