2010夏、僕の東京ひとり股旅          2010.8.11
<風に吹かれて〜2010夏旅行記・前編〜> 
 今年の夏旅行は旅立つ寸前まで計画が立たず、日土暮らし9年目にして初めて日土で過ごすお盆休みとなるはずでした。表向きの理由は『今年から始めた夏休みの預り保育の為、お盆のど真ん中しか休みがなかったから』と言っていたのですが、それでも普通の人達に比べたら恵まれた夏休み、本当の理由ではなかったのかもしれません。確かにこの時期には飛行機は取りにくく、マイカーの一人旅もお盆の渋滞の為に困難が予想されます。それでもその気とやる気があれば人はなんとかしようと思うもの。ご存知の通り、特に僕はその典型。今年はいつものモチベーションが湧き上がって来なかったのが一番の原因だったのかもしれません。去年の夏旅行はフルスペックでやりたいことをほとんどやってしまったと言う達成感・疲労感・満足感がありました。そしてそのことを懐かしく思い出すたびに「あれ以上のことは出来ないだろうな」と自分の限界も感じ、去年より自由度のなくなった夏休みと相まって、ちょっと今年は燃え尽き気味だったのかもしれません。そう、そんな去年と今年の状況を見つめながら、僕の心の中で一つの区切りがついてしまっていたのでしょう。

 そのことに加えて今年の僕の写真に対するスタンスと去年切った大見得が自分自身に大きなプレッシャーとなって返ってきます。去年のエッセイに書きあげたデジカメ論、『何もかもデジタルへと流れつつある時代の中で、アナログの心を忘れないで』と読む人々そして自分自身に訴えかけたあの文章が、自分を励ますものからプレッシャーへと変わって行ったこの一年間でした。そもそも僕が紙面上で何かを論じる時は往々にして僕自身、心の中を揺らし何かの答えを求め探している時。デジカメの優位性を知りつつも銀塩カメラを擁護する立場で論陣を張ったのは、デジタルを肯定することによって切り捨てられてしまうもの達の切なさを自分の心の中にいつも感じていたから。でも効率主義に基づく『デジタルがいい』=『銀塩はイラナイ』という構図はここ数年で写真業界のインフラをがらっと変えてしまいました。
 去年の暮れに保内の写真屋さんが店を閉じ、リバーサルフィルムの現像が八幡浜市内の大手チェーン店に出さないと出来なくなってしまいました。これは僕にとって大きなショック。でもこのフィルムが使えなくなることへの不安がきっかけとなり、僕は作品作りに使えるデジカメを本気で探し始めたのでした。銀塩の135フォーマットと共通マウントのデジカメは、同じ焦点距離のレンズを使うとCCDの受光面積の違いから画角が狭くなってしまいます。つまり同じレンズを使ってもそこには狭い範囲の風景しか写せないのです。このことは望遠撮影にはある意味有利なのですが、僕のスナップや風景撮影には適しません。またデジカメ専用設計のレンズにはズームレンズが多く、CCDの受光光線の指向性の問題もあって、どうしても前玉が大きくレンズも大型化してしまいます。これは撮影者の感受性によるものなのですが、僕の場合、大きなカメラとレンズの組み合わせは体力的にも精神的にも重く、日常の空気や光線を撮ろうというスナップではとても撮りにくく感じてしまうのです。一方コンパクトデジカメの方は色味やコントラストなど思うように設定が出来ないものが多く、どうしても欲しい絵作りがやりにくい。その上電気的なレンズ動作や駆動音も好きでない。『気に障る』と言ってしまえばただのわがままなのですが、そもそも趣味の写真なんてそんなもの。その気になれなかったらいい絵は撮れない、そんなものです。銀塩カメラでも近年、僕が一眼レフよりも小柄なレンジファインダーカメラを好んで使っていたのはそれがスナップを撮りやすいカメラだったから。そんなデジカメはないものかと探していたところ、僕の目を引いたのは単焦点のスナップレンズが用意されたOLYMPUSのE−P1でした。
 E−P1は昔のハーフサイズカメラ、『オリンパス・ペン』をモチーフにした小型のレンズ交換式デジタルカメラです。徹底的に無駄を排除して軽量小型化を実現したこのカメラ、ファインダーや内蔵ストロボ、そしてペンタプリズムにレフレックスミラーもないと言う本当に何にもついていないカメラなのです。これはまさしく昔の『ペン』をデジカメとして今の世に送り出したようなもの。それどころかペンにあったファインダーや距離計までもなくせたのは『ミラーレス一眼デジカメ』という新しいジャンルの利点を最大限に生かした設計だからこそだと思います。撮影範囲を確認するためのファインダーは裏面の液晶がその役を担い、普及機の光学ファインダーでは85〜92%程度であった視野率(写る範囲とファインダーで見せる範囲のずれ)がデジカメではCCDに写る範囲をそのまま液晶で見せるために『視野率100%』。これにより「ここまでは入れたいけれどこの外は入れたくない」と言うぎりぎりのフレーミングが可能になりました。またCCD上の画像を使ってピントを合わせるコントラスト方式のAFは、一眼レフ方式で必要だった専用のレンズやセンサーをもなくしてくれたのです。
