園庭の石段からみた情景〜園だより9月号より〜 2010.9.20
<貧乏暮らしごっこ>
 あんなにも暑かったこの夏の残暑がたった一晩の雨で帳消しとなり、季節は秋へと移りゆきつつある今日この頃。少し暑さのひいた園庭を歩きながら周りを見渡しているとあちらこちらに蜘蛛の巣がかかっているのが目につきます。日頃子ども達には「蜘蛛は悪い虫を食べてくれるいい虫だからいじめたらダメだよ」なんて言って蜘蛛の巣も彼らの張りたい放題にさせているのですが、週末は敬老音楽会と言うこともあって「お客さんが来るのにこれでは・・・」と蜘蛛の巣をひとつひとつ撤去して歩きました。こんな僕にも少しばかりの『虚栄心』があったようです。

 ほんのいくつばかりかと思って始めた『蜘蛛の巣取り』でしたが、探してみればあるわあるわ、トタン屋根の上からすべり台から植え込みの花壇の中まで、優に十個以上もの蜘蛛の巣を見つけ取って回りました。蜘蛛の巣と言ってもただ巣がある訳ではありません。当然、巣の主がいる訳で、その蜘蛛達は幼稚園の中庭、家の者は『築山』と呼ぶ幼稚園の入り口にある小さな庭にお引越し願いました。音楽会の当日、この時撤去したすべり台の上に再び掛けられた蜘蛛の巣を見つけ外していると、「何度掃除してもすぐに蜘蛛の巣は張りますからね」と笑ってくださった保護者の方がありました。都会であれば蜘蛛の巣を見て、「こんなきたない幼稚園にうちの孫は置いておけません」なんて言われたかもしれませんが、このあたりでは皆さんこうやって蜘蛛と付き合っているのでしょう。蜘蛛が掛けた蜘蛛の巣に取られる蛾や羽虫は数知れず。僕らの田舎暮らしを応援してくれている蜘蛛の巣ですが、長いこと掛かったままでは薄汚くもなってしまいます。そんな蜘蛛の巣は人が取ってやれば、蜘蛛はすぐさままた新しい綺麗な巣を張り巡らします。蜘蛛にとってはせっかく張った蜘蛛の巣をこわされて憤慨しているかもしれませんが、汚くなった蜘蛛の巣では誰の目にもつくでしょうから蛾や羽虫も避けて通るでしょう。「これが人と蜘蛛の共生なのでは?」などと勝手に思い込みながら、言い訳しながら蜘蛛の巣を取って回りました。

