園庭の石段からみた情景〜6月の書き下ろし3〜 2011.6.17
<かにさん狂想曲>
 『週末になると大雨』と言うお天気が続いている今日この頃、参観日や日曜学校など準備する側としては苦労も色々あるのですが、「これも皆、自然の恵み」とこの雨模様を楽しむことにしています。この梅雨時の豊かな雨量と夏のまばゆいばかりの日差しがこの国の緑と自然を優しく守り育んできました。『なんでもほどほど』と言うことが出来ないのが人間と言うもの。自分の土地に草が生えていれば一本残らず刈り取ってしまい、山野に雑木が生えていたなら燃料や耕地の為に全てを切り倒してはげ山や田畑に変えてしまい、その後でいつも「やりすぎちゃった」と頭かきかきしても時すでに遅し。こうした人間の愚行は歴史上世界中で行われてきたのですが、乾いた大陸性気候の中国では人間の生産・消費活動の為に『はげ山』となった山が数千年以上経った今でも回復せずに現在に至っているそうです。一方、わが国ではこの恵まれた気候のおかげで山一個を丸坊主にしても100年も経てばすっかりジャングルに戻っていると言うこの事実。僕が帰京した際によく写真を撮りに歩きにゆく鎌倉ではその昔、町を取り囲んでいる山々の尾根が人々の交通路として整備され、そこは馬一頭が通れるほどの道幅が確保されていたと物の本に書かれています。それが生活道として用いられなくなってから長い年月が経ってみれば、今では多少の険しささえ感じさせる木の生い茂る山のこみちとなってそこを訪れる旅人に安らぎを与えてくれているのです。これはこの国の自然の恵みと再生力の大きさを物語っているエピソード。でもでもそんな鎌倉の山道ですが、そこで暮らす人々も決して侮ってはいけません。僕らがスニーカーやクライミングブーツで足元を固めてこの山道を歩いている時に遭遇したサラリーマンらしき御仁はスーツ&革靴でこの険しい道をさっそうと歩いておりました。確かにここは市内を行き来するのに効果的な近道なのですが、現地の鎌倉人、『恐るべし』。ここで暮らす人々は故郷の地の利をよくよく知っていると言うことなのでしょう。僕らはもっと自分の暮らす身の回りのことをよく知り、この土地と共にこの地に寄り添って生きる術を学ぶべきなのかも知れません。

 さあ視線を僕らの身の回りの出来事に戻しましょう。『こんな季節だからこそ』と言うことで今月のひよこクラブのテーマにも上げた『身の回りの生き物を見つめてみよう』を具現化するためにここ数日、暇をみつけては子ども達を引き連れ、ご近所探検に出かけて来ました。この季節、雨上がりの園庭でよく見かけるカニやイモリ・カエル達を探し、幼稚園にお連れするのが大目的。それに伴ってこの子達にも生物を身近に感じて欲しいと願っての『カリキュラム』なのですが、『自然と子ども』と言う僕らの一番思い通りにならないもの達を相手にしての『生物探し探検』なので、そうそう上手くはいきません。雨あがりのこんなに日にはいつもふとした拍子にどこからともなく現れて僕らを喜ばせてくれるこの杜(もり)の住人達ですが、探すとなるとなかなか現れてくれません。日土の山の中、水の湧き出流れる所を探して歩いてみたのですが彼らはとうとう見つかりませんでした。段々と飽きが生じ、モチベーションが下がってくる子達を励ます為に「かにさん、かにさん、おらんかにー?」と韻を踏みながら掛け声をかけかけ歩きます。「いーもりでもいぃんだけど、おらんかにー?」と字余り言葉もラップのように早口に丸め込んで詠ってみればそれに続く子ども達。どうやらこの言葉遊びがお気に召したようです。みんな僕の『かにさん』に呼応して「かにさん、かにさん、おらんかにー?」の御唱和が日土の谷に響き渡った梅雨の午後でした。