 このようにコンパクトと一眼のいいところを取り合わせ、その上小さく使い勝手のいい専用単焦点レンズが用意されたこのE−P1を僕はこの春購入しました。コンパクトカメラよりは一回り大きなカメラですが、マニュアルの操作性にも優れたなかなか取扱いの良いカメラです。春から夏にかけてこのカメラでたくさんの写真を撮りました。日土のスナップを始めとして花の写真や海や空、蛍の写真も撮りました。被写界深度やボケ具合、色味の傾向などだんだんこのカメラの『くせ』もつかめてきました。各所でレポートのあった高感度時のノイズの大きさも蛍の写真で確認。銀塩フィルムで使っていたベルビアに比べて彩度が低い、偏光光の再現性が低く、水面に反射する太陽光のキラキラ感が思うように表現出来ないことなども分かってきました。このカメラに出来ること出来ないこと、それが分かってくると「やはり銀塩でなければ」という表現もある一方、全くの同条件下で同じものを撮り比べた時、そこに有意差を表すことがなければ『銀塩で撮る』と言う意義を失ってもしまう訳です。これまでは『慣らし中だから、日常のスナップだからE−P1で』と両者を競わせることはしてきませんでしたが、なかなかの好成績に『銀塩を使う意義』を問われる事態を思ったより早く迎えてしまったのは皮肉なものです。そんな状況で迎えた夏休み、両者の実力を検証・評価・総括するのはこの恒例の撮影旅になるであろうことはE−P1を使い始めた頃から薄々感じていたこと。しかもそれは銀塩に引導を渡すことになるかも知れないことも重々承知。銀塩を使わなければそれでもう不戦敗、実力勝負で負けても引退勧告。『デジタルがいい』=『銀塩はイラナイ』という答えを出した瞬間に否定されるもの達、それは物置に眠っている数々のカメラ達だけにとどまらず、これまでこだわってきた自分の生き方や哲学をも「ほら、もういらないものだよ」と言われてしまうような気がして、これまでの僕はついつい『銀塩賛歌』に力が入ってしまっていたような気がしています。
 効率という現代社会が掲げる共通の価値観に対して『趣味』というものが内包している『ムダ』。でも効率外のところで『ムダ』を追い求める行為に、僕らは心の満足感と豊かさを感じているのです。その言ってしまえば『ムダの象徴』である『趣味性』にどれだけ価値を見出すか、『こだわり』をどこまで貫き通せるか、そこに僕らの心づもりが今一度試されているのかもしれません。と今の自分はいろんなことに対して答えを求められているような気がして、それに対して答えを出さなければいけないような気がして、僕の今年の帰京モチベーションに水をさしていたのかもしれません。

 ただのアンティークカメラ愛好家であったなら、フィルムの入っていないカメラをピカピカに磨き、シャッター音を聞いているだけで満足するのかもしれません。むしろ、その方が大人らしいクラッシックカメラの楽しみ方なのでしょう。また今更ながらに考えてみれば、僕らはこれまで幸せすぎたのだと思うのです。およそ百年前に映画用の35mmフィルムを流用した銀塩カメラが初めて作られてから現代に至るまで、ずっと同じフォーマットのメディアを使うことを許されてきたこと、これは本当に奇跡と呼ぶに値するものでした。出版音楽の世界ではSP盤・EP盤のレコード達を経て今のCDに。汎用録音機ではオープンリールのテープレコーダー・カセットテープ・DAT・MDそして録音用CDからICレコーダーに。映像機器ではフィルム映画から始まりベーター・VHSのビデオテープ、HDディスク・レーザーディスク・DVD・ハードディスクそして2種類のブルーレイが真っ向勝負を繰り広げ、現在のブルーレイディスクが生き残ったのは記憶に新しい所。と僕のうる覚え・聞きかじりの知識の中でもこれだけの遍歴を経て各ジャンルのメディアというものはその形態を変えてきました。この中にはレコードのように高い趣味性を認められ、現在でも機器や新譜が供給され続けているものもありますが、多くはなくなり消えて行きました。カメラもここに来て、時代の流れに沿って他のメディアと同じような道を歩むことになったのです。
 『多くの情報を小さなメディアに記録する』、この情報の高密度化がある意味での音質や画質の向上と大量に情報を発信する生産効率のアップを実現してきました。音楽でもアナログからデジタルへ移行する際、『サンプリング周波数などの問題から質感が低下する』ことを懸念してアナログを支持し続ける人達がありましたが、最終的にはその市場の支持率と採算性によってその意見は主流から外されていきました。レコードからCDになった時、人間の可聴域限界周辺の20kHz以上を規格外に設定し、存在しているはずのその音を切り捨ててしまうことに対する議論が大いになされたものです。MDが出来た時にはそのCDの情報を、一般可聴領域の音までさらに間引き圧縮してあの小さなディスクの中に押し込めました。その大いなる『間引き』から「MDは音が悪い」という評判にもなりました。うわさだけでなく、当時でも「MDの音ってやっぱり悪いよ」と言う耳のいい友人達の評を僕は「ふーん」と聞いていました。僕も少し経ってからMDウォークマンで音楽を聴くようになったのですが、付属のちゃちなヘッドフォンと街中の雑踏の中で聞いていたせいでしょう、彼らが言う様な違いがその時は分かりませんでした。そんな大騒ぎをした音楽のデジタル化の歩みでしたが、今では圧縮技術がさらに進み、ケイタイに配信して音楽が聴けるようにまでなりました。僕は聞いたことがないのですが、聞いている人達はその音にどれだけ満足しているのでしょう。

 そんなこんなでうだうだした想いの中で過ごしていた僕の背中を押してくれたの周りの人々、そして昔馴染みの旧友達でした。「今年は行けそうにありません」と皆に送ったメールへの反響は大きかった。「一年に一度の休みなんだから、二泊三日でもいいからおいでよ」と言ってくれたI君、「残念ですが、もし来れることになったまた連絡してください」とはH君の言葉。幼稚園の先生も「お盆はお休みあるじゃないですか」と言葉をくれ、お母さん達は「夏旅の写真、楽しみにしているんです」と微笑みかけてくれました。旧友たちはみんなそれぞれに僕のことを気にかけ、彼らなりの言葉で僕に『勇気とその気』を思い出させてくれました。僕の周りの人達は、僕の自己満足だけで成り立っている『つまらない仕事』を喜び励ましてくれ、『やる気』をもう一度僕に与えてくれました。「みんなが僕を肯定してくれている」、そんなうれしい実感が僕の想いを力強く後押ししてくれたのです。それからのアクションは早く、往路の交通手段をインターネットで検索し、夜行高速バスも手配しました。東京までの夜行バス、最近はすごくよくなったと言う話を聞くのですがどんなものか自分で乗って感じてみなければ分からない。