2010夏、僕の東京ひとり股旅          2010.8.25
<風に吹かれて〜2010夏旅行記・後編〜> 
 さあ今日は毎年恒例写真部仲間との撮影会、今年は鎌倉撮影会です。今回はKさん・Nとも都合の調整ができたようで、約束通り10時に北鎌倉の駅で落ち合うことが出来ました。ここ数年、デジカメ勢力の二人に抵抗しながら銀塩一本でがんばってきた僕でしたが、今年はいつものレンジファインダーに加えてデジカメのE−P1も携えての撮影会です。軟弱になった自分の装備を気恥ずかしさまじりに紹介した後、僕らはいつもの円覚寺の総門をくぐりました。これまたいつもと同じく一番奥の黄梅院まで一気に上り詰めたのですが、そこから歩くペースがスローダウン。でも歩くペースが上がらないと言うこと、これは逆に真面目に写真を撮っていると言うことです。ここに最初のデジカメ効果があったようです。
 小さく軽快なレンジファインダーカメラは旅の友にはぴったりなのですが、一番の苦手は接写撮影。ファインダーのパララックスとピント精度の問題の為、たいがい最短撮影距離は0.7m。これではなかなか撮れないのが花などのアップの写真です。鎌倉の見ものと言えば四季折々の草木花。でもこの『夏の帰京旅行』など機材をいろいろと持って行けない時にはなかなか撮ることが出来ませんでした。花を撮るのに最適なのは一眼レフとマクロレンズの組み合わせ。これがかなり大きく重いのです。その次の選択肢に上がるのが35mmの広角レンズ。これは最短撮影距離が短いので紫陽花や百合などの少し大ぶりな花ならば結構撮れるものなのです。今回その役目を担ってくれたのがE−P1と17mmの組み合わせ。この17mmレンズ、135フォーマット換算での画角がほぼこの35mm相当。ボケ味もよく花の接写には強さを発揮しています。ということでまたまた活躍の場を得て評価の上がったE−P1でした。ただピント合わせが難しい。例えばフヨウの花を撮ろうとしてカメラを向けても、E−P1はピント合わせを迷うんです。花びらに合わせるのか、めしべの先端に合わせるのか。はたまた勘違いしてバックの背景に合わせてしまうこともある始末。一口に『花』と言っても花びらがありおしべにめしべ、様々な形と色をその中に持っています。それのどこにピントを合わせるのか、それが撮影者の意図と合わないことやピント自体合わせられないことが多々ありました。それはコントラスト方式AFの限界。こういうマクロ撮影では一面が同じ色の花びらだったり、光が弱くコントラストがついていない部分にカメラを向けるのでどうしてもピントが合いにくい。そういう時はマニュアルフォーカスに切り替えます。E−P1ではマニュアルにするとファインダーの中心部の画像が拡大されて、手動でのピント合わせをアシストしてくれます。その画像を見ながらピント合わせ、合ったところでもう一度レリーズに触れればファインダーは撮影視野画角に戻ります。そこで構図を整えてシャッターを切るのです。まあ機械に意思が伝わるインターフェイスなどまだまだありませんから、カメラの『よかれ』と思う思い込みによって今の画像は撮影されています。そんなもの撮影者のお気に召すはずありません。それならば撮影者の意図をそのまま表現できる『マニュアル機能』の使い勝手を向上させることの方が、この手の趣味カメラに求められていることだと思うのです。E−P1はその辺が他のデジカメ達より多少分かっているようです。
 デジカメの長所、フィルム代を気にせずに写真を撮れることが効を奏したのでしょうか。いつもなら撮影もほどほどに、山門前のベンチに座り込んでカメラ談議を始める僕らでしたが今年はみんななかなか「撮影終了!」とはなりません。「なにこの色、全然違うじゃん!補正は?」、「色温度をもっと上げて・・・」、「やっぱダメじゃん!彩度かな?」とその場その場でディスカッションと再撮影が行われ、ああだこうだ言いながら撮り方や設定について話し合いながら写真を撮って歩きました。「デジカメだとその場で写真を見ながら勉強会ができるのがいいよね。銀塩だったら誰も人の写真がどんなに写っているか分からないから」とここでもまたまたデジカメ評価アップ。そんなこんなで撮影にいつもの倍ほどの時間をかけた後、いつものベンチに陣取り座談会を始めた僕らでした。

 銀塩の場合、フィルムに関する基本理論は一様なのでわりかし原理なども分かり易いのですが、デジカメでは撮影素子のメカニズムやアルゴリズムがそれぞれ違うので『これどうなっているの?』が分からない。「そうなの!」と「えー、こうじゃないのー?」とそれぞれの知識と仮説でディスカッション。結局「そうなのかなあ」で終わってしまうことも多いのですが、そこで仕入れた情報によってお互いの見聞も確かに広がってゆきます。最終的には自分で勉強して確認しなければいけないのですが、そういう話が出来る仲間である彼らは本当に貴重な存在です。レリーズを押せば写真が撮れるのが今のカメラですが、その仕組みが分からないと気持ち悪い。デジカメを扱い出してから生じてきた色々な不具合や疑問に対して少しずつでも解を求めてゆくというのが趣味の道。銀塩にしてもデジタルにしても『撮らされている』のでは面白くない。ただの雑学好きなのかもしれませんが、昔から写真やカメラと向き合って生きてきた僕らの意地なのかも知れません。最新式デジカメの3層式CCD理論から始まり、僕の『なんで水面キラキラが写らないか?』疑問、末は三次元テレビのメカニズムと将来性についてまで、僕らのつまらない日頃の疑問をネタに大いに話し合ったものでした。最後にNがこぼした言葉、「こんな話で盛り上がれる所って他にないんですよね」。NにしてもKさんにしても映像デバイスやソフト関係の会社に勤めるその道の人。でもそういう話を語り合う仲間って会社の中にいないのだそうです。まあ僕にしても同じこと。趣味や興味を共に出来る仲間なんてなかなかそうそういないもの。だから学生時代の部活仲間が20年ものつきあいの時を経て、今年も鎌倉で一緒に写真なんぞ撮っていられるのでしょう。

 円覚寺で2〜3時間ほど過ごした僕らは、「もう一軒くらい行く?」と飲み会のようなノリでもう一ヶ所、東慶寺に行くことにしました。東慶寺は小さなお寺であの『縁切寺』とうたわれたお寺です。そこそこ手入れされた庭に想い想いに咲いている夏の花。桔梗になでしこ、サルスベリなどもありました。その庭の『ありのまま』が素敵に表されていて感じのいいお寺です。元々尼寺だったこのお寺、その人やその物らしさを大切にする想いは今の時代にもしっかりと伝えられているようです。ここは山陰の薄暗さがいい感じなのですが、カメラには厳しい露出です。手ぶれを気にしながら絞りを開放にし、秒時を稼ぎながら息を止めてシャッターを切ったものです。それがこの山に眠っている故人達への礼儀でもあるかのように。
 暗い境内をスナップしようと苔むした石仏にカメラを向けます。その暗さは『小闇』とも呼べるほどのものでレンジファインダーの露出計はISO100・F2で1/15秒などと示します。50mmの標準レンズでは手ぶれ限界の暗さですが、ピント・露出とも自分で合わせ終え、後はゆっくりレリーズを押し込んでゆきます。するとあるところで静かにシャッターが落ちるのです。その途中、カメラは何ら動くことなく静かに時が満ちるのを待っているかのよう。それがフルメカニカル・レンジファインダーカメラの感覚。最新の一眼レフとは違って撮影途中にピントを合わせに行ったり、カメラの状況を撮影者に伝えるディスプレーなどもないので、とても撮影に集中できます。このカメラ、一眼レフではなくレフレックスミラーがないのでシャッターが切れる際のミラーアップ動作がありません。一眼レフではこのミラーの上がり下がりの振動が低秒速時の手ブレの原因にもなるのですが、レンジファインダーカメラではそれがないのです。ですからこういう静まり返った空間で暗さの中に身をひそめ、その空気感までをもスナップしたいという撮影には、精神的にも実質的にも理に適ったカメラだと思っています。一方のE−P1、分割測光という『おりこう』な露出演算をしてくれるのでこのような暗い空間では気を利かせ過ぎ、明るく補正してしまいます。だから出てくるシャッター秒時は1/4〜1/8、そのまま撮ればつまらない写真になってしまいます。でもデジカメの利点はそれがすぐにモニターで確認できること。液晶上の映像で露出を確認しながら、自分の欲しい明るさに持って行きます。露出計は『−2.0』、つまり「2段アンダーですよ」なんて警告しているのですが、「空気読みすぎの勘違い君ってどこにでもいるんだよな」と賢すぎるがゆえちょっとマヌケなE−P1をたしなめたりもしながら写真を撮りました。またE−P1は背面の液晶で構図を取ります。当初ホットシューに取り付けた17mmレンズのセット品であるビューファインダーを覗きこんで撮影していたのですが、先に述べた視野率の問題、撮影後のモニター確認のためファインダーと液晶を行ったり来たりしなければならないわずらわしさから、全部液晶で確認してしまうようになりました。ここで一つ落とし穴。液晶ディスプレーの見易さは周りの明るさや撮影者の見る角度に大きく影響されてしまいます。光学ファインダーは自分の顔で蓋をしてファインダーを暗箱にするので、回りの環境に影響されにくく見やすいのです。また光学系的にはファインダーレンズを介して視野範囲の映像を3m先に結像させて撮影者に見せるので、顔をカメラに密着させても像がちゃんと見えるのです。一方の液晶ディスプレーはその液晶の画像を人間の目玉で見るしくみになっているので、人の目がピントを合わせられる最短距離より身体から離してやらなければ像を見ることができません。つまり普通の人でも10cm程度、遠視の人になれば数十cm目から離してやらなければ像のピントが合って見えないということ。「離せばいいじゃん」と思うだけかもしれませんが、カメラを身体から離すには両腕を前方に突き出してやる必要があり、いわゆる『脇が甘くなる』状態になります。昔カメラの構え方の基本として言われていたのが「カメラを顔につけ、脇を締めて安定させろ」という言葉でした。これによってカメラの手ブレが押さえられ、低秒時でもシャッターが切れると教わったものです。それがカメラの形態がすっかり変わってしまった現代ではその教えを守ることが出来ません。ビデオカメラも原理的には同じなのですが、ビデオの場合は液晶の角度を変えることが出来るので、ビデオカメラを身体より下目に持つようにしてやれば、まだ脇を締めることもできます。撮影の際、カメラを水平に保たなければパースペクティブの効果で『ふかん』になったり『あおり』になったり、自然な表現となりません。液晶の角度が変わらないデジカメではカメラを目の高さにまで持ち上げてやらなければその水平を保つことが出来なくなり、その突き出した両腕のために大いに脇が開いてしまうのです。それがデジカメ手ブレの原因。今回もE−P1の写真になぜか手ブレが多かったのですが、どうもそういう理屈のようです。これも最新技術を駆使してやれば補正できるもの。デジカメは一枚ごとに自由に『フィルム感度』を変えられるので、そんな時には感度を上げてやればいい。また手ぶれ補正機能というものついているのだから、それを使ってやればいい。そう技術的にはそういう解法もあるのですが、ここまで突き詰め極めてきた写真道、できるところまでやせ我慢したいもの。『自分がどれだけ出来るか』、それを写し出すのか写真というものだから。多少の面倒は背負いながら、今後はもう一度付属のビューファインダーをつけて写真を撮ってみようと思っています。
 なるほどこのように見てくると、並べて比べて「どれが一番いい?」がデジカメの強みだとすれば、「きっとこれが最高の一枚だ!」という想いが生きるのが銀塩カメラ。どちらかを取れと言われても今の僕にはまだそれを選ぶことはできないでしょう。確かにまだデジタルカメラの写真というものは、銀塩の表現力や精神性を超えるところにまでは到達していません。でも自分の未熟な腕を磨くためにまだまだ多くの写真を撮り・見て・感じるためには有効なシミュレーターとなりうるところまでは確実に進歩してきているのです。これからも両者の実力と自分の腕を見較べながら、きっと僕は写真を撮り続けてゆくのだと思います。そう、カメラはあくまでも道具。それを使ってどう表現するかは表現者の想いと技量なのだから。

