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<王蟲(オウム)の心> 今年の六月は暑すぎもせず、寒くもなく、比較的過ごしやすい初夏の入りとなっています。しかし虫達にとってこんな気候はまだ肌寒いのか、子ども達が喜んで追いかける蝶やバッタはまだまだ旬には程遠い状況。たまに頭上を飛び去ってゆくモンシロチョウを恨めしそうに見上げている子ども達です。梅雨時と言うことでじめじめ度いっぱいの花壇ではダンゴムシが栄え、この世の栄華を独り占めにしている状態なのですが、しかし『いっぱいいる』と言うことは『一杯取られてしまう』と言うこと。手加減の『て』の字も持ち合わせていない子ども達にかかればどんなに沢山ダンゴムシが居ても一網打尽に捕獲されてしまいます。花壇の脇に座り込んだ子ども達がその横に携えている二輪車台車を覗いてみれば、その中には40も50もざわざわうごめくダンゴムシ。その図は壮観なものです。でも子ども達の感性に「もうこれぐらいでいいか」などと言うリミッターはありません。「おかたづけ!」の声が掛かるまで延々とダンゴムシを取り続けるのです。お片づけとなって最初は逃すことを固く拒んでいた子ども達でしたが、園のダンゴムシは逃してもまた取れることを日常の経験から学習しました。今では『取ったら逃す』と言うレクリエーションが遊んでくれるダンゴムシ君とのお約束となりつつあります。 ある日、さっきまでダンゴムシで遊んでいた男の子がバケツに水を入れて園庭を行ったり来たり忙しそうにやっている姿に目がとまりました。「あれ、今日はもう飽きちゃったのかな?」と思いつつその横を通りかかったところで「おかたづけ!」の声がかかりました。そこでその子の遊んでいた台車に張られた水を一緒にその場にざっと捨てたのですが、後からなにかころころと転がり落ちてきました。そのころころをよくよく見ればそれはころころ丸まったダンゴムシ。「ダンゴムシの中に水入れたの?」と問いただすとばつの悪そうな顔で頷く男の子。「だめだよ、ダンゴムシ死んじゃうじゃない」と言いながらダンゴムシに目をやれば、彼らは再びもぞもぞと動き出していることころでした。運のよかったダンゴムシ君、大事には至らなかったようです。その子にダンゴムシにも大切な命があり、「それはみんなと一緒で一つしかないんだよ」と言葉で伝えたのですが、わかったようなわからないようないまいちピンと来ない表情をしていた男の子でした。 『いっぱいいれば全部取りたくなる』と言うのが人間の本能です。それも食べる訳でもないものを『遊びで狩る』と言うのは人間の特異な感性なのです。人間以外でも例外はありますが、『お腹が満たされている時には狼と小羊が共に草を喰む』なんて例えがあるほど、基本的には生物は生きるために獲物を取るものなのです。それが神様の造られたこの世界でのお約束。有史以来、これまで何万種もの生物が誕生しては滅んできたのですが、その大多数は人間の手や文明の為に滅んで行ったもの達です。変わりゆく環境に順応できず自然に淘汰されて滅びゆく定めにあった種もありましたが、僕らの『全部!』によって滅んだ生き物達も数多くありました。自然界の変化は何万年にも渡って緩やかに行われ、その間に順応する術を身につけたもの、種族を枝分かれさせることで多様性を生みだしてどれか一つでも生き残ってくれるようにと分化を重ねて行ったもの、などと彼らに生き残るチャンスをちゃんと残しておいてくれたのです。しかし人間の文明の発展速度ときたら十八世紀のイギリスで起こった産業革命を皮切りにわずかこの数百年のうちに指数関数のグラフを描くようにどこまでも高まり続けてきました。当初その発展を支えるエネルギー源となる油を取るために、今では「捕鯨反対!」などと声高に叫んでいるアメリカによって鯨が乱獲された時代がありました。それも油だけ取ったら後の肉塊は食べもせず捨てていたのです。