チケットを往復で取れば値段も安く予定も早々と決まるのですが、これは毎年僕が僕自身の心に問いかけ、この先歩いてゆく道をひとり考える『ひとり股旅研修旅行』、想いが満ちるその時までとわざわざ保留することにしました。『経済性優先』・『一番快適な手段』の一項目で検索してしまえば一義的に決まってしまう解がすぐに与えられるでしょう。でもそれだけで割りきるには人の心は複雑で、人の想いは繊細で、自らのその感情と向き合った上で答えを出すことを常としなければ、この『小さな複雑な心達と向き合ってその魂を育ててゆく仕事』はきっと僕には出来ないでしょう。一斉保育が大の苦手、子どもに何かをさせるのがへたくそで、その代わり一人一人と顔を突合せ向き合って、その悩める魂の小さな声に辛抱強く耳を傾け支えてあげる、そんな保育しか出来ない僕。そんな僕にとって『感じる感性』は生命線、それを磨くことが一番の研修だと思って毎年研鑽を積んでいるつもりなのです。半分遊びの言い訳ですけれど、人はどこででも何にでも学べるもの、学ぶべきものだと思うのです。
 たったひと夏の旅行に出かけるにもこれだけのことにあれやこれや想いを馳せ、言い訳がましくレポートしている面倒くさい僕と言う人間ですが、これでやっと旅立てます。この文章も何度も読み直し書き直し、自分の想いを確かめながらやっとここまで書き進めてきました。それほど僕の普段の想いは漠然的で、僕の気持ちは流動的で、その時々のしゃべり言葉で自分を語ったなら必ずすぐに破綻してしまうから、こうして全体を見渡しながらひとつの文章にまとめてゆくことが、それが僕の想いや決意にもなるのです。そしてそれを支えに、僕はきっとまたこの旅に向かって歩いてゆけるのでしょう。

 出発の晩、家族や甥っ子達に見送られ、伊予鉄バスの八幡浜営業所までたどり着いた僕。バスに乗り込み他所の家族の別れの情景を眺めながら、バスが走り出すまでの時をのんびりと待ちます。「おじいちゃん、またくるね」と小学生の男の子。どうもそんな光景がなにより先に目について、やっぱり駅や空港からの旅立ちは苦手です。でもこういう情景を目にする度に、田舎やそこで迎えてくれる家族の大切さを感じるのです。楽しかった思い出と別れ際の切なさがあるからこそ、大事に思える想いがあるのだと。お盆の季節の大移動は日本人の風物詩。田舎を大切に守りながら土や風とともに生き、こうして家族が遠くから帰ってきた時にはあふれんばかりの想いをもって出迎える。それが『家』でありこの国の『家族』というものの形なのでしょう。何らかの理由で日頃離れて住んでいてもこうして田舎に帰ってくれば喜んで迎てくれる家族がいる、そのことが私達日本人のがんばりを支えてくれているのです。などと思い浮かんでくる想いと端々の記憶の行ったり来たりをこうして書き留めながら、消灯までのバスの中での時間を過ごしました。
 バスの中は三列シートで割合広く、途中まとめて数時間眠れたこともあって東京行きの手段としては悪くはないかなと思った次第。快適さは合格点、値段も一番安上がりと言うことを踏まえた上で帰りの交通手段を考えます。乗り換えもいらないのでとても便利なのですが何かが足りない。それは何かと考え心に聞いてみます。そう、これは僕が自分自身と対話するための旅。バスは安くて便利でいいのだけれど、移動中の感動と言うものが希薄なのだということに気がつきました。東京−愛媛間の十数時間、それを多少の我慢をもって消化するか、それとも日常では見られない一つ一つの物事に目を向け何かを感じ感動しながら帰路をたどるのか。そこにあるはずの『何かを感じる可能性』にこそ、この旅の意義があるのだと。最終的には「久々に新幹線に乗ってみたい」という想いに従い、JRでの帰り道を選びました。新幹線自体は岡山まで三時間ほどなのですが、そこから瀬戸大橋を渡り在来線をとろとろ乗り次いで愛媛まで帰ったなら所要時間は11時間。インターネットの検索サイトがはじき出した細切れの在来線ダイヤを乗り継ぐタイムスケジュールを、後に緑の窓口の係員に差し出して「これで切符をお願いします」と手配を頼んだのですが、指定券が必要だったのは新幹線だけだったことが分かり切符を受け取ってから、「四国内で特急に乗ったならもっと早く帰れたのでは」などとも思ったものでした。でも「これも天の神様の言う通り」と言いながらあまたの『鈍行乗り継ぎ』を楽しむことに決めました。新幹線から見えるはちょっ早に流れ去り消えてゆく情景、何を食べようか楽しみな駅弁、瀬戸大橋から眺め見下ろす夏の瀬戸内海、乗り継ぎのためにたたずむ田舎駅のプラットホーム、電車の中で何を書くだろう回想録、今からわくわく一気に楽しみが膨らんできました。この旅の最後のちょっとの贅沢として選んだJR、僕に何を見せ、何を感じさせてくれることでしょう。

 先に行き過ぎた話を戻して東京一日目、バスは首都高の渋滞で1時間遅れて新宿にたどり着きました。しばらく新宿をふらふらしてまずは朝食の取れる喫茶店を探しますが、いまいちちょうどよさそうな店が見つかりません。こちらは大きなDバッグを抱えており、手狭な店では周りの迷惑になりそうです。でもそんな広々としたお店、この土地の高い都心ではきっと営業してゆけないのでしょう。早々に見切りをつけ、コンビニでサンドイッチを求め僕は新宿御苑を目指しました。ここは大学の研究室で同門だったH君お気に入りの場所。彼のHPに度々紹介もされていたことを思い出し、今回の時間潰しのために行ってみようという気になりました。当の僕自身にとっては本当に久しぶりの新宿御苑です。この夏色々な用途を想定して購入したA6判の簡易パソコン、今もそれでこの文章を書いているのですが、そこに詰め込んできたデータベースによるとここを訪れるのは十年ぶりになるようです。公園の緑越しに見えるレゴで積み上げられたような愛らしいNTTビル、前に見た時にはあれにもまだクレーンが架かり建造中だった絵を覚えています。