 蜘蛛の巣も取っているとだんだん飽きてもくるものです。長く柄を伸ばした虫網で蜘蛛の巣を取っていたところ、網の中にその巣に陣取っていた蜘蛛がぽろっと入り込んできました。「蜘蛛って簡単に取れるんだ」と変な感心をしたものです。狩りの名手が『取られ弱かった』などとはおかしなもの。その蜘蛛を見つめていると不意に湧き上がってきた教育心、一般にイタズラ心と言いますが、「子ども達にこれは見せなくっちゃ」などと思い立ってしまいました。網をちょっと振れば、振り落とされた蜘蛛が糸を伸ばしてぶら下がり、用意した虫かごケースの中にそろりそろりと入ってゆきます。こんな簡単な捕獲、他の虫ではありえません。蝶は羽をつまめば羽を痛め、バッタは何かの拍子に足がもげてしまったりと、虫かごに入れる時が一番リスクの生じる時。でもこの蜘蛛は当人に触らずケースに入れることができるので身体を痛めることがありません。そうしてケースに入った蜘蛛を持ってばら組の子ども達の所へやってきました。
 「ほら!」と何食わぬ顔でケースを差し出すと子ども達が集まってきて「なになに?見せて!」と周りを取り囲みます。前にいた子を押しのけてやってきた男の子が中を覗き込みました。「???・・・、!」、中に入っているのが蜘蛛だと分かるとその子は思い切りのけぞってしりもちをついてしまいました。でも人を押しのけて割り込んできた我の強い子が蜘蛛一匹に恐れおののきひっくり返るその様は、まさに漫画のようで思わず笑ってしまいました。他の子達も一人一人の反応はそれぞれで、「いやー」と逃げ出す子から「持って帰る!」と言い出す子まで様々。『蜘蛛を忌み嫌う子ども達の心が興味へ向いてくれるように』と思ってのことでしたが、さすがに持って帰られてはお母さん達がたまらないでしょう。「お母さんはいらないって言うと思うから持って帰れないけど、すみれさんから図鑑を借りて名前を探してそれから放してやろうよ」と言うと子ども達も大乗り気。早速みんなで図鑑を囲んで名前探しを始めました。「これ!」図鑑の写真を指差す子ども達。「それはオニグモだよ。こんなに毛ぼーぼーじゃぁないでしょ」と正せば次のページに目を移します。細い手足に胴の黄色模様、子ども達と一緒に探し当てたのは『ジョロウグモ』でした。「うん、これこれ」、妙に納得いった様子の子ども達。みんなでこの蜘蛛に名前をつけることができました。そう、ただ「クモ」と皆同じに呼んでいたときにはただただ気持ち悪いだけの存在でしかなかったこの蜘蛛が、名前を見つけた途端、自分が名付け親にでもなったような親近感が沸いてきます。しばらくみんなで「これだこれだ」と図鑑と実物を行ったり来たりしながら見比べていました。その後、あの築山にこのジョロウグモを逃しに行きました。草木がうっそうと茂る築山は蜘蛛達にとっても過ごしやすい所のはずですが、いかんせん一度に何匹もそこに放したので、今頃縄張り争いが行われているかもしれません。それとも蜘蛛達は僕らより賢くて、皆で共存できる方法を知っているのでしょうか。また今度そこがどうなっているか覗きに行きたいと思っています。

 それにしても不思議なのは人間の虫達に対する嫌悪感の差。例えばある女の子の場合、ダンゴムシは掌にのせてころころとしながら愛しく遊ばせ、かたつむりは「かわいい」と言ってケースに入れてお世話するくせに、バッタになると「きゃー」と悲鳴を上げて、蜘蛛ともなると一目散に逃げ出します。ダンゴムシがOKならバッタもOKのような気がしますが、どうもどこかに境界線があるようです。まあ感性と言うのはそもそもそういうものなのでしょうが、なんか不思議なものです。しかし『恐い』、『気持ち悪い』は人間の正当な防衛本能。なんにでも見境なく手を出していると毒虫達の被害をこうむってしまうでしょう。桜の木の毛虫、今年色々調べてあれが『モンクロシャチホコ』だと言うことを突き止めたのですが、あれだって触れば一発で被れてしまいます。「毛虫こわい!」と『毛虫退治班?』の僕を呼びに来る彼女達の行動は実に正しいものなのだなと改めて感じるものです。それにしてもダンゴムシが恐くなくてバッタが恐いのはなぜなのでしょうか。そんな話を先生達としていたところ、「バッタは飛んでくるからじゃないですか」の言葉に妙に納得してしまった僕でした。バッタも攻撃しようとして飛んでくる訳ではないけれど無作為に飛び出した先に子どもがいれば、彼女達は「バッタが襲いかかってきた」と感じるのでしょう。僕達でも家の中ではいつくばっているゴキブリに対して『恐い』と感じることはあまりないと思いますが、追い詰められた彼らが飛んでこちらに向かってきた時、なんとも言えない恐怖を感じるものです。大の大人であっても、男であっても。普段は頭の中で「この虫は大丈夫」とか判断して向き合っているのですが、不意に飛び掛ってこられるとそんな計算が一気に吹き飛んで、人間の本来持っている『向ってくるものに対する恐怖心』という感性が目を覚ますのです。大人の知識や理性など、咄嗟の時には子ども同然となってしまうもののようです。
 虫に『いい虫』・『悪い虫』など本来あるはずありません。僕ら人間にとって不都合な虫を『害虫』、逆に彼らの生態が僕らの暮らしにとってプラスになる虫を『益虫』と呼んでいるだけなのですが、これも人の暮らしの知恵というもの。例えば「虫は気持ち悪いから全部退治してしまいましょう」なんて言うことになれば目に付く先から虫をみんな殺して回るでしょう。それによって生態系が崩れ、花や農作物の受粉が出来なくなったり、繁殖力の強い虫達ばかりが生き残りこの国の自然そのものがきっと変わってしまうことを知らないで。一方逆に、「虫も生きている生命、一つも殺してはいけません」などと言うことになれば、虫刺されに始まり農作物や樹木を食い荒らす虫達による経済的被害まで、私達の生活は彼らにほんろうされてしまうことになるでしょう。そのバランスを取るのが『人の知恵』というもの。「虫にもいい虫がいるんだよ」と教え伝えることによって、人間の偏りがちな思想を中和しているのです。人間の『気持ち悪い』と言う防衛本能一色で塗りつぶされそうになる虫への思いを『理念』によって中和する、それによって自然と共存して生きる道を選んできたのが僕ら日本人の祖先です。この緑豊かな国の自然を守り恵みに感謝しながら。そんな想いはこの子達にも伝えていきたいものだと思うのです。それが出来る環境がここにはたくさんあるのだから。