 その時は収穫ゼロで終わってしまったのですが、次の日の保育後、今回のひよこクラブの為に是非とも幼稚園に来てもらいたかったカニ・イモリを求めて、下の川まで下りてみました。イモリは保内・城鷹の方までゆけばいっぱい棲んでいる『4Dイモリワンダーランド』を知っているのですが、日土幼稚園で「日土にはこんな生き物達がいるんですよ」と紹介するのに「よそから連れてくるのは反則だよなぁ」と自粛。地元にこだわって『生き物探し』に挑戦してみました。この間の雨で川の水量も多めです。こんな時はなかなか生き物を見つけることができないもの。その上、川にはまったり流されてしまってはマヌケもいいとこと、慎重に慎重に足元を確かめながら川岸を探して歩きました。そんな時、水面近くの岩陰に赤い軌跡が走ります。サワガニです。手前に生える草に邪魔されながらも網で上手にすくい上げると、やっと一匹のカニを取ることができました。そのカニのいた辺りをよくよくみると米粒・豆粒のようなカニもいるではありませんか。その2匹も手のひらですくい上げ、その日は『大・小・極小』の3匹のカニを捕まえて帰ることができました。田舎暮らしを自慢?している僕らがこんな時に『坊主』では格好がつかないのでとりあえずほっとしたものでした。
 その『かにさん』達を連れて凱旋すると『お預かり』で残っていた男の子が興味津々、「これなに?」とバケツを覗き込んできました。「かにだよ」と言いながら飼育ケースにサワガニを移す僕。天井のアクリル窓が無くなってしまったケースでしたがカニなら問題ないだろうとそこに少々の川の水と共に移し替えたのでした。下駄箱の上に置かれた飼育ケースにじーっと食い入る男の子。普段は口数少ない彼が矢継ぎ早に言葉を投げてきます。「これ、あなあいてるよ」、「カニだから大丈夫だよ」、「かにってとばんよなぁ!」、「うん、飛ばないからフタが無くても大丈夫じゃない」。僕らの『かにさんトーク』が続きます。「かにって、きるんよなぁ。ちんせんせいもきられた?」、「カニは背中から捕まえれば挟まれないから大丈夫」、「ふーん」。とやって見せようとしたのですが思うように背中を捕まえることができません。背中の甲羅と足の間に親指と人差し指を入れて挟め込めば捕まえられるはず、だったのですが虫取り・カニ取りに興じていた小学生の頃より指が大きくなったのかそこにぴったりフィットしてくれません。『自然遊び能力』が退化してしまった自分にがっかりしている僕をよそ目に彼はいつまでもカニのケースを除きこみ、その興味はいつまでも尽きることはありませんでした。でもきっとこれがうれしい世代交代・自然遊びの伝承なのです。この想い、彼も後世に引き継いでくれることでしょう。

 次の日のひよこクラブでひよこさん達から脚光を浴び、見事にお仕事・お役目を果たしてくれた『かにさん』をばら組に連れて帰ってきました。子ども達と飼育ケースを覗き込みながら「このかにさん、すみれさんにお世話をお願いしようか」と持ちかけると、「やだ、ばら組でお世話する!」と言い張る子ども達。「だってお世話出来ないでしょ?」と問えば「できる!」と譲らぬ彼ら。「じゃあ、かにさんは何食べるの?」、「・・・」。「でも飼いたいの?」、「うん!」。「お世話出来るの?」、「できる!」。「じゃあ図鑑調べに行こうか」と子ども達を引き連れて図書室に繰り出しました。「カニの載っている本を探して」と僕は背表紙を検索しながらカニの本を探します。「うん!」と言いながらも背表紙など読めるはずもない子ども達、どうするのかと思いきや本を半分引き出して表紙の絵や写真を見ながら「これちがう!」とイッチョマエに検索しているではありませんか。彼らの創意工夫と知的好奇心にちょっとびっくり、そしてうれしくなってしまいました。この子達、自発的に学習しようとしているではありませんか。『カニのお世話の仕方が分からないので本で調べるんだ!』、この行為ってまさしく勉強・学習に他なりません。