このパソコン、ワード互換のワープロソフトを使っていると文字表示のバグは出るし、たくさんのファイルを開くとフリーズしてしまう、かなり『こまったチャン』なのですが、こうやって外で蝉の声を聞きながら、バスに乗っては窓の外の景色を眺めながら思い浮かんでくることをその場所で書きとどめることができるので結構気に入っています。パソコン仕事は基本的には机上の空論。特に夜中などに一杯やりながら感極まった文章を書いてメールで送ってしまったなら、翌日はどう収拾したらよいものかと大いに慌てふためいてしまうもの。まあそれはそれで普段意気地のない自分の背中を押してくれる『もう一人の僕』の大切なお仕事だと、自分でも「やりすぎない程度に」と公認している?のですが。今日は木陰のベンチに座り込み、決して打ちやすくはない小さなキーボードに向かっていると、さっきから蜘蛛の子に首筋をくすぐられ、「ぼとっ!」と音を立てて落ちてくる茶色の物体に驚かされ、拾い上げてみればそれはアブラゼミの抜け殻だったのですが、上を見上げれば木の枝にゆうゆうと留っているハシブトガラス。餌と思って突っついたのでしょうか。抜け殻と知った八つ当たりかそれともはたまた偶然か、ベンチに座って文章を書いていた僕の上にその抜け殻を落としてきたのでした。そんな東京に棲む生き物達とのやりとりを楽しみながらひと心地つけては腰を上げ、僕の公園散策は続いてゆきます。

 毎年思うのですが東京の空はこの季節、見事な積乱雲の巣となっています。一昨年羽田空港に降り立つ飛行機の中から見た『竜の巣』のような積乱雲がとても印象的でした。南国愛媛の空は早、秋化粧を始めて上空の風に流された筋雲が見られるようになり始めたのに対して、ここ東京では真っ直ぐ立ち昇る入道雲がその威厳を誇示しています。夏型の高気圧が東側で頑張っているせいか、はたまたヒートアイランド現象による上昇気流の産物か。いずれにしてもここ数年、『ゲリラ豪雨』と呼ばれる夕立が都心を襲うようになったそうですが、空の様相はそれを日常的に裏付けています。あの雲を見れば「あれくらいは降るよな」という気にもなってきます。でもみんな大雨のニュースには一喜一憂するのに、自分の目で空を見上げて「なにかおかしい」と言う人はありません。それはきっとこの『空の相』を読める人がいなくなったから。昔の人達は空を見上げ、風や空気の湿り気を感じながら「明日は雨だね」と言い当てたもの。それが人々の日常だったからです。それが現代では分業化が進み、自分の専門以外のことには全く知らぬ存ぜぬで済ませてしまうようになりました。そのことによって自分達の行いが巡り巡って、また自分達の生活に返ってくることなど気づきもしないようになってしまったのです。自分達が出した熱がこの空を熱し、夕立になって返ってくると言うことなど露とも知らないで。
 でもこんな言葉、田舎でのうのうと子ども相手に暮らしているからこそ言える言葉だということも分かっています。最近は田舎暮らしでも毎年しんどい夏が続いています。でも僕らの救いは暑ければ子ども達と頭から水を被って水遊びが出来るということ。頭や首筋から冷たい水で暑い身体を冷やしたなら、ぐっと体温も下がります。それに加えて園庭に撒いた水が蒸発する時に奪う気化熱が、吹き寄せる風の温度も下げて涼しさを僕らにプレゼントしてくれます。これは日土の山だからこそ出来る涼み方。八幡浜の市内でさえ、もうこんな涼の取り方は出来ません。涼しい風の吹いてくれない街中で涼を取るにはクーラに頼るほかないのです。その室外機の出す熱が自分達の街を熱してしまうという悪循環。でも僕だってそのことを偉そうに言える立場にありません。それは我々が文明を進歩させてきた道で、みんなで選び取ってきた結果であり総意なのだから。自動車による物流の有用性を誰もがいち早く認め、多くの道路を作りアスファルトでみんな舗装してきました。あれは『車はぬかるみに弱い』から。また保水性の高い雑木で被われていた山々にはお金になる杉桧が植えられました。舗装された道路と保水能力のなくなった山々、それらが相まって降った雨は一気に川に流れ込み川があふれるようになると、今度は治水対策として川が護岸されダムも造られるようになりました。それでも近年のゲリラ豪雨では川が溢れ、街が水に浸かっています。人間の力づくでは次々とほころびが生じ、災害とのいたちごっこを繰り替えしています。でもきっと僕らは自然と共に生きるという道を、この都会において実現出来はしないでしょう。それはこの国の生まれ持った能力以上に一局集中してしまったこの都会の人間と政治と経済を、まだ自然力にゆとりのある地方に移譲することでしかなしえないことだから。昔から東京の夏には夕立がありました。夕立も一局集中しなければいい夕涼みの雨なのです。無秩序な経済優先の街作りをしてきたことのつけが回ってきたということなのかもしれません。僕だってその張本人。田舎暮らしを経てそのことが客観的に見えてきただけで、この社会のベクトルからは離脱することは出来ないのです。発達した物流システムのおかげで東京と変わらない文明を手に入れて、地元のお店を泣かせていることを知っていながらディスカウントの量販店で安物買いをする。そのデフレのスパイラルがいずれ自分に返って来ることを知っていながら。
 僕の住んでいる日土の家や山もここ5年くらいで大きく変わりました。荒れ放題だった裏山も上からの道が付けられ、園庭の中にまで自動車が入れるようになりました。おかげで幼稚園への物資の搬入が容易になり、また足の悪いお年寄りが幼稚園や教会まで楽に来ることが出きるようになりました。これも山を切り開き、道路を作って舗装したおかげです。でも一方で雨が降った時にはその道を伝って雨水が幼稚園の園庭にまで流れ込んでくるようになりました。それ以前も園庭にはちょろちょろ山水が流れ込んでいたのですが、舗装道を流れて来る水はその比ではありません。園庭の入り口に砂利をしいたりパイプを埋めたりしましたがうまく行きませんでした。最後の手段として手前にU字溝を埋め、なんとか園庭への水の侵入を食い止めることが出来るようになったのです。これにもまだおまけがあって、大雨が降った次の日にはU字溝一杯に砂や土が流れ込んでおり、ドブさらいが欠かせません。今はドブさらいという代償のおかげでバランスしている日土の山のプチ開発ですが、これ以上人間の都合勝手でいじくり返せばまた大胆なしっぺ返しをもらうような気がしています。
