園庭の石段からみた情景〜園だより10月号より〜 2011.10.27
<『だるまさん』が僕らに教えてくれたこと>
 十月の心地良い風がそよぐ中、子ども達は元気に園庭を走り回っています。特に夏には『お部屋のレゴ小僧』で通していたもも組男子がこの秋の運動会を通して体を動かす事の気持ち良さにやっと気づいたのか、みんなで誘い合って『だるまさんがころんだ』に興じています。こんな子ども達の姿を僕はうれしく見つめています。
 ブロックやパズルなどは脳を活性化する遊びではあるのですが、偏った『脳みその肥大』は子ども達の『バランス』を狂わせるもと。少子化、商品の飽和などの環境の中に生まれ育ってきた現代の子ども達は『誰にも邪魔される事なく一人の世界を楽しみたい』と言う欲求を兎角一人で抱きがちなもの。だからブロック遊びをしていても「誰々が僕のを取った」「誰々が僕のを壊した」とそんないざこざが絶えません。元をただせば幼稚園の遊具、「誰がとった!」と言う申し立ては双方被害者(意識)の『告訴』の様なもので、実はどちらも加害者である場合がほとんどなのです。
 そんな時は状況を見ながら、当事者同士の顔を見つめながら僕らが『大岡裁き』の仲裁に入ります。「このもめごとからこの子達に何を学ばせることが出来るだろう」とそんな心持ちで子ども達の間に立てば、その時の事実関係よりもそれまでの伏線や双方の増長など、この子達を取り巻いているものに目を向け落とし所を探してやろうと言う気になってきます。どんないさかいも『無垢な心・無邪気なエゴ』の摩擦の結果。だからこそ、双方が譲り合い分かり合える状況にこの子達の想いを導いてやるのが僕らの仕事だと思って子ども達の間で今日も熱弁をふるっています。
 同じブロック遊びでも『協力して大作品を作り上げる』とか『他に誰も遊んでいない時に一人でこつこつと作りつづけ、自己満足を超えるようなすばらしい作品を作った』と言うようなことにでもなればブロック遊びも『素敵なカリキュラム』となりうるのですが、『みんな同じ時に同じようなものをそれぞれで作って遊んでいる』と言う状態にある彼らがそうなっていかないところが実に残念です。この延長線上にあるのが現代の小学生の『集団遊び』。ある友人から聞いた話ですが、今時の子ども達は「一緒に遊ぼう!」と誰かの家に集まってもやることと言えば『一部屋に集まって一緒にいながらそれぞれ自分のDSでゲームをすること』なのだとか。聞いた時には笑ってしまいました。「なんじゃそりゃ」。でも当人達は大真面目。そんな話を聞くと今時の子ども達が何ともかわいそうに、そして申し訳なく思えてくるのです。そんな環境しか与えてやれなかったのはきっと僕らなのだから。

 だからこそ幼稚園に来て遊んでいる時には、『だるまさんがころんだ』のような集団遊びで遊んで欲しいのです。DSは一人でも出来ますが『だるま』は仲間がいなければ出来ません、楽しくありません。だから遊びの中で友達の大切さを感じることが出来るのです。大切に感じることが出来たなら、お互いのエゴに関しても譲り合いの余地も生まれてきます。自我を通したい気持ちは大いにあるのだけれど「この大好きなお友達と一緒にもっと遊んでいたい」、その想いが譲り合いの優しさを生み出してくれるような、僕にはそんな気がするのです。
 また自分を客観的に見る目を養うのにも集団遊びはいい遊び。大勢の目が自分を見ているから自分がその場にそぐわないことをした時、ルールやモラルに外れたことをした時、周りから容赦ないブーイングが浴びせられます。適度の干渉は『その場の空気を読む力』を養うためのトレーニング。1対1の時は『エゴのぶつかり合い』の関係ですから、熱くなっているその時はお互いに思うのが「あっちが悪い!」。でもそれが『みんなの中』で仲間達から言われた指摘だと、最初こそ「みんなのばか!」とそこから飛び出してはみるものの、やっぱり一人はやるせない。すると思い浮かんでくるのは『反省の念』。「僕が悪かったのかな?今度は譲ってみようかな」とそんな時はちょっぴり素直にもなれるもの。この子達にとって、それが『社会性の目覚めの第一歩』と言える素敵な成長となるのです。
 そのこの子達の『だるまさんがころんだ』をよくよく眺め見ていると、やっぱりそうした遊びに慣れていない子どものぎこちなさが伝わってきます。こう言う遊びのいわゆる『お約束』、もちろん不文律ではあるものの『暗黙の了解』と言うべきルールや作法が熟成した集団の中では必ず存在するものです。「だるまさんがころんだ」と言ってから振り返り、その瞬間に動いているものだけが「動いた!」と言われるべきものなのですが、彼らの『だるま』は振り返ってじーっと見ていて10秒も経ってから「動いた!」、そんなものじっとしていられるはずもありません。でも言われた方もすごすごとその言葉に従って捕まりに行きます。あんなの昔の僕らだったら「動いてない!」と言い返し『ひともめ』したものです。そんな時には周りの友達がみんなで『ああだこうだ』言いながらジャッジしたもの。そこから集団の共通認識・レベル整合・譲り合える心と自分達のルールを育てて行ったものでした。
 この『自分達のルール』とはこの集団にとってゲームとしての面白さ・難易度・そしてバランスを保つために必要なルール。『すぐに終わってしまわない』『毎回同じ者が鬼にならない』『小さい子から大きな子までみんなが楽しめる』、そのために往々にしてルール改変が行われ特別ルールなども加えられて行ったものです。『おみそ』と言って『小さい子は捕まっても鬼を免除される』などの特別ルールもありました。これは「周りのレベルについて来れない小さい子でも同じ遊びの中に入れて楽しませてあげる」と言う年長者達の美しい配慮の賜物です。そうやって子ども達は自分達のエゴだけでない、周りのみんなが一緒に楽しめるような社会づくりをこれらの『昔遊び』の中で学んできたものです。だから僕らもそんな学びの場をこの子達に提供し、こんな遊びの中で素敵で大切なことを伝えて行きたいと思うのです。


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