園庭の石段からみた情景〜園だより6月号より〜 2010.6.24
<虫眼・鷹の目>
 蛍が飛び交う季節も過ぎ、時は六月、ようやく梅雨入りも果たしました。僕も本格的に朝のお迎えに復帰して三週間ほどを過ごし、子ども達との関わりの中でもう一度自分の感性を磨き直している今日この頃です。実はバスの添乗もなかなか楽しいもの。朝イチからバスに乗り込んで、ハイになっている子ども達相手にボケのひとつも振ったなら、心地良いばかりに返ってくる鋭い突っ込み。バスの運転手さんも聞いているだろうに、『子ども達への朝イチの景気付けに』といい歳して馬鹿話を振りまいて子ども達と盛り上がっている朝の通園風景です。
 一方、朝のお迎えは『居合い』のような真剣勝負。朝一番の子ども達、調子の良し悪しはその日によって180度異なります。特に今年、手こずっているばらさんとの勝負はその日その日、その時その時の真剣勝負。こちらのボケや挑発に乗って坂道を「たったった!」と駆け出す男の子。「やった!」とほくそえんだ僕の表情が空気を伝わって分かったのでしょうか、急にくるっと振りかえり、「やっぱりおかあさーん」とせっかく登った坂道を駆け下りてきて「はい、チャンチャン」。そうかと思えばクラスメイトと手をつなぎながらご機嫌顔で坂を登るばらさんカップル。お母さん達は後からゆっくり歩いてついて来ます。この時点ではすでに『親離れ』が成立しているとも言える状況です。お母さん達はその様子を見届けるとそっと足を止めて下で見送ろうとするのですが、子ども達はすぐさま「ぴぴっ!」っと圏外電波を受信して、振り返りざまお母さんがいないと分かって『即撃沈』。憎たらしいほどの不敵な笑い顔がほろほろ切ない涙顔に変わってしまいました。さっきまで僕に憎まれ口をたたいていたこの子達が、「もう僕は生きてゆけません」って表情で人の顔を見つめるのですから、その時点で勝負あり。「いいよ、今日はお母さんと上がりなさい」と声をかけてその日のチャレンジは終了です。お母さん達に勝てるとは思ってもいませんが、こんな短い坂の一本も登らせることの出来ない日々が続くと、自分の未熟さを改めて感じてしまうものです。
 でもそれもきっと神様の与えてくださったメッセージ。少し得意になって思い上がっていた僕に、「もう一度子ども達の心を見つめ直してみなさい」って言われているのだろうなと思えば、この子達のことを素直に受け止めることもできる気がしてくるのです。目の前の『できない』にジレンマを感じた時には、ちょっと前の『できた』を思い出せばいい。この子達のひと月、ふた月前を思い出せば、もっともっと大騒ぎだった姿が浮かんできます。そして子ども達に「でも『だっこして』って言わなくなったもんなあ」、「泣かずにお母さんと上でバイバイ出来るようになったもんね」と話しかければ、ちょっと誇らしげなまんざらではなさそうな笑顔で笑ってくれるのです。そう、この子達はちゃんと確実に成長しているのです。それをいつも忘れずにいたなら、そのことをいつも感謝して受け止められたなら、目の前の足踏みだって『小さな一歩』に感じられるようになるはず。その足を止めずに一緒に歩き続けられたなら、きっと大きく弾むような一歩が刻めるようになるでしょう。

 『虫眼とアニ眼』という本があります。前に紹介した養老孟司氏と宮崎駿の対談を本に起こしたものです。新潮文庫で出ているので興味がある方はご一読ください。中身は現代の世相に対してあれこれ言っているもので、かなり無茶苦茶な言葉も記されています。その中では教育や子育てについても触れられ、その発想に共感させられるところも多々ありました。どういうものか一口で言えば宮崎アニメの思想で現代を語ったもの。『こういう生き方が出来たら素敵だよね、でも今の自分達の生活を捨てることもきっと出来ないだろうね』、それがわかっていて『こういう生き方』を語っている言葉達。なかなか面白い本でした。