 この方法でカニに関する書籍を3〜4冊選び出し、僕らはケースの前に戻って来ました。まずはこのかにさんの特定から始めます。「このかにかなぁ?」、わざと海ガニのページを開いて毛ガニなんかを指差してみせます。「これよ、これ!」、感動屋さんの女の子が声高らかに賛同します。「もうちょっと調べてみて」と図鑑を彼女達に渡すと僕は別の本で飼育方法を探し始めます。『飼育ケースの中に砂を入れて丘も作ります』、『食べ物は魚の肉』等と言う記事に「結構大変だな」と独り言。餌は鰹節か煮干しをやるつもりだったのですが本にはそう書いていませんでした。どうしたものかと考えあぐねている所にある女の子が図鑑を持ってやってきました。「このかによ」と彼女が指差す先を見れば確かに『サワガニ』と書いてあります。「すごーい!大正解!どうして分かったの?」と声を掛ければ嬉しそうに笑って図鑑を見つめ返す女の子。普段は物静かな彼女が少し興奮気味に「これ!」と確定してきた種別判定。さっきみんなで図鑑を持って行ってからずっと、全ページをめくりながらこのカニを探し突き止めたのです。他の子はとっくに飽きて別の遊びに行ってしまった後も一人で探していたのでしょう。慎重派の彼女は一つ一つ、図鑑のカニの特徴を見比べながら正解を導き出したのでしょう。赤いだけのカニならいくらでもいます。でも足の刺や体型など細かく見比べながらこの正解にたどり着いた彼女の努力と根気、これには本当に驚かされたものでした。
 一方、あだあだ男子は図鑑を巡ってひともんちゃく。図鑑の取り合いで泣いて騒いでおおわらわしていましたが、でも飼育ケースの中のカニに興味を示しての騒動なので動機に関してはこの子達にも合格点をあげたいと思うのです。争っている双方の話を聞きながら「それでもけんかしたんじゃダメだよね」と反省を促しその場を収めた後、みんなでかにさんに鰹節をやってみました。「鰹節、食べた?」、「たべてない!」、「たべたよ、くちうごいてたよ」。こんなにやいのやいのやっているところでかにさんが食べてくれるはずも無いのですが、僕らはかにさんをいつまでもいつまでも観察し見つめていたものでした。

 お帰りの時間、みんなでサワガニの生態の本を読みました。その上でクラスに対して投げかけます。「このかにさん、ばら組でお世話したいって言う子がいるんだけど、みんなどうする?できる?」、「できる!」、「できん!」が入り乱れます。一番大きな声の「できん!」は潤子先生。「子ども達がやる気になっているのにこの人は・・・」と思いながら、「潤子先生が『できん!』って言ってるから無理よなあ」と言えば「できる!できる!」と子ども達。「ケースをガタガタしたりしたらいけんのよ」、「やさしくしないといかんよなあ」とイッチョマエにディベートしている子ども達。「お世話できる?鰹節あげたりイリコあげたり・・・」と言いかけて『イリコ』なんて言うとパン給食の時のイリコを入れる輩が出てくると「イリコは先生があげるから」と即訂正。日常の中に教材を求める時、想定しなければならない範囲とはどれだけ広いことでしょう。でも日常の中にあるものだからこそ『頭でっかちのお勉強』ではなく生きた教材となりうるのです。「この小っちゃい小っちゃいカニの赤ちゃんが、こっちの大きなお兄ちゃんお姉ちゃんカニになるまでちゃんとお世話出来ますか?」、「できる!」。「じゃあこの赤ちゃんカニがお兄ちゃんお姉ちゃんになるのと、君達がお兄ちゃんお姉ちゃんになるのと、どっちが早いか競争だぁ!このかにちゃんより先にしっかりお兄ちゃんお姉ちゃんになれる人?、」「はーい!」。かにさんフィーバーとこの子達の『お兄ちゃん・お姉ちゃん願望』がうまいこと溶けあって、僕らのキャッチボールはこんな所に落とし所を見つけて着地成功と相成りました。これも生きた教材君達のおかげです。この日のお帰りのお祈りはいつになくしーんと静かに出来た子ども達でした。この子達のこういうノリ、真面目さ、一生懸命な所、向上心、みんな大好きです。さあさあ、このかにさん達と子ども達、どうなることでしょう。心も身体も一緒に大きく育って行って欲しいと願っています。「きっとこの子達にはそれが出来るはず」、僕はそう信じています。


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