 東慶寺で小一時間ほど写真を撮った後、山越えコースをたどりながら鎌倉への道を歩きました。「普通鎌倉に行くのにこの道、通りませんよね」と訴えるN。僕以上に運動不足らしい彼の息があがってゆきます。「鎌倉は三方を山に囲まれていて、入るには山を越えて行くしかない天然の要塞だって教科書で習っただろう」、「それは八百年前のことじゃないですか」、僕らのおバカ問答は撮影会の風物詩。今時はみんなJRの鎌倉駅から近いところに歩いて行くのですが、僕らの撮影会はいつも北鎌倉スタート。だから高徳院の大仏に行く時も成就院に紫陽花を見にいく時も瑞泉寺の梅を見にくる時にも、決まってこの鎌倉の山道を歩いたもの。桜の季節にはこの山道の頭上に咲き誇る山桜の白が本当に見事でした。あれだけ何度も通い歩きなれた道のはずなのに、毎回迷うのも僕らのお約束。迷うと言っても迷子になるのではなく、思った所と違う所に出てしまうというこの不思議。どこも同じような山道なのでコースと記憶が微妙にずれているのでしょう。それとも鎌倉の狸が僕らを化かして喜んでいるのでしょうか。今回も横須賀線の線路脇に出てくるつもりが大いにコースを逸脱し、だいぶ西側に出てきてしまいました。「あそこのギャラリーで知り合いの個展をやっているから見に行く?」Kさんの提案で写真が趣味のワイン店のご主人がお店の片隅に作った小さな展示スペースに写真を見に行くことになりました。Kさんもこのご主人と顔なじみで、Kさん自身ここで何度も個展を開かせてもらっているとのこと。ご主人はKさんを始め、僕らを快く迎えてくれました。Kさんは「学生の時の写真部仲間なんですよ。毎年こうして帰って来たときに一緒に写真を撮りに行ってるんです」とうれしそうに僕らを紹介してくれました。普段は僕以上に口数の少ないKさんがこんなにうれしそうに語ってくれたこと、僕にとってもなんだかうれしかったです。展示されていたのはKさんと同年代の女性が撮った写真達。その写真を見ながらまたまたみんなで写真談議。久々に元写真部らしい活動がちりばめられた鎌倉撮影会となりました。迷ったおかげの寄り道に、うれしいおまけもついてきました。僕らの撮影会はいつもこんな感じです。

 今回はいろいろ根を詰めることがあったので、お昼ご飯は優に2時を過ぎてしまいました。でもこれを遅い昼食と見るか早い飲み会の始まりと見るか、僕らはいつも後者です。僕らは当然のようにいつもの飲み屋に入ると「まずはビールで乾杯!」、久々の再会と今日の撮影会を祝いました。僕らも僕らですが、この時間からやっている鎌倉の飲み屋もあなどれません。でも周りを見渡せば僕らの父親世代の人達もひとテーブルを囲みながらカメラの話で一杯やっていました。いい趣味といい付き合いは長くつながって行くものだと、ちょっとうれしい光景をまたまた見せてもらいました。今日はなんかうれしい日です。
 こうして僕らはこの日の鎌倉撮影会(飲み会?)を終えて帰路に着きました。鎌倉駅から快速湘南新宿ラインに乗り合わせた三人。横浜でKさんが降り、渋谷で僕が降り、Nは熊谷まで帰ってゆきました。電車の中で「最近何か面白いものありました?」とNが尋ねてきたので僕はこのミニパソコンを取り出して彼にお披露目しました。「僕はこれで文章を書いたり、デジカメのデーターをUSBメモリーに吐き出させるのに使っているんだけれど」と言っているそばからチャカチャカいじりだすN。「これリナックスですか?」、「そう」の会話でピンと来てしまったN。Nはリナックスフリークのパソコンマニア。久々に見たCD(チェンジディレクトリー)のキーボード入力でその階層ディレクトリーなど中身を調べ上げると「これ、結構使えそうですね」としたり顔。「値段は?メモリー容量は?外付けのハードディスク認識しました?」などと矢継ぎ早に尋ねて来ました。去年の撮影会でNに「E−P1ってどうです?いいんじゃないですか?」と言われた言葉、あれが僕にE−P1への興味を抱かせた最初のきっかけでした。その啓示に導かれて今年はこれでこうして写真を撮っているのだから不思議なものです。色んな意味で色んなところで影響し続けている僕ら。僕の蒔いた種は彼の中でどう成長してゆくことでしょう。僕よりは気があっちこっちに発散しているNのことだから、どうなってゆくかは分かりませんが。「やっぱりやめました」そんな言葉が返ってきそうな気もしています。でもこんな風にこの歳になっても真面目に写真に取り組んでいる仲間との一日は、僕にとってもうれしく楽しく、勇気づけられる想いがした一日でした。またいつか一緒に写真を撮りに行けることを願いながら、それまでまた自分の写真道を一歩一歩極めながら、写真を撮りつづけていきたいものです。それがきっと人生における励み、そして生き甲斐というものにもなるのでしょう。

 次の日はご近所散策散歩に出かけました。大宮八幡から歩き始めるいつものコース、何度東京を歩いてもいくたびここを訪れても、僕の選び歩く道はなぜか同じものに収束してゆくようです。それは僕が見たい風景が『ものめずらしい景色』ではないから。新しい風景に出会うために歩く旅もありますが、僕のこの旅は『見たい情景を見るための旅』。昔見た風景を思い描きながら今ある風景と向き合えば、いろなものが僕の心に想いを投げかけて来ます。昔そのままの風景に出会えたときは、変わらないものの強さを感じながら今の自分を肯定してもいいような励ましをもらい、根こそぎ変わってしまった風景の前にたたずめば、時の流れの大きさを今一度受け止め今の自分を見つめ直す。変わっていなのになぜかよそよそしく見える風景はきっと自分の心のせい。イライラしていないか、落ち込んでいないか、調子に乗っていないか、大事にしていたものを忘れていないか、自分の心に問いかけてみればいつもと違う自分に気づきます。そんな自分に気づくためのこの街の定点撮影、これは自分の心が知らず知らずのうちに求めているものなのかもしれません。
 このように決めて歩いている訳ではないのですが、今年も大宮八幡から和田堀公園・善福寺川緑地公園へと歩いてゆきました。和田堀公園ではひょうたん池のベンチに座り込みながらパソコンを開きます。こっちに来てから一番いいお天気だったこの日は蝉時雨があちらこちらから降りそそぎます。上天気のはずなのに時々肌に感じる水しぶき。辺りを見渡してもご機嫌な空が遠くに見えるだけ。何度目かにふと思い立ったのは「もしかしてこれって蝉のおしっこ?」。現場を抑えることは出来ませんでしたが、状況から見てきっとそれに違いありません。子どもの頃から飛び立つときの蝉のおしっこ攻撃にはよくやられたものでしたが、何もなしで「夢中で遊んでいたらもれちゃった」とは幼稚園児と変わりません。だとするならば、「おもらし君のベンチに座っていたならば、際限なく雫をいただくことになる。そいつは僕もかなわない」とそのベンチから腰を上げ、先へと足を進めました。
 歩を進めた先の緑地公園をのんびりゆっくり歩いていると足元に穴ぼこをいくつも見つけました。「あるある、いっぱい蝉の穴」と思いながら頭上の枝を眺めればそこに蝉の抜け殻を発見。「やっぱりあった、蝉の抜け殻」とご機嫌顔になった次の瞬間、思わずぎょっとしてしまいました。その隣をみればひとつの葉っぱに五つも六つも相席でごった返す抜け殻達。そんな相席葉っぱがいくつもいくつもありまして、そこだけで優に20〜30匹の蝉の抜け殻が枝に残されていたのでした。「土の中で7年間、苦楽を共にした同級生がこんなにいっぱいいたんだねえ」とおもいっきり驚かされてしまいました。でもでも彼らにとっては幸せなことです。7年間という時間は蝉にとっても長いでしょうがこの街に住む人間にとっても長い長い時間です。都市計画なんて旗を振る人が変わってしまえばほんの数年でがらっと変わってしまうもの。そんな危ういこの街にあってこの木が切り倒されもせず、強い農薬や汚水が地中の蝉達の命を奪ってしまうこともなく、この公園の土が舗装されてしまうこともなかったこの奇跡、これがこの蝉達を生かし大人になるまで育ててくれたのです。神様が守っていてくださるってきっとこういう事を言うのでしょう。なにかひとつ違えても生まれてくることのできなかった生命達なのです。