 話は朝のお迎えに戻って、子ども達と下の橋で後から来るお友達を待っていた時のことです。二人の女の子が僕に向って「先生、アリ、アリ!」と言うのです。僕も足元を見つめたのですが最初分かりませんでした。「アリ、アリ!」を繰り返す子ども達のいう先をじっと見つめると、僕の靴先にアリが這い上がろうとしている姿をやっと見つけました。僕はおかげさまで眼だけはよくて、視力は両目1.5。調子のいい時には2.0が出ることもあるのですが、その時は本当に分かりませんでした。その時この『虫眼』という言葉を思い出したのです。この本には『子ども達は虫を見つけられる眼を持っている。子どもの頃には誰もが持っていたはずなのに、大人になるとみんな無くしてしまう』と書いてありました。そう、眼玉自慢の僕でさえもそうでした。レンズの『解像力』に相当する視力という評価では高点数をつける僕の眼ですが、それでは虫は見つけられなかったのです。ではなぜ子どもの目には見えるのでしょう。以下は僕の仮説です。
 子どもと大人の目の高さ、これを身長差から仮に2倍の差があると仮定します。目玉の視野角を同じとすると、地面を見つめる時の視野が大人は子どもの2×2=4倍も広い範囲(面積)を見ていることになります。地面の上に這いつくばっている虫の大きさは同じですが、視野に対する比率で言えば子ども達には大人の4倍も大きく見えていることになります。簡単に言えば大人の目線の半分の距離から見ているので虫が大きく見えるということなのですが、これには続きがあるのでこう定義しておきます。先ほど目玉の視野角を同じとしましたが、子どもは対象物をじっと見つめる特性があります。「子どもは周りがよく見えていない」といいますが、これは子ども達がいつも何かを凝視しているということ。子ども達が何かを見るときには往々にして『見つめる』行為をしているのです。『これは何?』というインスピレーションと好奇心によって虫をじっと見つめる眼、それが『虫眼』だと思われます。人間の目にはズーム機能はありませんが、視野を絞ることによって相対的に物を大きく見ることができるのです。そうやって視野角が例えば半分に狭まったなら、面積比で四分の一、先ほどの計算に加えて大人の目と比べれば4倍の4倍で16倍も大きく見えていることになるのです。そう推論してみれば子どもの『虫眼』が説明できます。それを幼稚園の子ども達は僕に実証して見せてくれた訳です。

 また先日、この間の家族参観日を描いていたすみれさんに、その絵を見ながら色々と質問してみました。「この緑はなに?ドッヂボールの大玉?」と聞くと「お父さんのシャツ!」と自信たっぷりに答える男の子。即座に答えたその子に「すごいねー、そんなのよく覚えているね!」と言うとうれしそうな笑顔で笑ってくれました。その子達を試した訳ではないのですが、「じゃあ、しん先生の服は何色だった?」と次に聞いてみます。それも誰かが即答、「しろ!」、正解です。僕は普段、白いポロシャツなど着たことはなく、運動会でもカラープリントのTシャツで過ごしています。そうは言っても『プリント』があるだけでも僕にとっては『よそゆき』のTシャツなのですが。普段はそれほど無頓着だと言うこと。そんな僕にこの春、ある卒園生とお母さんが『アディダス』の白いポロシャツをプレゼントしてくれました。それを普段使いにするのがもったいなくて大事に取って置いた僕。家族参観日で初の晴れ舞台に着させてもらいました。それをしっかりと覚えていた子ども達。これも『虫眼』の類です。しかしこれは地面の上の虫ではないので、目線の高さは関係ないはず。おそらく『凝視』の方の効力なのでしょう。それほど子ども達はこの世界のものをじっと見つめているのです。
