園庭の石段からみた情景〜園だより7月号より〜 2010.7.13
<ホオジロ父さんの子育て講座>
 日土の自然の中に暮らしていると、季節のめぐりゆく様をいろんなものから感じることがあります。それは毎年同じようであって同じではない自然の妙。毎年7月に歌っている讃美歌『うみでおよぐ』、幼稚園のCD『みんなのうた』の中にも入っているのですが、例年子ども達が歌うバックに聞こえてくるのは蝉の声。そう、いつもの年なら晴れた日や雨上がりの午後にはうるさいほどのクマゼミ達の鳴き声が聞こえてくる頃なのですが、今年はまだまだその気配もありません。今年、いつまでも寒かった春の後にやってきたのはどちゃぶり雨の続く梅雨、そんなめぐり合わせのせいでしょうか、蝉達の夏はまだまだやって来そうにありません。
 一方、今年は野鳥の子育てをよくよく目にしました。今年は門の軒下にツバメが巣をかけることはなかったのですが、まだ薄汚いまだら模様の今年生れと思われる若いイソヒヨドリがあっちこっちでぴーぴー言っては親鳥に餌をねだっています。そうかと思えばすみれ組の前にある中庭の藪の中にホオジロの親子が住みついて、そこに植えられた紅芋のはっぱの下、餌を探しながら一緒によちよち歩いている姿を見かけます。はっきりとした黒い縁取り模様のあの顔はオスのホオジロ。その後をやっと巣立ったばかりの雛が二羽、てけてけとことこ追いかけます。父親ホオジロは紅芋はっぱの林をかいくぐりながら餌の虫を探し当てると、後ろの雛にせっせせっせと与えます。そうやりながらしばらく給餌を続けた後、親鳥は雛を促す様子を見せながら藪の中に飛び込みました。しばらくのためらいの間があった後、二羽の雛達もその後に続いて飛んで行ったのでした。
 どれだけ「できない!できない!」と言われても、抱き上げて連れていくわけにはいかない親鳥達。その両肩にわが子を抱きしめる両腕がないがゆえの雛達に対する子育ては、身をもって手本を示し、そばでさえずり励ましてやるしか出来ないのです。それはまるで僕ら幼稚園教師の姿を見てるよう。この両腕をもって全てお世話してあげるのではなく、あくまでも『自分で出来るようになる』ことを目標に置いて子ども達に向き合うのが『幼稚園保育』。この両手を出して僕達がやってしまった方が早かったり楽だったりすることは往々にしてあります。また「できない!できない!」と言いつづける子ども達をかわいそうに思い、ついつい手を出してやってあげることも多いもの。もちろん全然箸にも棒にもかからない状態で突き放し、『出来るまでやりなさい』と言うのでは『自分で出来るようになる』はずもありませんが、あの親鳥が「はい、ここまでがんばれ」、「出来たら次はここまで」とちょっとずつ雛達を促し導いていたように、少しずつ目標を高めながらトレーニングさせて行く姿、あれを僕らはお手本とするべきなのでしょう。
 幸か不幸かこの子育てのおかげで彼らの『親離れ率』は100%。自分で何とかするしかないと悟った雛達は自分の力で生きようと一生懸命がんばり、そのトレーニングの成果としてその季節の中で一人立ちしてゆきます。彼らに『留年』はありません。そうは言っても時代と共に子育ての形が変わってゆくのは人も鳥も同じこと。かつてあふれんばかりの豊かさを誇っていたこの国の自然も少しずつ失われ、餌となる虫達が減ってしまった現代においては、雛に自分で餌を取らせることもなかなか困難になりつつあるのでしょう。大きな図体のイソヒヨドリがいつまでも親から餌をもらっている姿などを見ていると、そんな風にも思えてきます。いずれにしても鳥達もそれぞれ、子育てには苦労している様子です。

 さあ、話を僕らのお世話している『雛ちゃん』に移しましょう。今月はすみれ組の『おとまり保育』がありました。まだまだ『ぴよぴよぴー』のすみれさん、それでもいつまでも「まだ心配だから出来ません」ではこの先の成長もありません。ちょっと高めのハードルをこの時期に一度チャレンジしてみることによって今の自分が分かると言うもの。自分がどれだけ成長してきたのか、自分がどこまで出来るのか。そう、おとまり保育とは『実力テスト』と『応用テスト』の実地版。その中でこの子達の今の姿が色々見えてもきたのでした。