 こんなことを書きながらふと自分達の生活を省みます。「自然の生命を大切にしよう」と言いながらも、自分達の暮らしと子ども達を守るために僕らは虫を殺しています。毎年夏休みの終わり頃には幼稚園の桜に毛虫が大量に発生します。昔は「毛虫は触らないで」と子ども達に教え「毛虫との共存」を目指していたのですが、最近では毛虫に触らないのにひどく被れる事例が多発するようになりました。それは毛虫の毛が風で飛び、子ども達の肌に触れて被れの原因になっているということで、それからは園内で発生した毛虫は駆除するという方針を定めました。毛虫の被れは子どもの体質にもよりますが、過敏な子の肌はかわいそうなくらいに被れてしまいます。若い先生達も被れ易く、同じ環境にいてもすぐに肌を赤く腫らしてしまいます。だから毛虫退治はもっぱら僕の役目。比較的毛虫に強いという驕りもあるのでしょうが、毛虫退治もTシャツ・短パンやってしまう僕。本当は長袖・長ズボンでやるべきものなのですがこの暑い最中にそんな格好していられません。さっさと毛虫のついた枝を切り落とし、桜の枝には殺虫材を散布して、落ちてきた毛虫や虫のついた枝をすぐさまそこで燃やします。毛虫が死んでも燃やしてしまわないと毛が飛ぶということを聞いてから、そこまで一気にやり終えるようになりました。終わったら家に飛び帰り、頭から水を被って身体をざぶざぶ洗います。あれだけ毛虫の濃いところにいて抜け毛の洗礼を受けていないはずはありません。それに加えて殺虫剤も被っているはず。そうして全身を洗ってやっとほっと一息つくのです。でもそれはまさに狂気の沙汰。映画『風の谷のナウシカ』で腐海の植物の胞子が村に入り込み、村中総出で胞子を焼き払っていたシーンがありますが、心情的にまさにあんな様相です。あの胞子と違って一つ残れば村中が全滅すると言う訳ではありませんが一方でこちらの毛虫は確率論、どこにいるか分からない毛虫を完全に一匹残らず駆除することなどできません。毛虫が減れば飛び交う毛が減れば子ども達が被れる確率が減るのですが、それでも被れてしまったその子はかわいそう。やっぱり見かけた毛虫は退治しなければという想いにもなる訳です。
 風呂から上がって自分の手足を見渡せば、数箇所に小さくぽちっとした発疹を発見。ただそれが他の人のように大きく赤く腫れないのが僕の強みなのでしょう。普通の虫さされの薬を塗っておけばそれでもう治ってしまいます。でも昔からいた毛虫達。彼らの何が、そして私達の何が変わってきたのでしょう。昔から毛虫を触ればひどく腫れ、「それ言わんこっちゃない」と諭されたものですが、触りもしない毛虫に被れるのは理不尽なもの。しかし抗菌・防カビなどの衛生嗜好が進みすぎ、身の周りの汚いものを全て排除してきたことによって我々の身体の中の耐性が失われてきたのだという話もよく聞きます。毛虫達にしても半狂乱で振り掛けらる殺虫剤を被りながらも生き延びたものが、その毒を身体の中に取り込んで毒性を強めて行ったのでしょうか。はたまたこれまでは鳥など自分に接触してくるものに対する防衛手段だった毒毛攻撃が、離れたところから殺虫剤でやられてしまうようになったことに対する対抗手段として自ら意図的に毛を飛ばし自分の周りにバリアを張るなどというすべを身につけたのでしょうか。いずれにしても自分達、そして子ども達を守るという名目で僕らは多くの生き物を殺してこの地で暮らしているのです。その事の意味をいつもかみしめながら、虫達と上手に付き合いながら生きてゆくことを子ども達に教えながら、僕らは日土の里でこれからも生きてゆくことでしょう。虫を忌み嫌わない心を育て、虫達と利害関係が敵対する時にはまず身を引くことを教え、どうしてもその脅威を排除しなければならない時には必要最低限を心に命じて排除する。「わしらも火を使うが多すぎる火は何も生み出さん。火は一日で森を灰に変えるが、風と水は百年かけて森を育てるんじゃ。わしらは風と水のほうがええ」、風の谷の老人達のセリフは田舎で暮らす僕らの実感そのものです。「いっそ毛虫がつくならこの桜の木を切り倒してしまえばいい。園庭内といわず、あたり一帯の桜の木に毛虫がつく前から定期的に薬をまいてやればいい」、そう極論を言い出す人もあるかもしれません。でも僕らはこの桜やこの木の周りの自然から沢山の恩恵を受けているのです。春には桜花のトンネルが新入生の晴れやかな心に花を添え、夏には木陰を僕らにそっと差し出しながらこの世の夏を謳歌する蝉達のとまり木ともなる桜の木。秋はその葉を鮮やかなクレナイ色に染め、冬には全ての葉を落とし蕾を芽吹き膨らませながらもうすぐやってくる春の訪れを感じさせてくれるこの桜の木。毛虫がいなくなってもこの桜の木が切り倒されたり、この周りに蝉を始めとしてバッタやカマキリにコオロギまで虫一匹住めないような土地にしてしまったのでは全く意味のないことです。都会の幼稚園のように『園児をお部屋の中に押し込めて、教師が用意した教材を相手にお仕事をさせて過ごします』、それではこの田舎で子どもを育てている意味がありません。少数派でも自然に寄り添って生きることの素晴しさを幼少期の体験をもって感じ成長してくれる子ども達が未来に生き残っていってくれたなら、この国が救われることもあるかもしれないとそう思うのです。自然は全て僕らの思い通りになってくれは決してしないもの。でもそのうまくいかないところに「自分達の間違いがあるのではないか」ということを感じさせ教えてもくれる僕らの先生のような存在なのです。僕らは自然を前にもっと謙虚になるべき者だと思うのです。

 その日の晩は生物部の麓屋飲み会です。「用事があるから先に行ってて」と言うIに先んじて借りた自転車を走らせます。しばらく行くと西永福の駅前にある広場のベンチに座っているTを発見。一人では店に入れない小心者は僕だけではないみたいです。Tを連れて麓屋に入れば伊勢さんが笑顔で迎えてくれました。バイトの子の送別会が今日あるということを聞いて「僕らは隅っこの方でいいです」と少々遠慮をしたのですが巨漢のTを見つめて伊勢さん、「Tには狭いだろう」と言って一番広いテーブルを僕らに使わせてくれました。その後M、Iと一人一人やってきてそのたびごとに再乾杯。最後にKが自転車でやって来てめでたく在京メンバー全員集合となりました。久々に麓屋を訪れたメンバーは、エアコンが変わっただのどこが変わっただの麓屋チェックに盛り上がります。僕はそういう所になぜか無頓着で変わった所に気がゆかず、「そうだったっけ?」とひとりボケ。おまけに開店が午後6時だと聞いて「6時半じゃなかったでした?」と伊勢さんに尋ねたのですが「前から6時だよ」とあっさり言われて「・・・」。「いや、昔は6時半だったかな?」の言葉にうなずくも、「ずっと昔だよ」と言われて「そうですか」。昔、6時に集合をかけてみんなを集めておいて「6時半からだよ」と伊勢さんに言われた言葉を覚えていて、あれからずっと開店6時半だと思っていた僕。その時もそう言いながらも僕らを快く迎え入れてくれた伊勢さんでしたが、あれはいつのことだったのでしょう。そんなに遠い昔のことだったのでしょうか。
 最近音信不通のもう一人のIの行方をTがネットの携帯端末で探し出しました。会社と本人のフルネームを入力すれば出てきました、あれは特許技術の紹介だったのでしょうか。写真が出る訳でもないし、技術情報なので本人の消息なども紹介される訳もないのですが、「一つの会社にそうそう同姓同名もいないだろう」ということで僕らの出した結論は「とりあえず生きているみたい」。遊び半分で始めた検索だったのですが結果を聞いてみんなやはりちょっぴり安心できたみたいでした。『親心、子知らず』ではないですがやっぱり集り合った者達がその場にいない者のことを案じるというのは『仲間』だからなのでしょう。誰にでもいいから連絡くらいよこせばいいのに。でも人と言うのは勝手なものだから、もしかして僕も誰かにそんな想いを抱かせてはいないだろうかと思ってもみたものでした。
 そう、こんな風にここに来るといつも僕らの想いは高校時代に逆戻り。昔といえば昔のことだったのかもしれませんが、ここにはあの頃から変わらぬ時が流れているような気がするのです。だからきっと僕らはここに集まって、昔と今の自分達のことを同じもののように話し笑い、そしてまた自分達の日常に戻ってゆくのでしょう。ここはそんな僕らの大切な『とまり木』なのです。みんな毎年夏のこの時期にこのお店に集って、一息ついて笑い励まし合いながら疲れた翼を休めた後、また日常という大海原へと飛び立ってゆく。そのための大事な大事な『心のとまり木』。いつまでも僕らがここに『渡り帰って来る』のを待っていてください。ここでの集合写真を一枚、久々に残してその晩はお開きとなりました。
 「僕なんかいなくても、毎年音頭とってやってあげてよ」、帰り際Iに言ったのですが、「お前が遠くから帰って来るからみんな集まるんだろう」と言われ「・・・」。その言葉は僕にはとてもうれしかったのですが、今年だって行けないはずだった『夏帰京』。在京メンバーが年に何度も会って飲んでいるのならそうかもしれないけれど、当の彼らもみんな一年ぶり。続けていればこそ集まれる会だと言う想いがある一方、「一度途絶えたら二度と集まれないんじゃないか」という不安もあってついついIに向かって吐いた弱音でした。でも『人は変わってゆくもの』、それは変えようのない真理。生活・性格・心理・価値観が変わって行ってもなお、僕らをつなぎとめてくれるものは『この仲間をいつまでも大事にしたい』という想い以外にないのではないでしょうか。僕らが時と共に変わって行ったとしても、その想いだけはいつまでも大切にしてゆきたいと思うのです。これからきっと行けない年も出てくるでしょうが、その年を飛び越えても「だからこそ、今度こそ」という想いが残っていたなら、それが次に会う時までのモチベーションとなるのだから。