 でも子ども達のこの『虫眼』、欠点もあるようです。先ほどのお父さんを描いた子のシャツの色を確かめようと、後で参観日の写真を調べてみました。「ジャンケンをしているところ」と言っていたのできっと『新聞ジャンケンゲーム』だったのだろうと写真を探しますが、見てみるとすみれ組のお父さん達、みんな子ども達が手作りした白地のTシャツを着ていたのです。そこで着替える前の開会礼拝の写真を見てみると確かに濃い色のTシャツを着ているお父さん。オレンジ色のハロゲンランプのせいで正確な色は分かりませんでしたが、きっと濃い緑色だったのでしょう。うーん、子ども達の記憶は時系列的に上書きがなされ、入り混じった形で脳裏に焼き付けられるもののようです。確かに大人でもこういうことはあるものです。僕も昔のことを文章に書いていて、友達から「ここちがうよ」と指摘してもらい修正したこともあります。その時の記憶も、最も印象深い事柄同士が無意識の上に結び付けられて、違った形で記憶されることが多いようです。きっとこの子にとって、朝イチでまぶしく見上げたお父さんの緑Tシャツと、その日一番楽しかったジャンケンゲームが結びついてあの絵が生まれたのでしょう。それを正しい正しくないで論じる価値は全くありません。だってあの絵に描いたお父さんがこの子にとって『一番素敵なお父さん』なのだから。それがこの子にとっての真実なのです。

 さあ、こうして見て来た子ども達の『虫眼』ですがその特性もだんだんと分かってきました。逆に今となっては『虫眼』を失った大人の我々に、だからこそ見えるもの・分かることがあるということもここから述べられるはずなのです。まずは広い視野を持つことができること。子ども達は狭い視野を凝視しているので、『それが何であるか』はよく分かりますが『それがどうなるか』を予測するのは苦手です。例えば地面のありんこだって子ども達には這いつくばっているだけの様に見えても、広い視野を持って見つめてみれば、「あの先にある虫の死骸に向って集っているのだな」とか言うことが分かるわけです。また時系列的な記憶の整理についても子どもよりは得意で(そうでない人もあるでしょうが一般的に)、「去年は夏休みの終り頃に毛虫が出たんだったな」という記憶を頼りに対策を考えることもできる訳です。
 さあ、これらを元に一番最初の『ばらさんの坂道登園』の話を分析してみましょう。お母さんの手を離して同級生同士二人で手をつないで坂を登ったばらさんカップルの話。俯瞰で見ると『あとお母さんから何m離れられれば親離れ成立か』、とそんな段階であることがわかります。『有限距離では離れても大丈夫』、これは安心感があるから。振り向けばお母さんがそこにいることが分かっているから。で、『幼稚園に行けばお母さんとちゃんとバイバイできる』、これは離れてもお母さんがちゃんとお帰りの時には迎えに来てくれることがわかってきたから。あとはこの二つのことが連続して捉えられるようになれば、坂の下から『お母さんとバイバイ』出来るようになる訳です。また、時系列的に見ればこの2ヶ月の間に「お母さん抱っこして」と言っていたのが手をつないで上がれるようになり、それが同級生と手をつないで上がれるようにもなってきました。時間の経過で微分してやれば、確実にベクトルは右上がり、つまり成長しているのです。こうして広い視野と時間的経過を持ってこの子達のこの2ヶ月を見ることができるならば、「うん、もう少しだ」という気にもなれる訳です。でも子ども達にはそれが出来ない。お母さんから今ここで離されたら今までの自分の全てが無くなってしまうように日々感じているのです。そんなこの子達に対して僕らには、「すごいね、こんなに出来るようになったじゃない」、「ほら、あともうちょっと」とここまでの足跡を伝え評価してあげること、そして次の一歩は自分が思い込んでいるほどたいしたことじゃないんだと励ましてあげることができるのです。「もうちょっと」の方はしつこくやるとプレッシャーとなり、警戒されもするようになってしまうので『用法・用量』にはご注意ください。
 子ども達の素敵な『虫眼』を補ってあげられるのは僕らの『鷹の目』。ゆったりとした気持ちで、高いところから子ども達を見守り、導いて行ってあげたいものです。


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