また日本でもその羽毛を取るためにアホウドリが乱獲され絶滅寸前まで行ったそうです。一つの羽毛布団を作るのに必要なアホウドリの数が200羽とか。現代で考えればこんな生産性のなさそうなことが「大丈夫、いっぱいいるから」と平気で行われていたこの狂気、そして自分もそのDNAを持ち合わせた人間であることの恐怖。なにかタガが一つ外れれば僕だってきっと同じ事をするのでしょう。だからこそ僕らはこの本能に制御をかけなければこの地球そのものを滅ぼしてしまのではないかと、ついつい恐れを抱いてしまうのです。僕自身、小学生の頃に戯れに殺した虫の数を思い出せば、自責の念から逃れることは一生出来ないと思っています。人間は過ちを犯したと言う実体験と反省に基づいて初めて、真理に気づくことの出来る生き物なのかも知れません。でも一人一人がそのことに気づくために愚かな実体験を繰り替えしていたならば、それはやはり自然が消費消耗されてゆくだけの愚行となってしまうのではないでしょうか。と言うことで、この『ダンゴムシ事件』をきっかけにこのことを子ども達に伝える為に何かいい教材はないものかと探してみたのですが、昔から扱ってみたかった『あれ』をとうとう持ち出すことにしたのでした。 その『あれ』こそが宮崎駿の『風の谷のナウシカ』です。あの冒頭の王蟲が暴走するシーン。あれこそ『怒ったダンゴムシ』の象徴です。あの男の子がバスの2便となった時、『お残りビデオ』にそっとナウシカのDVDを差し込んでおきました。2便到着までのわずかな時間ですが、あの王蟲のシーンは時間内に見れるはず。バス1便の添乗で車に乗っていた僕にはその子がどんな顔をしてあのDVDを見てたかは分からなかったのですが、バス2便の順番となって子ども達が乗り込んで来た時、何気ない顔して聞いてみました。「DVD怖かった?」、「怖くない!」「見たことあるもん!」、口々に述べる子ども達。そんな言葉に混じってあの男の子の声が聞こえてきました。「めがな、まっかになっておこっとったんよ」、感激屋の男の子なのですがいつに増して興奮してる様子。「おっかけてきただけど、めがあおくなってかえってったんよ」、「そうやろ、ダンゴムシだって怒ったら追いかけてくるんよ。でも優しくしてあげたら優しくなって帰ってったろう。ダンゴムシにも優しくしてあげようなあ」、「うん!」。他にも沢山子どもがいたのですが、一番響いて欲しい子の心に一番確かに響いてくれたようです。宮崎駿と王蟲、さすがいい仕事をしてくれました。 次の日のバスの中、「ダンゴムシが夢の中に出て来たんよ」と話す男の子の言葉にちょっとお灸が効きすぎたかなかと思ったのですが、決して怖かったと言う感じでないところにほっとしたものでした。「また見たい!」と言う男の子、すっかり王蟲の虜となったようです。でもそんな彼の様子から『怖いからいじめない』ではなく王蟲、いえダンゴムシの人格を認めることが出来たからこそこの想いが生まれてきたと言うことが伝わってきて、なんか嬉しくなってしまいました。大人が言葉で言うよりも子どもの心に伝わるものってあるものです。いや、言葉という論理記号でないからこそ、子ども心に感じられるものがあるのです。ナウシカのテーマは『自然との共存』。もう30年近くも昔の映画ですが、今の僕ら、そして開発と自然の狭間で自然の恵みを一杯に受けながら暮らし、この豊かな自然を教材に子ども達を育てようとしている我々日土幼稚園に対する問題提起のような気がしています。この文明社会の中にありながらその利便性や物質的な豊かさに対して『やせ我慢』と言うリミッターを設けることに明確な根拠はないのかも知れません。でも僕らの本能は無尽蔵な消費がやがて自分の判断を狂わせ、自然や自分自身をも消費し尽してしまうことを心のどこかに感じ取っているのです。だから『自然回帰』をテーマにしたこんな映画などを見ると「そうだよね」とどこかでほっとしてしまうのでしょう。