 この中で僕が感心したのが子ども達の生活習慣。就寝前、歯磨きを終えるとすぐさま歯ブラシとコップをかばんにしまいに行った子ども達が何人もありました。先生からは「明日も使うからまだ置いておいて」と声かけがなされていたはずなのですが、いつもの習慣で『歯磨きが終わればきちんと後片付け』をしてしまったこの子達。もっとも先生のその時々の指示を『ちゃんと聞いていなかった』と言われてしまえばそれまでなのですが、それを差し引いてもこの子達、「ちゃんちゃんしゃんしゃんして来たなあ」という感を受けました。
 これがもう一歩成長するとこんな応用事例に発展してゆきます。同じく歯磨き後の歯ブラシセットの処遇をどうしたものかとちょっとひと思案した男の子、何かにひらめいてつぶやきます。「女の子の歯磨きが置いてあるんだから、きっとここでいいんだ」、この洞察力にはおそれいりました。先に入浴・歯磨きを済ませていた女の子達の歯磨きセットが全てそこに残されているのを見つけてそう判断したのでした。しかもあの言葉。故意か無意識かわかりませんが、もし僕がそこにいることを承知の上でのつぶやきだったなら、『自分の判断が間違っていたなら声をかけられるだろう』という保険もかけていたと言うことでしょうか?これら一連のこの子の頭脳プレーには全く脱帽です。でもこうやってちょっとずつこの子達の頭脳回路は成長・進化してゆき、答えのわからぬ状況下においても的確な判断が出来るようになってゆくのです。そうやって人類は衰退してしまった第六感の代わりに知識や洞察力を身につけてここまで進化してきたのです。その進化の過程を見せてくれているかのようなこの子達の成長の足取り、ついつい興味深く見つめてしまうのはそんな人類の足取りに重なるところがあるからでしょうか。まだまだぽーっとしている分化前の子達もたくさんありますが、彼らもこれから与えられる環境と経験によって覚醒しながら、ちょっとずつ進化して行ってくれることでしょう。

 もうひとつ、『おとまり保育話』をご紹介。二日目のお楽しみ、『すいか割り』はみんなも楽しみにしていたメインイベントです。でも今年のすみれさん、野菜嫌いが結構おりまして、そんな中でも「イチゴ嫌い!」、「すいか嫌い!」と果物までダメな子が盛りだくさん。それでもイベントとしてのすいか割りなら喜び勇んで参加するわけです。この時はみんな一緒に大盛り上がり。目隠しをした友達を応援し、振り下ろした棒が当たった当たらないで一喜一憂しています。今年のすいか、大人の頭をはるかに越えるほどある大物で、子ども達の棒が当たれど当たれどびくともしません。子ども達が一巡してもまだまだ割れそうにないすいか君。最後は目隠しなしで力自慢達が挑みますが、「それでもすいかは割れません」。最後はめぐみ先生の包丁で真っ赤な果肉がやっと顔を見せました。そこまでは大ハシャギの大喜びだった子ども達。「責任持って全部食べてよ」と呼びかけた声に、すーっと静寂が広がりました。「そうだった、割れたら食べなくっちゃいけなかったんだった」、「割れなければ良かったのに」、と『すいか嫌いちゃん達』が思ったか思わなかったか定かではありませんが明らかに下がってしまった子ども達のテンションでした。