 次の日はあてもなく荻窪に地下鉄で出たのですが、駅に向かって歩いていた道の途中で小学生位の女の子と歩いているお母さんを見かけました。「あの人、○○さんかな?」と思いながらすれ違ったのですがあちらも気がつかずそのまま通りすぎて行きました。たったそれだけのことだったのですがちょっとドキッとしてしまいました。それが彼女だとしたら十数年来会っていなかったとは言えお互いに分からなかった僕らって今どんな顔をいているのだろうと。それに加えて呼び止め尋ねても「違います」って言われてしまえばお互いに気まずいし(ナンパだとは思われないでしょうが)、彼女だったとしても「だれこのおじさん?」とその女の子に怪訝な思いをさせてしまいそうだしと、その後歩きながら色々想いを巡らせたりもしました。そう僕はいつもそんな感じ。時をかけて考えてからでないと自分の想いを見つけられない。だからきっとすれ違うことも多いのでしょう。でも夏休みにこの街をふらふら歩くようになって9年目、その間一度も知った人と出会ったことがなかったのに、初めて知っているかもしれない人とすれ違ったことがなんだかとてもうれしかったです。それがあの人かどうか事実を突き止めることよりも、ずっと素敵なことのように感じられるのは僕だけかもしれませんが。さだまさしの『長崎BREEZE』の歌詞を思い出して口ずさみます。「君に良く似た子どもの手を引いた、君に良く似たひとと、坂道で今すれ違った」。こういうシチュエーションをどこかで夢見ている『おとこ』という生きものは、みんな少なからずセンチメンタルなのでしょう。

 地下鉄の中で今日の行き先を考えます。漠然と荻窪方面にと思っていたのですが、行く所がなければ昔通った図書館で書き物でもしようかとも思っていました。吉祥寺方面のお馴染み公園めぐりは昨日してしまったし、学校巡りを毎年するのもなんか『思い出の中でしか生きられない男』のようで格好悪い。でも電車の中で、はたと気がつきました。「今日は月曜じゃん」。たちまち頓挫した図書館計画。あてもなく青梅街道をふらふらと歩いていると後ろからやってきた『石神井公園ゆき』のバスに追い越されました。『石神井公園』にピンときた僕。石神井公園は練馬の端っこにある大きな公園です。浜田山に住んでいた頃は自転車に乗って何度も写真を撮りに行った所。園内にある三宝寺池は渡り鳥達の恰好の住処で、冬になるとコガモやオナガガモを始めとしてたくさんの冬鳥がそこで越冬していました。ここにやってくるカモ達は比較的警戒心が薄く、人間が数mの距離まで近づくのを許してくれたので、当時僕の野鳥写真の主力だったシグマの400mmレンズでもそれなりの写真を撮らせてくれました。雪の降った日に機材を担いでこの地に自転車を走らせ、冬の情感を写し込めた写真がここで撮れたなんてこともありました。友達の住む大宮町からの交通の便がよくないので帰京の際に訪れたことはありませんでしたが、この期に行ってみようとそのバスを見かけたことで思いたってしまったのです。停留所一つ分歩いてバス停で道路を見つめながら待っているとバスはすぐにやってきました。そのバスに乗り込み、久しぶりの練馬の風景を窓から眺めながら石神井公園に向かった僕でした。
 バスは石神井公園の一番端、ボート池の側に停まりました。そこから反対側の三宝寺池に向けて歩き出します。こちらの池は大きい上にボートが行き来するので野鳥はあまり寄り付きません。だから僕にとってこちらのボート池はあまり馴染みがない場所でした。あまり記憶にない小路を歩きながら頭上のすっくと立ちそびえる木を見上げれば、幹に『メタセコイヤ』のプレート。メタセコイヤは豊多摩高校の自転車置き場の奥にあった背の高いスギ科の針葉樹です。確か大昔からその形態をとどめている木、『生きた化石』と言う触れ込みだったはず。そんなウンチクを高校時代に聞いたのを覚えていて、当時木々はもちろん花などにも全く興味がなかった僕が知っていた数少ない木でした。そんなことを思い出すとまたまたうれしくなってきてしまいます。
 三宝寺池の方へやってくると少し見覚えのある風景が見えてきました。それでも何か違う感じ。きれいに整備された木道はいいのですが、あんなに鳥達を近くに感じられたポイントが見つかりません。神社のある小島も綺麗になってしまっています。当時はお堂だったか橋だったかが壊れたままになっていて立ち入り禁止でした。やはり時代のせいでしょうか、こういう公園をみんな大事にするようになったのでしょう。最近の都会の公園を見ているとそんな感じがしてきます。昔からあった公園はいっときバブルの頃には『何の経済的生産性もない』ことから時代や周りから忘れ去られて行きました。そのため荒れたい放題となり、また時代の歪みによるストレスからでしょうか、いたずらされたり汚されたり壊されたり、可哀想な仕打ちを受けたものでした。僕が鳥を見に行っていた頃も決して綺麗な公園ではありませんでした。ただ時代から取り残されて人の手がつけられなかった為に、野鳥達の冬の隠れ家には最適だったのかもしれません。それが「こういう身の回りの自然や公園こそ大事にしよう」という気運が高まってきたのは最近のことでしょうか。入場料が取れる訳でもないのに空き地を綺麗に整備して明るい公園に造り直したり、汚されてしまった公園を再生しようという取り組みや呼びかけを始めている所を数多く見かけます。経済一辺倒の象徴だったこの東京の人々が、これまでの自分達の生き様を見つめ直してこのようなもの達に価値観を見出すようになったのなら、それはとても素敵なことです。でも悲しいかな、人間は一度とことんやり詰めて反省をしなければ自分を変えられない生き物です。僕ら田舎に住んでいる者達は都会の物質的豊かさと最先端の情報に憧れ、まだまだ都会のやり方を追いかけています。都会のトレンドが自然回帰であるならば、僕らはそんな暮らしの中で生きているんだと、田舎暮らしのスローライフを誇らしく思えたらいいのにと思うのです。なかなか難しいことだとは思いますが、ないものを必死になって追いかけるより、あるものに感謝してその中でよりよく生きる方法を探していきたいと、東京の公園の池畔にたたずみながら日土の田舎を想ったものでした。
 三宝寺池を歩きながらその風景をカメラに収めてゆきます。ぐるっと一周歩きながら日陰で眺めのよいベンチを探します。頭上の木の葉が心地のよい木陰を作り、目の前が池に向かって明るく開けたベンチを見つけるとそこに座って一休み。小休止とは名ばかりで、そこに座り込むこと約2時間。これは大休止と言うのでしょうか。移りゆく陽の光を木漏れ日の中に感じながら、時よりカメラを向けてシャッターを切ります。お茶を飲みながらエッセイをしたため、あちらこちらの話を思い起こしながら行ったり来たり。こうしてその場で思いつくことを書いていると時系列が無茶苦茶になってゆくのですがそれは後で最後に編集することにして、やっぱりその時々の想いをそこに残せることは素敵だなと思うのです。これまでは旅行から帰ってからその旅を思い起こしながら文章を書いていたので、なかなかその場の臨場感を再現することができませんでした。ちゃんと前後の脈絡や時系列を考えながら書く文章は読みやすいもののそれがいつの想いだったのか、それを見ていたときの想いだったのかそれともそれを思い起こしての言葉だったのか、自分では明確に出来ないことが沢山ありました。でもこうしてその場その場で想いを書き留めていると自分でもどう展開してゆくか分からない文章を「どうしよう」と思う一方、これまでにない臨場感を自分で面白いと思えるおかしさ。そんな素の自分と対話しているようでなんともおかしくなってしまいます。その面白さゆえにベンチに座ってパソコンを開けば一時間も二時間もそこでつまらない文章を書いてしまうのでしょう。ほら話がちっとも進みません。
 そんなこんなしていると今日座っているベンチに落っこちてきたのはハナモグリ、背中にフ入り模様の入ったカナブンでした。夜行性の彼ら、昼間のこの時間は寝ぼけていたのでしょうか。毎回自然からの面白メッセージを受け取って、そんな話をエッセイの中に差し込んでゆけば都会の自然状況というものも伝わるでしょうか。コンクリートジャングルは確かに街を埋め尽くしていますが、一歩そこから足を外に向ければ東京にだってこんなに素敵な自然があるのです。今まで気づきもしませんでしたが公園のベンチとは全くおもしろい所です。だから僕らはこんな公園に関心を向け、もっと度々足を運び、大切にしてゆかなければならないということを身をもって感じるべきだと思うのです。『知らない』ということと『無関心』、これが自然を失わせる最大の要因と言えるのではないでしょうか。