 『日本人は昔から自然を大事にしてきた訳ではなかった』とは宮崎駿の言葉です。木を切り倒して山一つを平気で丸坊主にしてきたのが日本人なのだと。ただそれよりも自然が豊かで自らを癒す治癒力がこの国にあっただけなのだと。鉄を精錬するために木を切り山肌を削り崩しても、温帯から亜熱帯の気候に被われているこの国は百年も経てば元通り木が生えてくるのだそうです。鉄を取るために中国古代でも同じことをやったそうなのですが、地質と気候の違いから未だに禿山ばかりなのだとか。その豊かなはずの日本の自然も「現代のようにブルドーザーで根こそぎ掘り返しては自然がもたない、ただそれだけのことだ」と言っています。だから田舎田舎と言っている僕らの日土だって同じ。分を過ぎればきっと自然は我々からその恩恵を取り上げてしまうでしょう。

 初日、夜行バスが朝の新宿に着くことが分かっていながらH君達と夜七時に飲み会を入れてしまっていた僕。つまり11時間も時間を潰さなければいけないという長い長い待ち合わせが僕の一日目のミッションでした。新宿御苑でがんばって4時間半を過ごしたところまでは目論見以上だったのですが、それでも約束の時間まであと5時間あります。「もうここはいいかな、ぶらぶらしていけばなんとか時間を潰せるだろう」と新宿御苑を後にしました。まずは新宿東口の楽器屋さん。東京に来たときにはここで一年分のピックを買ってゆきます。ピックはギターの弦を弾くプスティック製の爪なのですが通常一枚百円ほどもするもの。なのにもかかわらず、本番などでギターをがしがし弾いた日には一曲で削れ潰してしまう消耗品。本当はもっと上手に弾けばいいのですが。偏って削れたピックをカッターナイフで削り整えたりして使ってはいるのですが、やはり消耗してしまう運命は変えられません。背に腹は変えられないと言うことで、十枚四百円で買えるこの店に通って来ては毎年ピックを買って帰るのです。さっき言っていたそばからデフレを回しているこの体たらく。でもこれも趣味の取捨選択。昔からフィルムやギター弦などは学食の昼飯代を切り詰めながら用立てたもの。有り余るほどに用意されたものを与えられた環境より、このように「本当に必要なものを一生懸命考えながら最低限の準備をして向き合う『趣味世界』の方がその精神性によりいいものが生まれる」、とそう信じていた僕。半分やせ我慢ですが。でも趣味とはきっとそんなものなのです。
 その後中央線に乗り込んで、早々と飲み会の目的地に向かいます。と言っても下車したのは一駅手前のお茶の水。ここは聖橋、そして湯島聖堂がある所と言えば勘のいい人なら、さだまさしの『檸檬』を思い出してもらえるでしょう。傾き始めた夕日が水面を照らし、重たい雲が向こうのビル群越しに臨めます。まずは橋を渡りきり、木陰のベンチに座ってカメラを準備します。その時、僕の後ろの木の低い所、手を伸ばせば届く距離の所にアブラゼミが留まり、無遠慮に大声で鳴き出しました。都会の蝉も必死なのでしょう。普通は太く高い幹に悠々と留まり、あのふてぶてしい声で「みーん、みーん、みーん、みー」と鳴くのがアブラゼミの相場。それを道脇に植えられたまだ細々している植木の幹に留まり、人が座っている横で鳴き出すのですから。でも蝉にしてみれば、7年間も土の中でじっとしていて、やっと出てきた明るい外の世界を一時でも早く長く謳歌したいという想いがあったのでしょう。鳴くだけ鳴いてあっという間に飛び去って行ったアブラゼミを見ていて、虫達も不器用ながらにこの東京で一生懸命生きているんだなと思ったものでした。
 気を取り直してそこから聖橋のある風景を何枚かスナップします。それから橋の中央に立ち戻り、高見から見渡す神田川の情景をカメラに収めた後、湯島聖堂に向かいました。湯島聖堂はお茶の水に足を運ぶたびカメラを持って通う場所。中で閉門の5時まで粘ろうと思っていたのですが、前にベンチが置いてあって座れた所にロープが張られ、立入禁止となっていました。心ない人がいたずらをしたのでしょうか、それとも浮浪者がそこに入り込んで寝泊まりでもしたのでしょうか。いずれにしてもそんな理由であの場所にたたずむことを許されなくなったのだとしたら悲しいことです。『東京を歩く』と言ってみても人の流れの中を泳ぐのが苦手な僕、東京でたたずむことができる場所がまた一つなくなってしまいました。仕方がないのでその足で秋葉原に向かったのですが、一駅分を歩いてみたとて十数分。実に3時間も早く約束の地に着いてしまったのでした。

 約束の待ち合わせ場所はヨドバシカメラの入り口です。まずは店内を巡って時間つぶし。僕が見にいく所と言ってもカメラ売り場くらいしかありません。パソコンは買い替えの必要を感じたときとか、欲しい周辺機器ができたときにしか行きません。一年に数回もモデルチェンジを繰り返すパソコンは道具としての興味とか機械としての興味が僕にとってはいまいち薄く、今使っているパソコンへの愛着の方が大きいようです。買い換えたときに環境を整備するのが面倒だからということもありますが、それが今まで文句も言わず一生懸命仕事をしてくれたパソコンへの愛情なのかもしれません。教会の礼拝ではいつも『見返りを求めない愛』の大切さを牧師先生が毎週繰り替えし説教でお話されるのですが、そのくだりに関して僕はいつも落第点。どうしても「こんなにしてくれたあの人のためになにかをしてあげたい」という想いに基づく行動パターンになってしまうのです。機械でも立て続けに何度も壊れると最初はあれこれ辛抱強く面倒を見るのですが、あるところで限界を迎えると「もういい」となってしまう人。