園庭の石段からみた情景〜園だより5月号より〜 2010.5.19
<自然はそっと寄り添うべきもの>
 今年はいつまでもどこかで肌寒さを感させる気候が続いていましたが、五月の中頃になってようやく初夏を感じさせる陽射しが訪れるようになってくれました。ひとたび晴れだすとこのお日様を待ちわびていたかのように、木々や草花の緑が我も我もと勢いづいてきます。四月にたっぷり降った雨とこの五月の太陽の日差しを受けて、今幼稚園の山ではたけのこが元気良く伸び始めました。それはまるで四月の涙顔を乗り越えてお調子全開ではしゃいでいるばらさんのよう。まだ時々雨降り日もありますが。でもきっとそれでいいのです。最初からお天気続きであったなら、このたけのこ達もいつかどこかで枯れてしまったかもしれません。新しい環境をしっかり自分の中で受け止めて、しっかり涙も流して泣いて、そこにお母さんや先生の愛情がたっぷり注がれて、ある日心がカラッと晴れ上がったその時をきっかけにこの子達の『自我』がぐんぐん伸び始めたのです。こういう姿を見ていると『子どもは自然そのもの』って気がしてきます。自然を見つめ、自然と対比して見てみれば、子ども達の言動や様子が説明・理解できるような気がしてくるから不思議です。

 今年は幼稚園の梅の木が何年かぶりにたくさんの実をつけました。春先から早々に実をつけ始めた梅の木を見つめながら、今年は出来るかもしれない梅取りに期待を膨らませつつ、その日が来るのを待ちました。連休も明けた頃、梅取り日和のお天気の日に子ども達を誘って梅取りに繰り出しました。子ども達は梅を入れる大きなおなべを抱えてやる気満々。先ずは砂場の上の土手に陣取って、手づかみで梅を摘み始めます。こんなに高い梅の木に子どもの背の高さで手が届くなんて、どんな梅園に行ってもありはしないでしょう。これは去年、元気のない梅の木を剪定したところ新しい枝がぐんぐん伸びて、それが丁度土手の上まで届くほどになったため。まるで自らの腕を伸ばして「子ども達に梅の実を手渡したい」と、この木が願った結果のような、そんな不思議なお話です。子ども達は大喜びで梅の実を手ずからおなべいっぱい摘んでいました。
 手の届く範囲の梅を取り尽くすと、次は子ども達の『ちょうだい合戦』が始まりました。僕とひげのおじちゃんが脚立に登り、高いところの梅を摘み取ります。それを下から「ちょうだい!ちょうだい!」、必死な顔でおねだりコール。僕は僕でお馬鹿は承知、右手でビデオを撮りながら左手で高枝バサミを操って、木の下で「きーきー」言ってるお猿さん達のドキュメンタリーを撮影します。はさみのカニが木の上で、きーきーお猿が木の下の、『逆サルカニ合戦』となったなかなか楽しい梅取りでした。落ちてくる梅の実をおでこにぶつけたりしながらも、子ども達は梅取りに夢中になっていました。
 かと思えば今年は不作に終わった山の幸もありました。去年、幼稚園の中庭であれほど採れた野いちごの実。今年も春先に白い花を付けてその後に小さなラズベリーの実を見つけたので大きくなるのを心待ちにしていたのですが、先日ふと見に行くとそこにはいちごの実がひとつもついていませんでした。風で落ちたか、生育不良で育たなかったのか、思いを巡らせているとふとあるシーンを思い出しました。中庭でヒヨドリがぴーぴー飛び交って、なにか忙しそうにばたばたしてたことがあったのです。その時には何も気にせず「おー、ヒヨがきてるなあ」と眺めていたのですが、きっと彼らが美味しくいただいたのでしょう。去年は子ども達がみんな摘み取ってしまったから、今年は「一足お先に!」ってとこだったのかもしれません。

 『都会とは要するに脳の産物である』というのは解剖学者養老孟司氏の言葉です。私達の身の周りにある人工物の全ては人間が脳で考えたものを具現化したものであり、基本的には人の言うことを聞くように、思い通りになるように出来ています。自動車はアクセルを踏めば動くしブレーキで止まります。それが当たり前なのですがそんな従順なもの達に囲まれて生活していると、今度は自分の思い通りに動かない物に対してパニックやヒステリックになってしまう様です。ふと思うのは現代の私達にとって『子育て』がその最たるものなのではないかということ。煩わしさをひとつひとつ社会や機械の機能によって克服し、私達の生活は確かに便利に安定的になりました。機械は何でも私達の言うことを聞いて、現代の私達が望む自己実現をアシストしてくれています。中には自分が機械(特にパソコンなど)を上手に使えないのを棚に上げて「あれはこの機械が悪い!」なんていう人もありますが、機械科出身の僕としてはそんな言われようをする機械達が不憫に感じられます。でもあのコンピューターゲームでさえ最終的には人間に勝利の満足感を与えてくれるようにプログラムされているのです。そんな現代において意のままにならないものは心の奥に深く刺さったとげのように、痛みを感じさせるものとなるのでしょう。
 そう、子どもほど私達の思い通りにならないものはありません。でも子どもは人が作り出したものではなく、神様が与えてくださったものです。人の頭が考え出したものではなく、神様が与えてくださったものを『人工』に対する『自然』と呼ぶならば、この子達はまさに『自然そのもの』なのです。『自然』なら思い通りに巡りゆかないときもあれば、季節を飛び越えて大きく成長してくれることもきっとあるはず。自然の中にこうしてそっと身を置いていれば、それを感じる瞬間があるのです。だから僕はちょっとだけ、子ども達と向き合うときに心に余裕があるのかもしれません。自然はねじ伏せるものではありません。下草の手入れに小枝の剪定、季節ごとにちょっとお世話をしてやって、あとは見守りそっと寄り添うべきものだと知っているから。自然が与えてくれる『子育て』という豊かな恵みに感謝しながら。


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