 帰り着く時間を逆算し、長々と居座ったそのベンチを少し惜しみながらも後にしました。「今日も暑い日になりそうです」と言う天気予報は当たっていたのでしょう。でも水辺の木陰のベンチにたたずんでいれば、そう暑さは感じません。今日は涼しいのかと思い違いしそうにもなりますが、時より漏れさす木漏れ日に肌を焼かれれば「あちちちのち!」。木陰と池を吹き抜ける風のおかげだと改めて思い知らされるのでした。やはり緑と水面は大切で、これぞ気化熱によって涼を生み出す天然のクーラなのです。でもこれらのものは家電製品のように『買ってくれば機能する』というものでは決してなく、緑も水も常に手入れをしなければ僕らにこんな恩恵を返してはくれなくなるもの達なのです。
 昨日緑地公園に引き続き電車に乗って行った井の頭公園では今、池のアオコが大量発生して池が緑色のヘドロで覆われていました。そのため人工の浮島を作り、そこに仕込まれたフィルターで水を浄化する試みも始まっているとのこと。しかしそもそもの原因は生活排水や魚にやる餌などにより池の中の有機物が異常に増えたことだとそこの掲示板に書いてありました。この周辺の都市化に伴い井の頭池の湧水も減り自然浄化の為に必要な量の水が池の中に供給されなくなってしまいました。増えた有機物はアオコの大量発生を招き、池を酸欠にし、生き物達の大量死や悪臭につながってゆくのだそうです。そう僕達がこれらのことを早く知って行動しなければ、井の頭公園を初めとした都内の水辺のある公園は皆同じようにドブ池と化してしまうでしょう。僕らにできることはきっと小さなこと。魚やカモに餌をやらない、池にゴミを捨てない、家庭で使う洗剤の量を減らす、汚れのひどいものを下水に流さない。きっとどれも完璧には出来ないでしょうが、僕らの心がけ一つが自然再生の手助けとなるであればそのことを覚えて僕は行動したいと思うのです。この涼しい風を送ってくれた公園の緑と水に感謝の心をもって。でもこれを書きながら湧いてきた疑問がひとつ。下水道が完備されているこの都会でなぜ家庭排水が河川の汚れにつながるのか。「処理される下水とされない下水があるのだろうか」、「下水場の処理能力を超えた水が河川に流れ込んでいるのか」と色々可能性をベンチに座って考えたものです。日土に帰ってから調べたのですが、東京の下水道は古い年代に整備が進んだ一方、当時は合流式という生活廃水と雨水を一緒に流す下水道が主流でした。晴れた日にはこの下水は全て処理場に送られ処理された上で河川に流されるので川を汚すことはありません。しかし降雨時など、大量の雨水が下水に流れ込んだ時にはその水量が処理場のキャパを越えてしまうので、オーバーフロー分がそのまま河川に流されているそうです。それが河川を汚している原因であるとあるHPで紹介されていました。公園歩きをしたからこそ生まれた疑問。やはり自分の足で歩いて見聞きすること、そしてそれによって感じること、それは何かをするためには机上の空論よりはるかに力を持つ大事なことなのだと思いました。
 帰りは別の路線バスで三宝寺池にバス停があることを知り、それに乗って帰ることにしました。しかも行き先は阿佐ヶ谷駅。そこまでバスで行ったなら後は歩いて帰れる距離の所。長いことこの街に住んでいたのに実距離と移動時間や移動手段についてほとんど知らなかった僕。でも都会とはそういう所なのかもしれません。日土に住んでいれば、大洲まで車で30分15Kmとか、宇和まで車で40分20Kmと大体距離と時間が比例で求められます。また自転車で向難経由一周90分16Kmなどと経験値による数字がこの土地の距離感を教えてくれます。でも東京はどこからどこが何キロで何を使えば何分かかるのか、経路や交通機関によって全く違うのでこの街の距離感がつかめないのです。だから僕にはこの街の実態が未だに分からないような気がするのです。もっともこの街の進化や変化は今もまだ止めどなく続いています。去年来た時にはあったスーパーが壊されていたり駅の改札が変わっていたり。この街の姿を全て分かっている人など、もしかしたら誰もありはしないのかもしれないと、ふとそんな風に思ったりもしたものでした。

 東京最終日の前日、今年の公園巡り歩きの最後に選んだのは善福寺公園でした。今回の夏旅行はいろんな公園で長い時間を過ごしたのですが「距離はそんなに歩いていないな」と思い、最後に少し歩いてみることにしました。一日目のさまよい歩きだけで翌日ふくらはぎがぱんぱんに張り、筋肉を伸ばすためにずっとストレッチをやったりもした情けない僕。それが三日目くらいから張りもなくなり、その後だんだん調子の良さなども感じるようになりました。でも普段僕がどれだけ運動不足かということを露呈した今回の筋肉痛事件。普段から動いているつもりでも立ったり歩き回ったりという動きをしていなかったということでしょう。つまり子ども達と走り回っていると言ってもそれは数十分のことで、1時間も2時間も立っていたり歩いてみたりなどという動作をしてはいない為にそれを支える筋力が落ちていたということなのでしょう。「田舎では自動車でみんな移動してしまうから」と最初は言っていたのですがそのうち段々自分だけに当てはまることのような気がしてきました。もしかして僕は出不精だから?買い物好きな女の人達はエミフルでのウィンドウショッピングなどでも1時間も2時間も平気で過ごしていられます。これがきっと足腰の筋トレになっているのでしょう。僕の買い物はダイキで10分がいいところ。と考察してみた所で日土では歩く以外に鍛えようがない気もするし、去年の自転車以上にどうしたものかと考えあぐねているところです。仕方がないので「こちらにいるうちにリハビリと筋トレをできるだけ」と、そんな想いもありまして善福寺公園までの8Kmの道のりをまた歩いてみることにしたのでした。

 今日のコースは大宮から善福寺川を遡って善福寺公園へと向かう3年前にも歩いた道です。途中に通る和田堀公園や緑地公園は、今年もう何度も写真を撮りながら歩いた道なので今日はその辺にあまり足止めを食らうことなく、軽快に歩を進めます。今日も暑さが予想される東京地方。なるべく木々の深く生い茂った公園の中の方の道を選び、木陰の軒下を渡り歩きながら川を遡ってゆきます。やはり木陰は心地よい。調子良く歩けた僕は善福寺川緑地公園の端っこまで40分ほどでたどり着きました。そこで20分ほど休みながら次の一手を考えます。この緑地を通りすぎてしまえば後は暑さ厳しい炎天下の中を歩いてゆかなければなりません。今日のコースの難関ポイントです。でもでもここはしょうがない。この休憩でしっかり体を休ませて一気に歩ききるしかありません。覚悟を決めて僕は先を歩き始めました。
 荻窪に差し掛かった善福寺川はだんだん様相を変えてゆきます。水量が減り、川の中にはヘドロが目立つようになりました。そのあたりから異臭も感じ始め、いかにも『ドブ川』と言った感じの川に変貌してしまいました。確かに街中の住宅密集地に入ってきたのですがこれはどういうことなのでしょう。上流にある荻窪あたりの川が汚いのにその下流の和田堀あたりではまた川が綺麗になっていることの不思議。このことから分かるのは川には自身が持つ自浄能力があって、それを超えてしまうとたちまちドブ川へと変わってしまうということ。それは川に流れ込む汚れと川を流れる水の量、そして汚れを浄化してくれる水辺の生き物達がバランスしている所では水も綺麗に保たれるという摂理なのでしょう。やはり僕達の行いひとつひとつがこの川を綺麗に出来るかどうかにつながっているのです。汚れ物・臭い物は綺麗にするより蓋をしてしまった方が簡単。でもそれはそこにあることを知っていながら自分と関係のないものとして切り捨ててしまうということ。少しの煩わしさと引きかえに自分達の住む街を流れる川や自然が再生し、もう一度それらのものが与えてくれるはずの『恵み』が僕らの暮らしに還元されるのだとしたら、僕らはその煩わしさを引き受けることも出来るのではないでしょうか。でもそれはこうしてこの街を歩いてみないと分からないことであり感じないこと。こうして街の中に身を置いて自然の恵みをその肌に感じ、一方で汚された川の悲惨な状態も自分の目や鼻で感じしっかり受け止めて、もう一度自分のするべき事を考えてみる時に来ているのだと思うのです。これまでこの国にはその余裕がなかった。右肩上がりの経済成長社会においてはその先を見通すことができませんでした。それが平衡状態になった現在、やっとこれまで歩いてきた道のりとこれから先の道のりを比べて見ることが出来るようになったのです。そう、それは山登りと同じ。登り道が続いているときは歯を食いしばり足元をじっと見つめながら一歩一歩登っていくもの。でもその時はこの登り坂があとどれだけ続くのか、登り坂の後はどんな風景が待っているのか、全く見ることはできません。それが頂に辿りついたなら、今まで見えなかったものが見えるようになるのです。そこには一面に広がるお花畑が待っているかもしれないし、どこまでも落ちてゆく坂を目の前にして不安の中に突き落とされてしまうのかもしれないけれど。今はきっとそんな時代。例え先の見えない下り道を目の前にしても恐れおののき絶望するのではなく、こんな時だからこそ別のものに価値観を見出す感性を育てることができたならとても素敵なことだと思うのです。この街の人々の心にゆとりが出来て、もっとこの街の緑と自然を感じることができるようになったなら、身の周りのものを大切にすることによって生まれてくる『豊かさ』もあるということにきっと気付いてくれるでしょう。そう、気付いて欲しいと心から願っています。僕はこの街が好きだから。