自分の我慢の足りなさを感じながら、「もっと優しくなれたら」と思うのですが。でもでは子どもに対しては結構辛抱強く付き合えるのはなぜかということを考えてみると、彼らは『自分ではどうしようもない自分』というものを抱えている存在だから。この子達も「がんばろう」、「がんばりたい」という想いを胸に幼稚園でがんばっているのですが、その想いが一度くじけると『自分ではどうしようもない自分』に押しつぶされてしまうのです。そこから立ち上がるには「もう一度がんばってみよう」という勇気を思い起こし立ち向かってゆくしかゆくべき道はないのです。その心、想いを支えるのが僕ら教師の役目。技術的に出来るようにと指導する以上に、彼らの心に寄り添い声をかけ続けることが大事。この子達もその僕らの想いを糧にまた一歩ずつ、先に歩いて行ってくれるものと信じています。大人の場合には相手の価値観や怠惰な態度が目に付いて「もういい」と思ってしまう所が、子ども達はいつも一生懸命、だから応援したくなるのです。でもたまに大人をなめている、『大人なんて』という態度の子どもに出会うとこちらの態度も変わります。相手をねじ伏せようとする想いに対しては水戸黄門が印籠を抜きその悪事を暴きこらしめる、相変らず浪花節な僕なのでした。
 そうそう、ヨドバシです。広い店内を歩きながらと言ってもカメラ売り場でも最新のデジカメを手にする訳ではなく、カメラマンのエッセイ本や使い方ノウハウ本を立ち読みしながらお勉強。最近の僕の関心は「どうしたら今持っているレンズがデジカメに活用出来るか」ということ。最新のデジカメ達は機械としては素晴らしいもの達なのですがどうも趣味のカメラとしての魅力が薄い。やはりそれはレンズのラインナップのせいだと思うのです。昔のカメラは用途ごとに数多くのレンズが用意されていました。それぞれの場面において一番の性能を発揮できるよう専用の設計がなされた単焦点レンズが数多くありました。それがメーカーの設計技術が上がったこと、ユーザーもメーカーも効率・経済性の重みを重要視するようになったことから、新しく設計されるレンズ達のほとんどはズームレンズで、一本のレンズで色んな写真が撮れることを要求されるようになりました。でもそれは逆に言えばカメラ業界も、それだけ昔は使う者の趣味性やこだわりを大事にしてくれていたということなのです。しかし今の世の中でそれは望まれるものではなくなってしまいました。昔、帰ってくるなりお父さんがうれしそうに新品の箱から取り出して、初めて家族にお披露目され家族の一員として迎え入れられたカメラ。「家族の思い出を残すのは父さんの役目だ」という喜びとほこりを持って写真を撮っていたお父さん達に支えられていたカメラの市場。多少の知識と技術を必要としたカメラの操作はお父さんの独壇場だったのです。それがカメラの技術進歩によって誰もがカメラを扱える時代になりました。おこずかいを削られカメラを買えなくなったお父さんの代わりにその市場を支えたのがお母さん達。趣味のためのカメラと言いながら買ったことに満足してしまい、言い訳として家族の写真を撮ってその必要性と意義を主張していたお父さんの腕がそうそう上がるとも思えません。それに対して子育ての手応えと思い出が欲しいお母さん。かわいい被写体はいつも目の前に、思い通りにならない子育てに抱くジレンマも我が子の笑顔を見ればすっと消えてゆきます。そこに誰でも簡単に使えるようになったデジカメが誕生・普及してきました。こうしてカメラはお母さんのものとなっていったのです。しかしお母さん達、カメラに対してお父さんが抱いた『趣味の道具に対する思い入れやロマン』などというものはあまり感じてくれません。必然的に「レンズは一本でなんでも撮れる方がいい」ということになり、お母さん達に支えられたカメラ市場は趣味性の勢いを失っていった、と言うのが僕の仮説です。でも別に一本でもいいんですよ、昔だってレンズが一本しかなかった時にはそれで撮っていたんだから。「今日はどれにしようかな、海だからヤッターアンコウだぁ」というのが男のガキっぽいロマンなのです。でもお母さん達、カバンは一杯持っているんですよね。お父さん達、皮肉返しに「それだって一個でいいだろう」なんて言ったら大変なことになるのでご注意を。みんな日頃がんばって生きているのだから、自分へのご褒美って必要なものなのです。それをお互いに思いあって分かりあってあげたなら、きっと素敵なことだと思うのです。
 で趣味のレンズの話の続き。銀塩からデジタルへの時代の流れは変えられません。でも「このレンズがあればきっともっといい写真が撮れるはずだ」と言って集めてしまった僕のレンズ達、このまま『お蔵入』させてしまっては浮かばれないということで、「なんとかこのレンズ達、デジカメに使えないだろうか」という発想になるわけです。そんな僕らの想いをキャッチして用品メーカーとカメラマンエッセイスト達が画策しているのが、『アタッチメントアダプターによるレンズの互換性とそれを世の中に発信するムーブメント』。各社・各レンズに対応したアダプターが数多く出されていることを今回のヨドバシ視察で知りました。そしてそれと昔のレンズを組み合わせて撮った写真を紹介した本もたくさん出ていました。とにかくそういったチマチマした合体ごっこ遊び、男の子って好きですよね。ロボットアニメや戦隊ヒーローものの変形合体嗜好もきっと根っこはおんなじものだと思います。でも実用性は低いんです。今回紹介されていたマイクロフォーサーズマウントという規格のレンズアダプター、CCDとフィルムの面積比の違いからアダプターを介して付けられたレンズの画角は二分の一になってしまいます。これは広角レンズが標準レンズに、標準レンズが望遠レンズにとなってしまうということ。つまり広角系のレンズにとってはこれらのレンズ達が特殊化した大元である『広い風景を撮るためのレンズ』、という特性は失われ、ただ「デジカメにつけることができて写真も撮れますよ」という『合体ロボット・ロマン』だけを満たしてくれるものとなりそうです。