そして「それではダメだ、この事を子ども達に伝えなくっちゃ」と思うのも僕らの本能なのです。僕らのDNAがそのタガを失ったとき、我慢強く耐え忍んできた自然は僕らの愚行に怒りの声を上げ、その時僕らは自然から淘汰される存在となるのかも知れません。 ナウシカの話題で盛り上がったので、ここでこれをテキストにもう少しお話してみましょう。『風の谷のナウシカ』は宮崎駿が自分の会社・スタジオジブリで製作した最初の長編アニメ作です。原作はアニメージュと言う雑誌に連載された同名の漫画で彼自身が原作者でした。映画が公開された後も休みや休みを繰り返しながら十数年かけて連載が行われ完結しています。だから映画を製作している時はこの物語がどう終わりを迎えるのか誰にも分かりませんでした。映画はハッピーエンドで終わっていますが、本当は何も終わっていないのです。『腐海の謎』『風の谷の行く末』『人類の運命』など映画では何も説明されておりません。でもこれが宮崎映画のスタイルなのです。映画という製作するにも上映するにも時間の限られたメディアで全てを語るつもりは彼には毛頭ありません。彼はただ『世界観』を一本の映画の中に示し、そこから僕らに対して何かを感じ行動して欲しいと願いながら、ひとつずつ映画を作ってはまた次のテーマを求めての暗中模索を続けているのです。 あるお母さんが「うちの子はトトロが大好きで百回見ました」と言った時、彼は「いけません、年に一回位にしてください」と答えたそうです。彼の願いはトトロを見た子ども達が森や林に飛び出して遊んでくれることで、ビデオにかじりついてバーチャルの世界に棲み付いてしまうことなど彼の想いと正反対のことだったのです。僕も彼の想いに共感を受けて保育を行っている一人です。幼稚園もこの映画のように『全てを教え込む場所』となってはいけないのです。マニュアル通りのプログラムをインストールして「うまく動くようになった!」、それが教育ではないはず。子ども達の心にいっぱいいっぱい種を撒いて、どこから芽が出るかはその子次第。自分の想いから生まれてきた芽は太く強く伸びてゆくでしょう。そしてそこから太く育った幹が自分を支えてくれるものとなるのです。ナウシカを愛した子どもが虫や森を愛するようになり、トトロに感銘した子が野菜畑の中に立つおばあちゃんのお家での夏休みを心待ちにし、ぽにょで大喜びした子が海辺で遊びながら「この海がいつまでもきれいでありますように」と祈る、それこそが僕らがこの子達に伝えていきたい想いなのではないでしょうか。この幼稚園でもダンゴムシを始めとして色んな生き物達が、畑の野菜や野の花が、そしていつもそばにいて手をかけお世話してくれるヒゲのおじちゃんやカレーのおばちゃん達が、今日も子ども達の心に小さな小さな種を落としています。この種からどんな木が育ち、花が咲くことでしょう。ダンゴムシと一緒にされてはカレーのおばちゃんも気を悪くされるかもしれませんが、所詮僕らはそんなもの。どれだけ子ども達の心の中に棲みつくことができるか、どれだけ一杯の種を落としてやることができるか、それが僕ら保育者・そして大人の腕の見せ所なのです。(※後日確認したところ『風の谷のナウシカ』はトップクラフトと言う会社で製作された作品で、スタジオジブリ作品となったのは次作の『天空の城ラピュタ』からでした) さあ、これからもうすぐ夏本番。子ども達も園での新しい生活に慣れ、絶好調な頃となって来ました。心の畑はほくほくに耕され、種が飛んで来るのを待っています。これから飛んでくる未知なる挑戦の種は、この子達の心に芽を出すことができるでしょうか。『プール遊び』に『お泊まり保育』、『夏休みにはおばあちゃんちに一人でお泊まり』などなど、さあさあどうなることでしょう。それらの冒険に子ども達が挑む前に僕らがしてあげられること、それは『その気にさせてあげる』こと。ノリのいいこの子達ですからちょっと心をくすぐってあげれば、きっときっとその気になって大成功を収めてくれることでしょう。 |