園庭の石段からみた情景〜園だより1月号より〜 2012.1.21
<アナクロ子育て論>
 毎朝寒い日が続いています。そうは言っても僕なども温かな服を着て暖房をつけた部屋などで過ごしていれば、本当の寒さと言うものを最近は感じることがなくなってきたのかも知れません。今週の火曜日のことです。家の玄関を出て幼稚園に向けて歩き出した時、ふと「何か風景がいつもと違う」と感じ何か不思議な感じを受けました。目を凝らしてよくよく遠景を見てみれば、幼稚園正面のヌタ山と中当の山の折り重なる稜線の向こうに見える頂、『銅ヶ鳴』と言うのだとひげのおじちゃんに教えてもらったのですが、そこだけ一面銀色に輝いていたのです。手前の山々はいつもと変わらぬ緑色なので、そのコントラストが妙にこの目に印象を残して行ったのでしょう。よく見ればそこからもう少し東側にある『おいずしさん』も同じく銀色に染まっています。前日は多少の小雨まじりの一日ではあったのですが雪が降るような天候ではなかったので、まさかこんな雪景色が見られるとは思いませんでした。それだけ日土の北の山は冷え込んだと言うことなのでしょう。その風景によって初めてその晩の冷え込みに気づいた僕でした。
 そう、豊かに整えられた現代生活の中においては、冬の寒さなども自分の体感温度ではなく視覚情報から気づかされることが多くなりました。それも自分の身体は凍えさせることのない素敵な感動まじりの発見ですから贅沢極まりないものです。でもそれを見逃さない感受性は持ち続けたいものです。それは僕らが子ども達を感じる為のインターフェイス。『何かは分からないけど何かが違う』、これを感じることが出来たならばあとはゆっくり時間をかけて検証し、『何かとは何か』をじっくり解いてゆけばいいのだから。その『何か探し』は結構楽しいもの。子ども達の成長であったり、体調不良であったり、口に出せないアピールであったりと、良くも悪くも答え(仮説ではありますが)にたどり着いた時には、「これだ!」とうれしくなってしまいます。「子どものことがわからない」と言う前にじっくりじっくりゆっくりゆっくり、眺め見つめてあげてください。きっと『何か』が見えてくるはずです。

 そんな日常の中、この時期の曇天下の園庭の外遊びが僕等にとって一番寒いシチュエーション。代謝の高い子ども達は「寒さなぞなんのこと?」。薄着で園庭で遊び回っていますが、それにお付き合いするこちらは「寒い寒い」と何重にも重ね着しながらこの寒さに凍えています。今年は男の子達がサッカー対決を挑んでくるような場面があまりなかったので、子ども達の外遊びに付き合っていても僕の身体が温まることがなかなかありませんでした。それが最近になってすみれに加えてやっともも男子がその気になってきて、今年度のサッカー対決が定着しつつあります。去年の子達ほど飛び抜けたサッカーセンスの子はないのですが、この子達の強みはチームワーク。狭いゴール枠幅一杯に4人もの男子が並んで立ちはだかれば、ボールの通る隙間はありません。ただ彼らの反射神経はイマイチのようで、ふわっとボールを浮かせてやれば、そのスローモーションのように頭の横を通ってゆくボールをフリーズした顔でただただ眺めているばかり。もうひとつ鈍い子ともなれば手を出す事もなくよけることも出来ず、そのふわっとボールを顔面で受けて泣きっ面。僕が繰り出すそのボール、地面に止まっているボールをつま先で浮かせているだけなのでそんなに強いシュートではないのですが、年中児にとっていまだかつてない初めての洗礼を見事に顔の真ん中で受けてしまうのでした。僕も「ごめんね」と謝りながら寄り添って涙が止まるまでお付き合い。『わざとではなくても泣かせてしまった時の作法』を子ども達に身をもって教えているような、そんな珍サッカー対決となっています。それが年長ともなると意地も見栄も豊かに育ち、『やせ我慢』しながらじっと涙をこらえるようになってきます。これが一年分の成長と言うものなのでしょう。自分の身をもってボールの痛さを体験し、それによって自分自身は強くなり、人の痛みは感じられるようになる、とやはりこの年頃の男の子達にとってサッカーはきっと色々な事を学ぶ教材として素敵なカリキュラムなのでしょう。ぶつけておいて勝手な言い分、すみません。僕はただ自分の土俵の上で子ども達に投げかけを行っているだけなのかも知れませんが、でもきっとそれでいいのです。子ども達に物事を教えるのに塾やテキストはいりません。一緒に楽しく遊べる間柄と、そこで発生した問題を課題に転換し教材に転用するインスピレーションがあったなら、後は一杯一杯一緒に関わって過ごしてやればいい。そんなものではないでしょうか。

 そう、きっとそれが昔から受け継がれてきた『大人が子どもを育てる』と言う行為、『子育て』と言うものだと僕は思うのです。文明や経済が発展していない国でも、いえ、僕達の住んでいる日本にかつてあったそんな時代にも、僕等の両親や祖父母・曾祖父母達は子ども達を慈しみ精一杯育ててくれました。多分に感情的になってしまい、『星一徹』や『三丁目の夕日の鈴木オート』のお父さんのような破天荒パパもあったでしょう。でも誰も自らの行き先を指し示せないこんな時代では、そんなアナクロなバイタリティーとモチベーションがこの国と子ども達を救ってくれるのではないでしょうか。あこがれはするけれど僕にはなかなかなれそうにないキャラクター。それでも子ども達の前ではそんな大人にそんな先生になりたくって、自分を奮い立たせています。だからきっとお家でも子ども達の口から聞こえてくる僕の姿は『ずっこけ先生』なのではないでしょうか。一方的に正しいことを教え込むのではなく、『何が正しくてどうするべきなのか』『理屈では間違っていなくてもこういう場合にはどうしてあげたらいいのか』、ひとつひとつ一緒に考えながら成長してゆける大人と子どもでありたいと、子ども達を見つめながら僕はそう願っています。


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