この問題を100%解決してくれるのは135判フィルムと同じサイズのCCDが早く普及してくれるしかないのですが、今そのフルサイズと言われるCCDが搭載されているカメラは皆メーカーのフラグシップ機達で値段は100万円弱。今の主流はそれより小さいAPSサイズCCDでそちらの画素数を上げることを業界では進化のベクトルとしているので、急激なフルサイズCCDの価格革命は望めそうになりません。そういうことでデジカメインフラと市場状況の現状を見てきた結果、さてさて僕はと言えば「フィルムで写真を撮ってやりながら、カビが生えないようにレンズの手入れをきちんとやりながら、フルサイズCCDの時代が来るのをのんびり待つことにいたしましょう」とこの日のヨドバシ歩きで悟ったのでありました。

 そんなこんなした程度では時間は早くは過ぎません。まだまだ約束まで2時間も残して僕はヨドバシのビルから飛び出しました。待つのはいいのですが、いい加減立ちっぱなしがしんどくなって座れる所を探しに出たのです。次の日になって明らかになるのですが、これは僕の相当の運動不足。とは言っても自分なりに気をつけて体を動かしているつもりなのですが、普段使っている筋肉が限定されてしまっているということのよう。今回歩いた距離自体はたいしたことなかったのですが、一週間分の着替えが入ったDバッグを背負ったまま何時間もふらふらしていたのが効いたようです。翌日起きた途端に尋常でない足の張りに気づき、ストレッチをしながら筋肉をゆっくりと伸ばしたものでした。思い当たるのは日頃歩いていないこと、立ちっぱなしの所作をしていないこと。田舎暮らしの弱点は公共交通機関が衰退してしまったことです。これと大型量販店を誘致し、駐車スペースを確保する郊外型の街作りを行ってきたことにより自家用車の独壇場となりました。一方都会では電車・バスの利便性が高いので通勤や買い物などにもこれらの公共機関を使う頻度が高くなります。この公共機関、移動中はもちろん乗り継ぎや待ち時間などにも立っている機会が多くなり、このわずかな日常的な足腰への負荷が都会人の基礎体力を支えているのです。夏休みも半分を過ぎたこの時期は、毎朝やっていた子ども達を迎えるための幼稚園坂の登り降りからさえも遠ざかり、僕の運動不足は必至。東京にいる間に少しでも歩いてリハビリをするとともに日土での生活形態にもなにかもうひとつ工夫が必要です。週に一度の八幡浜への自転車サイクリングではどうも使う筋肉が違っている様子。時間をかけて歩くこと、長い時間立って足に加重をかけること、などの運動が必要なのでしょう。
 と言うことでしんどさに負けて喫茶店に飛び込みました。元来僕はこういうお店で長居ができないタチなのですが今回の目的は時間潰し。なるべく込んでいなそうなお店を探し当ててやっとひと心地つくことが出来ました。時間潰しだというのに頼んだコーヒーはエスプレッソ、喫茶店慣れしていないとは言え、出てきたカップを見て思わず笑ってしまいました。エスプレッソ、それぞれのお店によってカップの大きさは違うのですが、ここで出されたのは『ぐいのみ』程度の小さな器。おちょこ一杯分ほどの濃い味のコーヒーを舐めながら喫茶店で時間を過ごしました。今回は各所で僕のリアルタイムライティングと暇つぶしに付き合ってくれるこのミニパソコンのおかげで、ここでも僕の『ひとり喫茶店滞在最長記録』を大いに更新するという偉業を成し遂げることが出来ました。そこでその日のこれまでを書き綴りながら一時間ちょっと過ごしたでしょうか。10時間もつというバッテリーもそろそろなくなりかけたみんなとの約束の十五分前、その店を出て今一度ヨドバシの入り口へと向かった僕でした。

 そんなこんなでなんとか大学研究室の同窓生、H君・Y君と一年ぶりの再会を果たし、結局ヨドバシビルの最上階の飲み屋街の一角で飲みながら一時の懐かし話に花を咲かせた僕らでした。外の飲み屋も探したのですが、大勢の人だかりにあてられ怖気づいてしまった僕は、先ほどうろついたヨドバシの中にそんなものまであったのを思い出しそこに皆を誘ったのでした。いかにも『ヨドバシ帰り』と言った客層のせいか、なんだかそこがとても落ち着いてしまった僕、おかしなものです。なんかヨドバシカメラには愛着があって僕は昔からヨドバシ愛好家。ビックカメラやヤマダ電機など家電大手がカメラ業界に参入してきた今でも僕はヨドバシを利用します。ただのイメージなんですけれど、あの店員さんが壁を背中に狭いカウンターの中でお客さんを待っている姿がとても印象的で、昔ながらの『カメラ売りの接客』を感じさせたものです。「このレンズは」と言えば後ろの棚から箱を出し、「このアクセサリーを」と言えば下の陳列ケースから取り出すさりげない身のこなしが格好よかったものです。今の主流は柱のない広いフロアーに見本商品が展示してあり、その狭間を店員さんが行ったり来たりしながら接待するスタイル。「これあります?」と訪ねれば形態端末で検索し「今、在庫ありませんね」。商品や在庫について把握できていない様はなんか『プロ』って感じが伝わってきません。昔より扱う商品やジャンルが増えた故のことで今ではヨドバシでもそう変わらないと思うのですが、昔焼きついたイメージとは本当に印象に深く残っているものです。そんなヨドバシに対する信頼感というか深層心理もあってか、そんなに込み合っていない店内のせいかなんだかそこがとても落ち着いてしまったのでした。