 そんな荻窪流域をひたすら歩き、環八道も越えたなら、善福寺川は井荻・西荻に入って来ました。この辺りに来ると川の中に芦やガマノ穂などの植物が多く見られるようになってきます。これらの植物達もこんな川の中にあって一生懸命水を浄化しようとがんばっているのです。また途中通りかかった小学校の校門を見れば、『この辺りで見られる野鳥』として写真付きで野鳥が紹介されていました。そう、自然を受け入れられる子どもを育てるにはまず名前を教えるのが一番の基本。名前を知るということはそのものに興味を持つための第一歩だから。田舎に住んでいても「すずめ」しか知らない人はたくさんいます。でも彼らが「すずめ」と呼んでいるその鳥は、ホオジロ・アオジ・モズなど他の鳥である場合がほとんどです。「別に何でもいいじゃん」と思うかもしれませんが、それでは自然から何も感じられません。山で繁殖するはずのホオジロが家の庭で子育てを始めたなら、「山の環境が悪くなったのだろうか」とか「家の庭、ホオジロが住み着くほど豊かになってきたのだな」と感じるもの。冬の渡り鳥、ヒレンジャクを4月の中頃に見かけたりすれば、「今年はいつまでも寒かったから、渡りの季節も遅れたのかな」と気候の不順を裏付けてくれます。これらをみんな「鳥」と呼び、十羽一絡げでくくってしまったなら、野鳥が同じにしか見えなかったなら、こんな自然からのメッセージも受け取ることはできないでしょう。また『名づけて呼ぶ』ということは愛着が湧くことにもつながるもの。「このカワセミがこの川にずっと棲み続けることができるように、この川をきれいにしてあげたい」、そんなモチベーションにもつながってゆく訳です。
 その小学校の校舎を眺めると壁が緑で覆われていました。つる系の植物を校舎の表面に這わし、その葉っぱで覆うことによって校舎や教室の温度を下げようとする『緑のカーテン』です。近年、『温暖化防止の為に自分達が出来ること』として都市部の学校でやっていると言うことをよく耳にしてはいたのですが、僕も実際に目にしたのは初めて。遠目から見ただけだったので、それがへちまだったのかゴーヤなのか分かりませんでしたが、校舎の3階くらいの高さまで届く見事なカーテンが出来上がっていました。実際に涼しくもなるのでしょうが、それより子ども達にこうして関心や興味を持たせる教育教材として用いられていることがなんだかうれしかったです。この街の人々が自然を教育の中に生かすことで、これからのこの街の未来を守っていこうとしている姿が伝わってきました。僕らがあんなに汚してしまった川の姿を見た後だっただけに、この街に希望を見た気がしてただただうれしかったです。そのおかげで最後は少し明るい気持ちで善福寺公園にゴールイン。歩き出してから約2時間で8kmの道のりを歩き切りました。善福寺川緑地を後にしてからは日陰も休める公園もなかなか見つからなかった為、給水用に持って歩いたペットボトルだけが頼り。炎天下の中を歩くのは結構大変でしたが、今回もなんとかこの道を最後まで歩くことが出来ました。これまで気付かなかったこの街のいい所・悪い所、そんなものにも目が行き、感じることが出来た『街歩き』となりました。

 善福寺公園でも過ごしやすいベンチを探して一休み。お茶を飲みながらゆっくり身体を冷やします。かいた汗も落ち着いてひと心地つけば、「忘れぬうちに」と早速パソコン開いてここまでの道のりストーリーをメモします。その場だけでは完結しない文章達ですが、その時の想いを書きとめるのが今回のこのパソコンと僕のお仕事です。しばし書いては締めくくるところまで行かずに筆が止まり、また次のトピックスを書き始めるのでした。
 こうして池のほとりのベンチで書き物をしているといつの間にかカルガモ達が足元にまで寄ってきます。僕同様、木陰のこの場所が心地良いのでしょう。彼らに気づきカメラを向ければ2〜3枚の撮影は許してくれるのですが、それ以上構うと煙たそうに池へと帰って行きます。よそからやってきた僕に「ここは私のなわばりなんですけれど」と苦言の一言も言いたそうな横顔を残して。頭上で盛んに鳴き立てる鳥の声に目を向ければそこにはオナガがとまっています。留鳥のカルガモの中に一羽だけ混じっていたのは冬鳥のオナガガモ、北国へ帰ることが出来なかったエクリプスだったのでしょうか。遠くをゆうゆうと泳いでたのはカワウ、長い助走の後に空に向って飛び立って行きました。こうして日土ではあまり見かけない鳥達を都会の公園の中で見るというのも変なものですが、これが自然を残した武蔵野のいいところ。追いかけたり構ったりしなければ、彼らはその自然な姿を僕らにそっと見せてくれるのです。彼らは自然の中に生きるもの。余計なお世話をするよりも、静かな環境を残して置いてくれることをきっと何より望んでいることでしょう。愛媛にはこうした池のある公園が身近にあまりないので、ここで見る野鳥達がとても懐かしく思えたものでした。
 今年あちこちを歩き、街中の公園が僕らに与えてくれる恵み、それは猛暑の中にあっての涼しい風だったり、昆虫達がささやいてくる都会の杜の息づかいだったり、懐かしい野鳥達のおもてなしだったり、を改めて感じることができました。それは僕にとって新しい学びのひととき、かけがえのない時間達となりました。『なにがいい・なにがわるい』と言ってみた所で、「じゃあお前は何をするのか」と言われれば何も出来ないかもしれません。でも今は何も出来ないかもしれないけれど、『今している程度のこと・しようとしている程度のこと』では何も変わらないかも知れないけれど、今回その想いを持って日土に帰ること、そこから始めたいと思うのです。自然に対するこの想いを持ち続けること、それを誰かに伝えたいと思うこと、そんな小さなことがもし正しい方向を向いているのであれば、いつか時代がこの社会がその想いを受け入れ受け止めてくれるのではないかと思うのです。『温暖化防止のためにクーラーは一切使いません』なんてこと、僕にもきっとできないと思います。でも設定温度を下げたりちょっと部屋を外すときにはスイッチを切ったりすることなら出来るはず。風のあるときにはベランダに打ち水をして自然の風で涼を取ったり、ちょっと汗をかいたときにはお風呂の残り湯で水風呂シャワー、風や水で身体を冷やしたなら冷房の負荷も減らせるはず。全て小さな心がけ。みんな自分に返ってくることなのだから。ねえ、僕らは何が出来るのだろう。

 今年の夏旅最終日、いよいよ帰りの道のりを残すのみとなりました。I君とお母さんにお礼と別れの挨拶をして杉並大宮を後にします。朝の8時前ということで乗り込んだ井の頭線は通勤ラッシュの大混雑。本当に何年ぶりでしょう、久々に寿司詰め電車に乗り込んだ僕、何年経っても変わらない都会の『人口密度』を感じここに住む人々の悲哀を思い出してしまいました。たまの夏休みに「東京を歩いてきました」といばってみても、それはこの街の非日常。この満員電車の方が現実なのだと言われてしまえば返す言葉も見つかりません。ラッシュの中、Tシャツ姿は僕ひとり。かさばる荷物をなるべく邪魔にならないようにと低く下げ、なんとなしに申し訳なさを感じながら早く渋谷に着いてほしいとただただ願っていました。でも一方周りを見渡してみると、皆が皆つり革に捕まりながらケイタイをいじっている異様な風景。その姿は友達の代わりに大人達から与えられたゲーム機を肌身離さず持ち歩き、それが一番の友達だと言ってはばからない子ども達がそのまま社会に出て生きている姿のよう。電車の中での時間を楽しんでいると言った感じは少しもなく、自分の世界の中に逃げ込み外の世界と自分を切り離すことによって、この満員電車の忌まわしい環境に必死で耐えているように見えてしまいます。誰も電車の外を流れる風景に目を送る人はありません。つらく・しんどく・きたない現実から目をそらし、わずらわしさのない心地よいバーチャルの世界に自分の安らぎを求めるのが現代都会人。それはこの国のIT産業戦略がお膳立てした当然の結果で、彼らは自身が癒しと信じている『バーチャルな豊かさ』を高いお金を払って手に入れているのです。それが現代のこの国の経済を支え回しているという皮肉。なんともせつないものです。それともこの街からこぼれ落ちた僕の方がかわいそうな存在なのでしょうか。都会でばりばり働いていた女性が今、日土の町でお母さんをしていること、その方が淋しいことなのでしょうか。それに答えを出せるのは自分だけ。自分の日常の中にどれだけの幸せを見つけることが出来るか。『幸せ』は『なる』ものでも『ある』ものでもないのです。きっと『見つける』、『感じる』ものなのです。だって一人一人にとって幸せは違うものなのだし、それを幸せと感じるかどうかはその人の感性によるものなのだから。