 そんな彼らを知ってか知らでか、すいか大好きの子ども達が真っ赤なすいかにかぶりつきます。「一口でいいから食べてよ」とのみわ先生からの言葉に、すいかに重たい腕を伸ばす子ども達。でもこれも当たり前のしつけ教育。よく『自分が食べるのでもないのに獲ったり殺したりするのは人間だけである』という話が語られます。そう、他の生物達は生きるために『獲り・殺し』するのに対して、自分の快感を満たすためにそのような行為をするのは人間だけであるという説。最近では動物界でも自分で食べる以外にそのような行為をした個体の事例が報告されることもありますが、それは例外中の例外。すいか割りも『ゲーム』である一方、ちゃんとルールやモラルを守ってやらなければいけないものであることを、僕らは子ども達に教えなければいけないのです。幼い子がとっさの衝動から物を無茶苦茶に壊してしまうことは良くあること。あれが人間の本性の中にある『猟奇性』であるならば、僕らはあの衝動を自分でコントロール出来なければ、この社会の中に身を置かせてもらうことはできないでしょう。そう、ここはこの子達に教えなければいけない一線なのです。
 一方、そうは言っても『嫌いなものは嫌い』、これまた子ども達の真実です。ではそんなこの子達に向って僕らはどうしてやればいいのでしょうか。僕らの出来ること、それはきっと「その気にさせること」くらいなのです。あれはなんのインスピレーションだったのでしょう。しゃくしゃく、すいかをむさぼっている子ども達に向って突然、「すいか種跳ばし大会!」とぶち上げてすいかの種跳ばしを投げかけました。ビデオカメラを回しながら子ども達に「誰が一番遠くまで跳ばせるでしょう。ここまで跳んだら2m」とか適当なことを言うと男子諸君が次々にエントリー。力んで「ぷっ!」とかやるのですが足元にぽろんと落ちる種に「はい残念、1m」なんてやるものだから子ども達は「なにをー!」とますます勇んで種を跳ばします。そんな彼らに混じって一人の『すいか苦手君』が参戦してきました。いつにも増して口は軽く、喜び勇んで種跳ばしに興じる男の子。何度も何度もすいかを口にして「ぷっ!」、「ぷっ!」っとうれしそうにやっていました。そうこうしながら確実にすいかを口に運んでいます。そう、この子達の『苦手』なんてこんなもの。苦手になるきっかけもきっとあったのでしょうが、その事自体よりもそれ以降の苦手意識のほうが手ごわい難敵となり、この子達のことを苦しめているのです。その『苦手』を吹っ切るのも何かのきっかけ。そのきっかけにその気になって飛びついて行ったなら、後は自然と道が開けるのではないか、とそんな風に思うのです。でもこの子、きっかけがあったとは言っても長年の苦手に打ち勝ったのですから、本当に偉かった。あの姿がお泊り保育での一瞬の幻なんかではなく、この夏休み、またあのうれしそうにすいかにかぶりつく笑顔をお父さんお母さん、そしておじいちゃんおばあちゃんに見せてあげて欲しいと願っています。

 今学期最後の『園だより』ということで、気になる『ばらさんかたつむり』の近況もご報告。『ママと一緒』で手ごわかったばらさん達、彼等もある日ある時何の拍子か僕と幼稚園の坂を上がってくれるようになりました。お母さん達と一緒に苦労したかいがあったというものです。結局『なんで』というところは毎年誰にも分からないのですが。僕にもお母さんにも、そしてもちろん当の子ども達にも。でもわかることはひとつ、これは当たり前ではないということ。一番最初に坂を上がれるようになった子が今頃スランプになってみたり、その日によって口説き落とせない子がまだまだあったり、でもそういうものなのです。そうやってこの子達は行ったり来たりの『らせん階段』をぐるぐるしながら、本当の心の体力をつけて行くのです。だからまだまだ、一人でいけた日には「がんばったね」と声をかけ、行けなかった日には「今日はいいよ」と受け止めてあげて欲しいのです。今はまだ『確実に行ける』ことよりも『この子達のその気が本物になること』を目指しながら。それは「さあ、もうあとちょっと、ここまでおいで」と『ホオジロ父さん』が身をもって雛達に、そして僕らに教えてくれた子育てスタイル。ちょっと真似してみませんか。さあ夏休み、そんな素敵な子育てチャレンジにぜひぜひ挑戦してみてください。


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