 居酒屋でビール片手に再会を祝った僕ら。近況報告は相変らずにそこそこに、お互いに代わり映えがしないだけということなのですが、昔話に想いを馳せます。話の話題は新旧の校舎について。成蹊大学のほとんどの校舎が建て変わってしまった今となっては、昔の風景や構図を思い起こすのも一苦労。教室の中の風景は結構覚えているのですが、「そこが何号館でその隣がどうなっていて」という記憶をつき合わせながら、校舎の時代考証をしてゆきます。僕が好きだったのは3号館。1、2年の理系科目の授業の多くがここで行われました。僕は木造2階建の建物だったような記憶があったのですが「そうだっけー」と否定する両名。正方形の30cm角の木のタイル、壁は木板が貼られたストライプ、立て付けられた机とイスも木造りであったのを覚えているのですがどこまで正確な記憶か分かりません。でもこうやってひとつひとつ思い起こしてみれば、そういえば2階のテラスはむき出しのコンクリートと鉄パイプの手すりだったような気が。後に当時の写真を探したのですがあれほど沢山の時間を過ごしたはずの3号館の写真は一枚もありませんでした。卒業アルバムの航空写真をやっと見つけたのですが、その小さな絵はどうも外目に鉄筋ぽい感じ。総合的に判断して、あれは木造ではなかったのでしょう。でもイメージの問題ではありますが、鉄筋の校舎にありがちなむき出しコンクリートの冷たさはなく、各所に木のぬくもりを感じさせるような温かみのある建物だったことは間違いありません。なんか昔ながらの『学び舎』を建物やキャンパスの中に演出してくれていた感じがして、そういうさりげなさが成蹊の好きだったところでした。秋にもなれば東京の落日も早まり、5時限目の途中には夕暮れが訪れます。授業を聞きながらその暮れゆくキャンパスをぼーっと眺めていたことが何度あったことでしょう。また1限目の授業のために朝イチに3号館を訪れた時に見た光景、あれは今でも忘れられません。用務員さんが落ち葉のたき火をしていたのでしょう、そこから立ち上る煙が3号館前の林の枝から漏れ伝わってくる朝陽に照らされ、幾筋もの白く輝く光線を描いていました。あの教会絵画のような絵を目の当たりにして僕はその場で思わず見入ってしまいました。そういう時に限ってカメラを持っていない間の悪さ。もっとも当時はカメラを持ち歩いて日常のスナップを撮るなんて嗜好がまだ僕には芽生えていなかった頃でもあったので、きっと仕方のなかったこと。でもだからこそ心の中にこんなに素敵に焼きつき残っているのでしょう。

 そんな思い出話を紐解きながら、僕らは酒を酌み交わしながら、懐かしい友たちとのひとときを過ごしました。またの再会を約束して秋葉原の駅で別れた僕らはそれぞれの帰路に着きます。電車の中、一日背負って歩いた荷物が堪えます。井の頭線の永福町駅までやってくると駅の様変わりした様子に驚かされました。ホームの先端、渋谷側から地下通路をくぐって改札へ抜けるはずのあの道が閉鎖され、中程に設けられた登り階段が駅が高架になったことを教えています。まだ大々的な工事をしている途中でしたが、思えば去年来た時には地下道を支えるコンクリの支柱が『老朽化のため』と補強されていました。その安全対策としての急な改装だったのか、長期計画に基づく建て替えだったのか分かりませんが、昔の面影はかけらもありません。その代わりとして先に高架改築した隣の西永福の駅と似た感じのレイアウトに京王電鉄の計画性を感じます。バリアフリーやお年寄りの為に井の頭線でも各駅でエレベーターやエスカレーターが整備されるようになりました。また昔から言われていた開かずの踏み切り、改札に入るために踏み切りで電車の通過を待たなければならなかった駅、も井の頭線は多い鉄道でした。僕の住んでいた浜田山駅などはもうひとつすごくて、ホームに降りた乗客が改札に向うのに自分の乗ってきた電車の線路をまたがなければならないという『昔の田舎駅』スタイルの駅でした。そのため近年の改築ラッシュのさきがけとなり、浜田山駅は地下道をくぐるタイプの駅に改造されたのです。浜田山は線路の両脇まで商店街が迫っており、高架にするためのスペースがなかったのでしょう。地下道方式にはしたのですがエレベーターをつけたのがやっと、エスカレーターをつけるスペースまではありませんでした。ついで改装された西永福駅、これは高架となりエレベーター・エスカレーター共につけられ、また線路の両側から踏み切りを待つことなく改札に入れるようにもなりました。で今年の永福町駅、駐車場でもそうですがおそらく地下を掘るよりも上に鉄筋を組み上げて駅を作った方が自由度もコスト的にも優れているのでしょう。こうやって変わってゆく駅の様をひとつとって見てみても街づくりの思想が伝わってくるから、街歩きは面白いのです。でもこれはきっとぼーっと見ていては分からないこと。自分で見て、感じて、考えて、考察して初めてひとつの答えにたどり着くものなのです。自分が出した答えが間違っていること、往々にしてあるのですが。
 永福町の駅の様変わりの様相に驚かされたことで多少の不安がよぎり、I君に電話を入れました。『何時頃着きます』のメールを数日前に入れた後、当日の今日もまだ連絡を入れていない相変わらず僕の電話不精。「『SFではないけれど違う世界に来てしまいました』、『I君、3日ほど出かけています』なんてことないよねえ」と少し酔った頭でその風景を見つめながら、その不安を吹き消すために公衆電話で電話をかける僕。電話に出たI君、ちゃんと家におりました。安心を取り戻し、永福町の商店街をてれてれ歩き進む僕。見上げれば大きなマンションが商店街のど真ん中に建設中。変わりゆく町並みをここでも見つけてしまいました。そんな商店街を突き抜けてI君の家の前までたどり着けば、I君、家の前まで出てきて出迎えてくれていました。僕を家に上げ、早速お酒でもてなしてくれたI君。久しぶりの盃を交わし、夜遅くまで話をした僕ら。うれし楽しい夜は瞬く間に更けて行きました。

 こうして僕の夏旅行の一日目は終わりました。ここに来るまで本当に長く、色々あり、色々考えた今年の夏旅でした。が、実は始まったばかり。これから一週間、東京でのどんな『ひとり股旅』が待っているのでしょう。僕もとても楽しみです。


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