 渋谷でJR山手線に乗り継いで新幹線に乗り込む品川駅に向かいます。新幹線のプラットホームは都市熱の吹き溜まりと言った感じで異様な暑さを感じさせていました。ここでも予定の時刻より40分も早く着いてしまった僕。ベンチを見つけると今日のメモを始めたのですが、ここはこの夏一番居心地の悪いベンチでした。それでもホームに入ってくる新幹線をバックに子どもの写真を撮るお母さんの姿などを見れば、「みんな一生懸命生きているんだなあ」とまた応援したくなってしまいます。思い出や旅の途中の一枚の写真は、誰にとっても心の糧となるものなのです。子どもとの二人旅を楽しんでいる様子が伝わってきて、おもわず「がんばれ!」と声をかけたくなってしまいました。
 僕の新幹線がやっとやってきました。足元は高速バスよりさらに広く、足を伸ばしたり組みなおしたり、楽な姿勢で旅することができました。その代わり時速230kmの列車の挙動はなかなかトリッキーなものでした。ゆれるというより左右上下に弾かれるような感じで、その動きがなかなか予測できません。その上、新幹線同士がすれ違う際は高速で移動している車体の間の気圧が高まって、ばん!と外側に弾き出されるような感じ。また戯れに自分の動体視力を試そうと、『新幹線の窓からすれ違う上り線の窓を覗いて、中の人が見えるか』なんてやってはみたのですが、白く流れる帯が目の前を瞬時に通り過ぎるだけ。16両、数百メートルはあろう車体同士が「いち、に」と数えている間にすれ違い終えてしまうことに「すげー」と変な感動を覚えたものでした。僕が新幹線で帰ることを知った友人が「お台場のガンダム、今静岡で見れるんだって」と教えてくれたのですがその時は「もう、一度見たからいい」なんてつれない返事をした僕。それでもその言葉が耳に残ったのでしょう、外をぼーっと眺めていると線路北側の僕が座っている窓から、例の実物大ガンダムが立っているのを見つけてしまいました。『静岡』という情報だけでどの辺りでどっちの窓から見えるかなんて聞いてもいなかったので、発見出来たのはかなりの確率の奇跡。旅の最後にまたひとつ土産話が出来ました。でもこれくらいの動体視力は僕にもあったということみたいです。新幹線プランのもう一つのメインであった駅弁は乗った時間も早く、岡山への到着時刻も中途半端だったので『おあずけ』ということになりました。そんなこんなで久々に乗った新幹線だったのですが、十分その旅を楽しませてくれました。岡山までは3時間ちょっと。列車は感動するほどに速く走り、その挙動から少々せわしなさも感じたものでしたが、書き物をしたり外を眺めたりしながら過ごすにはちょうどいい時間。満足の新幹線旅でした。

 3時間ほど新幹線の旅を楽しんだ後、岡山からは在来線の旅へと乗り換えです。岡山駅の在来線ホームで目的の快速電車を発見。3両ほどつなげられた直角座席の快速電車は所々席が空いているものの直角座席特有の相席をお願いしにくい程度の込み具合。そういう僕も最初座れずに、荷物を抱えて入り口付近に立ちながら窓の外を眺めていました。すると後から乗ってきた人が当たり前のことのように入り口際の補助椅子を引き出して座った光景を遠目に見つけ、「これって座れるんだ」。目の前の補助椅子を真似て引き出してみました。電車の補助椅子、地方在来線の『らしさ』に座れてちょっとうれしい気持ち。少し固めの座り心地に、でも初めて座る電車の補助椅子に少々わくわくしながら電車の出発の時を待ちました。
 時速200Kmを優に越える新幹線から乗り継いだ在来線の窓の外を流れる風景は、快速とは言ってもゆったりのんびり見えるもの。後ろ向きに座ったこともあって、背後から景色が流れ去ってゆきます。さだまさしがコンサートトークでよく話していた言葉を思い出します。「人生とは高速で移動する乗り物の後ろ向きの直角座席に座らされ、窓の外の風景を眺めているようなもの。進む先(未来)のことは決して見えない。そして『今』という瞬間に見えた風景は、すぐさま思い出として過去に向って早足で通り過ぎてゆく」とそんな言葉。でも『今』の感動が大きかった風景は、いつまでも目で追いかけようとするものです。そしてそれが遠くに過ぎ去り見えなくなってしまっても、記憶の中でいつまでも大事に、この手のひらの中で包み温めていたいと思うものなのです。そんな素敵な思い出達って、10年、20年の時を隔てても昔の仲間を呼び集め「もう一度自分に生命を吹き込んで欲しい」と願っている妖精の棲むところなのかもしれません。
 駅を二つ程経て空いた席がいくつかできたので、僕は前向きの直角座席に移動しました。やはり前から流れてくる風景を受け止めるように眺めるのは気持ちがいいものです。瀬戸内海も見えてきました。海面近く、白く霞む海。今回の日土への帰郷旅は『写真なし、文章力のみのレポートに挑戦』と決めていたので、思わずカメラを取り出しそうになる心を諌めながら自分の目でその風景を一生懸命追いかけ焼き付けます。電車は瀬戸大橋にかかりました。流れる橋げたのトラス(斜めに渡された支柱)の合間から見える海は特別な風景として飛び込んできます。自動車で何度も通っているはずのこの橋ですが、高速道の下を走っている在来線。トラスの視覚効果もあるのでしょうが、足元の海がこんなに良く見えるのは感動的でした。自動車だと水平から上の景色ばかり見える瀬戸大橋、これは転落防止のためのフェンスが下の視界を遮っている為なのですが、その視角の差なのでしょう。次々迫ってくるトラスがジェットーコースターのようでもあり、とてもダイナミックかつドラマティックな瀬戸内海横断でした。
 でも坂出に着いてみれば、こんなに四国上陸が簡単であっけないものであることに拍子抜け。この橋がなかった頃、この海を渡るのに何隻もフェリーを待たされたお盆頃の込み具合が思い出されます。フェリーを待つ間の退屈しのぎにカーラジオをつけていたら、戻ってきた父親に「バッテリーがあがる!」と怒られたことを思い出しました。あの頃は僕も『ものの道理・仕組み』が分からないおばかな小学生でした。橋が出来てからは便利にこそなったけどその高い料金に通るたび理不尽さを感じたもの。しかしそんなこんなを言いながらも家族4人がノンストップで四国入りできる瀬戸大橋はありがたい橋でした。今ではルートの便の良さから明石大橋にその主役を奪われてしまったこの橋ですが、僕にとっては思い出深い橋なのです。
 そんな瀬戸大橋を在来線の普通料金だけでこうして悠々と渡ってしまったことが、なんか不思議でとってもお徳で、すごいご褒美をもらっちゃったような気がしてしまいました。でもこの在来線、隣り合わせて乗ってきた人達の日常の生活の足なのです。確かに自動車道としての採算は合わなくなってきているのかも知れませんが、こうして平日の昼間、これだけの人々が利用して座れない人もいるほどの利用度数の高さが、その存在意義を裏付けているのではないでしょうか。会計決算簿だけでは浮かび上がってこないこの橋の意義。みんなで感じてあげて欲しいと思うのです。関西圏に行く時、一度この快速マリンライナーを利用してみてください。

 坂出のホームで次の電車を待っています。次も快速。今から思えば、ルート検索の時、『新幹線利用』の所にチェックを入れたものの、もしかして『特急利用』の項目にチェックを入れ忘れたのかもしれません。まあそのおかげで今日のこの旅、楽しくやらせてもらっているのですから、僕のマヌケも含めて『天の神様の言うとおり』でよかったのでしょう。時は優にお昼を過ぎました。ホームの売店を覗き込みますが、こんな在来線のホームで駅弁を置いているはずもありません。乗り継ぎの時間は5〜10分と意外とみんな連絡がいい。ここはもう少しいけるところまで行ってみようと思ったものです。この辺の駅では電車がやってくる合図に『瀬戸の花嫁』のメロディーが流れるのを聞いて心の中でくすっと笑ってしまいました。「今時の若い人達は聞いたこともないであろうこの歌のメロディーを、今でも大事にしているんだな」、これもうれしいご当地見聞でした。しかし後に松山の駅に降り立ってこの『瀬戸の花嫁』を聞いた時には、「どこまで『瀬戸の花嫁』だよ」とも思ったものでした。東京の恵比寿駅ではエビスビールのCMで流れている『第三の男』が流れ、『荒城の月』のモデルとなった岡城がある九州大分・豊後竹田駅では滝廉太郎の『荒城の月』が流れているそうです。その駅々の工夫や想いに支えられての発車メロディーは好感が持てますが、ここまで来るとJR四国のキャンペーンソング。しかも大昔の。これは『考える余地あり』ではないでしょうか。
 なぜかドアを閉めて駅でしばらくたたずむ快速電車。「何してるんだろう?」と思い始めた頃、隣のホームに上り電車がすべり込んできました。そうです、ここいらの線路はみんな単線。扉にあった開閉ボタン、そうあれはこの待ち時間に車内の冷房暖房を逃さないための工夫なのです。昔、彼岸花の写真を撮りに通った埼玉県の高麗・巾着田、そしてそこに行くために毎回乗ったローカル線の八高線、そういえばそれにもあのボタンがついていました。そう、どんなに技術が進歩してもマニュアルの方が使い勝手のいいものもあります。久しぶりに見た、あのいかにもアナログと言った感じの開閉ボタンが素敵に見えてきてしまいます。しかしもう一つ先で乗った鈍行電車はさらにその上をゆく『手動開閉』。ドアがフリーになってみんな自分の手で開け閉めしながら電車に乗り込んできます。2枚開きの無負荷のドアを閉めるのは結構難しくて、勢いが足りなければ隙間を残してしまうし、強すぎればもう一枚のドアが跳ね飛ばされて反対側に隙間が空いてしまいます。いずれにしてもきっちり締まるのを見届けてから入らないと、だらしなく隙間の空いた状態になってしまいます。それを座席から見ていると、乗ってくる人々の性分が垣間見えます。先を急いで「がーん!」と閉めて弾き、大胆に開けっ放しを残して行く人。自分はちゃんと閉めたはずなのに閉まりきらないドアを見つめ、前の人がすかして行った反対側のドアを丁寧にぴっちり閉めて行ってくれる人。そんな光景をずーっと眺めているのは暇な僕ぐらいなのでしょうが、それでも誰もわざと開けっ放しで行こうという人はありません。将来的にもっと技術が進めばビルの自動ドアのように人が来たら自動で開け閉めできる、そんな時代が来るのかもしれませんが、僕はこの閉まりきらないドアとそれを一生懸命閉めようとするこの人達の方が素敵だと思うのです。
 さあ、快速電車がまた走り始めます。微妙に方位を変えながら西に向って走る電車の窓際は、陽射しが入ってきたり陰になったり。窓から見える風景は見ていたいものの、残暑の陽射しはまだまだ暑くシェードを上げたり下げたりしながら走り抜ける田園風景を見つめていました。この文を書いている途中だというのに電車に揺られ少々眠気がさしてきます。「うとっ!」と一度船を漕いではっとします。よくよくパソコンを手放さなかったものです。在来線の鈍行電車の揺れの波長、つまり『ゆらぎ』は僕らに心地良いもののようです。新幹線では「くん!くん!」と弾かれる様にゆれていた車体が「ゆっさ、ゆっさ」と揺れることで僕らの眠気を誘います。突発的な揺れは不安と緊張感をもたらしますが、周期的な揺れは安心を与えてくれるもの。周期的な揺れは予測が出来るので、そのパターンが体内のGセンサーにインプットされたなら不安なものではなくなるのでしょう。さらに心臓の鼓動の心拍数とのシンクロが安らぎさえもたらすものとなるようです。この在来線の旅、なかなか退屈させてくれません。

