園庭の石段からみた情景〜12月の書き下ろし2〜 2011.12.8
<あしたのジョー>
 先週末は木枯らしが吹き荒れ、この『園庭の』で語った矢先に煉瓦蔵の蔦は皆飛ばされてしまいました。でもその数日前に久々に引っ張り出してきた銀塩フィルムカメラでこの蔦の写真が撮れたのは幸運でした。後にも先にも条件がよかったのはその日一日限り。ちょうど晴れた夕暮れ時の暖色系の光線に蔦の葉っぱが赤みを増して、煉瓦蔵の煉瓦色と相まって素敵な写真が撮れた、はず。デジカメと違って現像が上がって来ないと写りが分からない銀塩写真なのでしばしの間のお楽しみです。
 今時「わざわざフィルムで写真を撮らなくとも」と僕も思うのですが、リバーサルフィルムと言うコントラストが高く発色の鮮やかなフィルムと口径の大きなレンズを使ってこそ表現出来るものもあるのです。誰の為に撮っている写真でもありません。趣味の写真は自分のバロメーター。写真を撮りながら「あー、楽な方向へ走っているなぁ」と自分の堕落ぶりを感じたり、「ここはまだこだわっているんだな」と自分のモチベーションを誇らしく思ったり。効率や精度だけでは評価できないその時々の『自分にかける想い』を面と向かって感じるには、アナログ&アナクロニズムのいかにも非効率な趣味の世界が良いのかも知れません。

 今週の『ばら・たん組』はまた面白い人生劇場・人間模様を繰り広げ、僕を笑わせてくれました。入園から8ヶ月を数え、子ども達同士の関わり方にも色んな変化を見せ始めています。ある日、新しい教室教具が入っていた大きなダンボールの空き箱が、「遊んでいいよ」と子ども達のおもちゃとして与えられました。子どもが二人程入れそうな大きなダンボール箱に子ども達は大喜び。しばらくわいわいやりながら楽しげに遊んでいたのですが、恒例の『所有権争い』で二人の男の子が喧嘩を始めました。「あっちでつかうの!」、「こっちであそんでいたんだから!」と初めはダンボールを引っ張りあいの押し問答。そのうち段々と苛立ってきた双方は相手の肩を押したり、短い足で蹴る素振りをしたり、実力行使の争いへと移行してゆきました。僕の目の前で始めた喧嘩で状況も分かっているので「まあ、もうちょっと見ていようかな」としばらくの間事の成り行きを見守っておりました。そのうち片方のパンチが相手の胸に当たりました。いつもならそれだけで泣き出していた男の子に「負けるな!やり返せ!」と声をかければ(悪い先生)、奮起した彼はミッキーロークの『猫パンチ』のようなふにゃふにゃパンチで応戦し始めたのです。パンチはへぼいのですが上背とリーチがある彼のパンチが対戦相手に見事にぽこぽこ当たります。それに驚いた相手の子は「あーん!」と泣き出し組み付いて来たのでそこにレフリーが入り、「はい、そこまで!」と二人の対戦に終止符を打ったのでした。
 いつもなら楽勝に勝てる相手に反撃されてびっくり泣き出した○○君と、今回は一念発起がんばり立ち向かった△△君。二人を呼び寄せて、「ほら、叩いても叩かれても痛いだろ。一緒に仲良く遊んだ方がいいよね」とお説教。そこに集まってきた女の子達が「おたがいさまよ」、「どっちが先に『ごめんね』って言えるの?」と僕のお株をかすめ取り先生役を演じます。如何にも僕を真似て見せている彼女達の『おませぶり』に笑ってしまうと同時に、「あー、僕のお説教はワンパターンなんだな」と自嘲してしまいました。そのせいかなんだか分かりませんが、「○○君、みんなだっていつまでもやられっぱなしじゃないんだよ。本気でやり返せばやられちゃうこともあるんだぜ。もう喧嘩なんてやめようね」と訳の分からぬお説教をしたならば彼の方も「んー」と殊勝な面持ちでうなづいておりました。「で、どっちから『ごめんね』言ってあげられるの?(やっぱりそれかい)」と尋ねれば、泣かせてしまった△△君から「ごめんね」って先に言ってくれました。「うん」と言う○○君に、「○○君は?」と尋ねれば「ごめんね」と素直な言葉がこぼれます。そこで一件落着。二人を抱き寄せ一緒にまとめて抱きしめて「もう喧嘩なんてするんじゃねーぞ」とぐりんぐりんやれば、それで二人の顔に「てへへ」の素敵な笑顔が咲きました。

 喧嘩が発生する前に声をかけ、喧嘩しないようにするのが本当のセオリーなのでしょう。でもそれは『喧嘩=悪いこと=しない』のロジックによりデジタル化することであり、それではその間にあるはずの『なんでしたらいけないか』の部分を感じることが出来ないのです。『叩かれた痛み』『叩いた手の痛み』『やられた悔しさ』『泣き出した相手の顔』『喧嘩した後味の悪さ』、他にも感じるものは一杯あることでしょう。何をどう感じるかは一人一人違います。でも自分で感じることが『学び』であると僕は思うのです。自分で感じるこんな『アナログ情報』こそがこの子達に『これからの自らの生き方』を決めさせるものになるのだと、僕はそう思うのです。
 当事者の△△君、「ぼく、まけなかったね」と自分の奮戦ぶりに高揚している様子。○○君も自分に向かってきた相手を深く認めることが出来たのでしょう。しばらくあのダンボール箱で一緒に仲良く遊んでおりました。その二人の姿に漫画『あしたのジョー』のジョーと力石の間に芽生えた友情のようなものを感じたものです。本気でぶつかりあったからこそ分かり合える相手もあり、相手と認め合えたからこそ分かち合える想いもあるのです。たかがダンボールのひとつやふたつでもめるより、一緒に遊ぶことの方がずっと楽しいと言うことが分かっても来るのです。子ども達の関わり合いはそんなことの繰り返し。そうやって時にはエゴとエゴをぶつけ合いながら、この子達は自分と言うものを磨いてゆくのです。もちろんそこにはルールは必要です。そのためには大人の目がこの子達を見守ってやらなければいけません。アナクロだと思いながらも僕らはそんな想いでいつも子ども達を見つめています。この子達の『あしたのため』の関わり合いと成長をそっとずっと願い続けながら。


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