 ある日園庭で遊んでいた子ども達に声を掛けながら歩いていた潤子先生が大笑いしながら僕の方にやって来ました。「あそこで遊んでいる子に『何して遊んでるの?』って聞いたら『貧乏暮らしごっこ』だって」。その子達の所に赴くと、彼らは引き抜いたそこいらの雑草や木の実を器に盛って料理ごっこをして遊んでいました。なるほど彼らのこの遊びは近頃TVで流行りの『サバイバル0円生活』にインスパイアーされたものだとピンときました。芸人が無人島や船の上で『そこで取れたものしか食べてはいけない』と言うルールの元でサバイバルに挑戦する企画。これを彼らは「日土幼稚園でしか出来ない遊び」と言って喜んでやっていました。日土幼稚園ではあちこちに草はぼうぼう生えてるし、園庭には胡桃や柿の実、みかんに椿の種まで色んなものが落ちていて、それを拾い集めて遊びの中に取り入れてもみんなタダ。こんな宝島のような場所はきっと他にないでしょう。そんな遊びの中に楽しみを見つけ喜んでやっている彼らの感性をちょっと誇らしくも思ったものでした。
 近頃の子ども達、社会の中では何をするのにもお金がいることを知っています。大好きなキャラクターのカードゲームをしようとすれば1枚・1回いくらとお金を取られ、リュックサックにつけているキーホルダーもガチャガチャやUFOキャッチャーで何百円もかけて取ってもらったもの。それゆえことある毎に「僕、お金いっぱい持ってるよ!800円!」などと自慢話も飛び出してきます。でも賢い子ともなればその800円がどんなお金であるかも分かってくるお年頃。カードゲーム何回、ガチャガチャ何回分という計算も出来るようになると『供給され続けないお金の儚さ』、つまり「お金は使ってしまえばそれで終り」と言うことに気付き始めるのです。そこから展開される思考は二種類。「もっとお金を稼げばいいじゃないか」と言うものと「お金を使わずにどうしたら豊かになれるか考える」と言うもの。今の国会答弁の『増税と無駄削減』の構図のようで笑ってしまいますけれど。
 勿論、現代の経済活動に基づく社会文明の中で生きている僕らが「お金無しで一生暮らそう」ということなど出来はしません。でも「お金が一番」と言う考えは人の心にもひずみを生み出すもの。それを中和するための『お金を使わずに豊かになれるシミュレーション遊び』と言うものがこの幼児期のこの子達には必要なのです。廃材工作しかり『貧乏暮らしごっこ』しかり。それは大人の手や考えがかかっていなければいない程、子ども達の発想を飛躍させ素敵なものを作り出す土壌となるものなのです。そしてそこには自らのアイディアと努力で『モノ』に付加価値をつけることによって暮らしを豊かにしてきた僕ら日本人のDNAが息づいているのです。

 こんな子ども達を見つめながら深まりつつある秋の日土で過ごしていると、この自然に感謝せずにはいられません。この子達がこんな素敵な心をもっともっと伸ばしてゆけるように、精一杯この自然をお手本に・教材に、子ども達を遊ばせ遊んでやりたいと思う今日この頃です。


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