 観音寺からはいよいよローカル電車、車両もワンマンの一両編成各駅停車となり、乗り口では整理券配布装置がひっきりなしに「整理券をお取りください」とアナウンス。ちょっぴりその声がヒステリックに聞こえるのは誰も整理券を取ってくれないからでしょうか。無人駅でなければ駅で切符は買えるので、この発券装置の出番もそんなにありはしないのでしょう。でもそんな無人駅、料金を徴収する人はいるのでしょうか。そちらも自動精算機が用を足しているのであれば、券売器くらいあってもよさそうなもの。途中下車までして確かめたいとは思いませんがどんな仕組みになっているのか知りたいものだと思い始めたその頃、運転席の上あたりに路線バスで見慣れた自動更新式料金表があるのを見つけました。「と言うことは」とちょっと身を乗り出して運転席の横を覗きこめば、やっぱりありましたバス式の料金箱。「という事は・・・」とこのシステムを推察すると、この観音寺−伊予西条の間の駅は皆無人駅でこの区間で乗り降りする人は車内で清算するのでしょう。そしてこの区間を越えて手前から乗り込みその先に乗り継いでゆく僕らのような利用者は当然その区間の切符を持っているはずなのでこのシステムには干渉されないとそんな所なのではないでしょうか。旅の中で見つけた疑問が一つ解けた事に満足しながら僕の鈍行列車の旅は続いて行きます。
 当初の思惑以上に色々な情景に巡り合わせてくれる在来線の旅ですが、ちょっとした誤算もひとつふたつ。ここに至るまでこの帰り旅で楽しみにしていたものの一つ、駅弁にありつくことができません。各駅停車の駅に駅弁は置いてありません。それに加えて細切れの各駅電車ですが連絡は数分単位でトイレに行く時間もないほどです。この旅の友、冊子の時刻表を引きながら、なにかいいオプションはないかと思って探してみますが帯に短しタスキに長し。一時間も待てば急行列車に乗れもするのですが、速い急行列車も待ち時間のロスを考えればあまり時間的なメリットもありません。それでもどこかで少し待ち合わせの時間を過ごしながらトイレ休憩を取り、駅弁を買い求め列車の中で最後の旅気分を味わおうかどうしようかと考えながら松山まで帰って来ました。ここまで帰ってくれば、「せっかくここまで鈍行で通してきたのだから最後まで鈍行で」などという想いも沸いてきます。体ももう少し持ちそうだしと、鈍行電車のホームを目指して歩き出しました。しかしそのホームに停まっていた電車を見て一気想いは冷めました。その二両編成の電車にはこれから帰宅すると思われる高校生達が所狭しと乗り詰めていたのです。その光景を見た瞬間、僕の想いは『特急・駅弁構想』に進路を定め、特急券を求めに改札を出たのでした。時は早、夕方の6時。選ぶほどお弁当は残っていませんでしたが、松山鮨のお弁当を買って特急乗り場のホームに戻った僕でした。
 しばらくホームで待った後、やっとやってきた特急列車に乗り込みます。ここで取れた休憩時間では座りっぱなしで痛くなった腰も伸ばすことが出来たし、最後の最後、特急列車の車中で念願の駅弁も味わえました。こうして特急列車の窓から遠くを見渡せば、遥か向こうに夕日が赤々と輝いています。今年の旅行では『夕焼け』を見ることはありませんでしたが、最後の最後に帰ってきたこの松山で見れるとは思いませんでした。沈みゆく太陽が空にかかる雲を赤く広く焼いてゆきます。太陽が遠くの山影、あれは海の上の島影だったでしょうか、の下に沈み終えるとあたりは闇に包まれます。「闇夜の中なら特急列車も悪くない」、そう思いながら何も見えもしない窓の外を見つめながら残りの時間を過ごした僕でした。「闇はやはり、早く潜り抜けられた方がいい」。それでも「その闇の中に何か見えないか」、と目を凝らしてしまうのは僕の性分。窓越しの闇の中に映るもの、それは『希望・反省・思い出・罪悪感・楽しみ・悲しみ等々・・・』、僕自身の心の中身なのかもしれません。

 今年の『ひとり股旅』もこうして終わりました。今年は撮影会といえば鎌倉の一日だけでしたが、それ以外の多くの時間に街を歩き、公園の写真を撮り、その時々の想いを書き残すことが出来た旅でした。それを今、まとめなおし綴りなおして一本の回想録をしたためています。いつもの一ページ読みきりのスタイルではなく、前編・後編とおおざっぱにまとめた旅行記は僕の想いや思い出を鮮やかに残してくれました。その分、なかなか先に進まない展開や枝葉の小難しい話に読みにくさがあったかと思います。「読む人を置いてきぼりにしてしまっているなぁ」と感じながらも「このことはここに書き残しておきたい」という想いがこんな破天荒なエッセイを書かせたのでしょう。形式的なことには捕らわれない、主観を述べる文でありながら常に自分を客観的な目をもって見つめ直す、でも論じる先にある『これからみんなで目指してゆくべきもの』をメッセージとしてしっかりと持っている、そんなルールや倫理だけが自分の中の道しるべ。そんな目を持って今の自分、そして自分の目で見る東京という街や旅の途中に通り抜ける町々、そしてその旅の中で感じる旅情について述べてみたいと言う想いがこの文章を書かせた動機と書き続けさせたモチベーションだったのでしょう。
 「誰のために書いているのか」と問われれば、きっと僕も分かりはしないでしょう。でもこれは一貫して『誰かのため』として書かれたものではなく、バスに揺られながら家族のことを想い、都会のベンチにたたずめばこの街のことを想い、旧友と写真を撮りに行ったならその交流と友たちへの想いを残したいと思い、あの麓屋では仲間との再会を喜びながら懐かしの高校時代へと想いを馳せ、こうして書き重ねてきた文章達。言ってしまえば全て『僕のため』なのでしょう。僕が生きている理由。僕がこの旅をしてきた理由。そんなものに背中を支えてもらわなければ、僕ってやつは自分の道を歩いてもゆけない意気地なしなのです。でも無口と言われる僕が、こんなつまらないこと一つ一つに感情を抱き、それから派生して色々なことに想いを述べられたというのは自分でも少々驚きのことでした。
 でも結局、自分の問題提起したことがらに対して何ひとつ明確な答えを見出すことはできませんでした。デジカメと銀塩の話、これもこれまでの自分の想いや苦楽を共にしたカメラ達と上手く付き合いながら、銀塩もデジタルも続けて行ける道を探りながら歩んでゆくことでしょう。それぞれの得意不得意を撮影の途中に突きつけられ、「えー、だめなのー」とため息をつきながらも。この国の環境や将来の憂いに対しては、「土と水と緑を感じ、自然の与えてくれる『ご褒美』に感謝しながら大切にしていきましょう」、とささやき続けることでしょう。そうして僕達はこの国の自然に守られながら何千年もこの緑豊かな島国で生きてきたのだから。そうこれからも僕らはそうやって生きてゆくのでしょう。何かを急激に改造して、その場しのぎの急な取り舵を切るのではなく、「なにかおかしい」、「なにかが違う」をいつも感じる心を持ちながら、感じる感性を磨きながら、自分のおごりと怠惰を戒めながら、自分に出来る小さなことを探しながら、その想いを子ども達に伝えながら。そんなことでは世の中が劇的に変わりはしないけれど。誰かが感じ、支え・伝えなければいけない想いもあるのです。
 都会では感じられなかったさわやかな風を感じながら、その風のいたずらで紙に印刷した原稿を蹴散らされながら、今最後のくだりを書いています。あの東京の公園のベンチで吹かれた風よりも何倍も気持ちいいこの風に吹かれながら、この風に感謝しながら。あの『風の谷』のように風が吹くだけの小さな村の、この豊かな自然に囲まれた暮らしに感謝しながら。窓から吹き寄せる夏の風が心地良い日土の晩夏です。陽射しは暑いながらもこんな風が吹く時はじきに季節が変わる頃。夏が終わり、またこの谷に子ども達が帰ってきます。この夏抱いた想いを胸に、またこの子達と向き合って行きたいと思っています。今年も暑い暑い素敵な夏でした。


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