園庭の石段からみた情景〜園だより9月号より〜 2011.9.18
<敬老の日、おじいちゃんに敬意を表して>
 今年はやはり季節の足並みが一歩ずつ早足で進んでいるのでしょうか。例年ならまだ残暑厳しい9月の中頃だと言うのに、敬老参観日当日は秋雨模様の雨模様となってしまいました。そのために外で予定していたシャボン玉遊びは中止となりホールでのコマ作り・折り紙遊びに振り替えられたのですが、意外とその人気が高く子ども達もおばあちゃんお母さんとコマ作りに熱中しておりました。見本に数個、ギザギザカットやなみなみ模様のコマを作って置いておいたのですが、それに反応したのは子ども達。自分のおばあちゃんに「こんなの」や「もっとこんな風になっているの」とリクエストするものだから、おばあちゃん達は手数の混んだコマを作らされる羽目になってしまいました。でも「こういう風に作ってください」などと説明や手ほどきをした訳ではなかったのに、材料と見本が置いてあればそれに触発されてイメージを膨らませることの出来る子どもとおばあちゃん達を見ながら「こういう単純遊びも捨てたものじゃないな」と改めて思ったものでした。今の遊びは皆、プロの演出家によって事細かいルールが決められて遊びの自由度がほとんどありません。でも昔遊びは遊ぶ者のイマジネーションがあればどこまでもどこまでも膨らんでゆくもの。『やらされている』ではない、『自分達の想いを膨らませながら、それにかけて一生懸命考え頑張ることが出来る』ことこそ、今の時代では過去のものとなってしまった遊びと言うものの中にある豊かさだったのではないでしょうか。

 現代の遊びや文明、子ども達にしても僕らにしても『やらされている』自覚はきっとないでしょう。でもよくよく考えてみてください。コンピューターでも電子ゲームでも、あらかじめプログラムされた以上の答えは返ってこないのです。その範疇からはみ出せば『エラー警告』、つまり「お前が悪い」と宣告されてしまいます。でもそれにめげないのが自分達でこの国を作ってきたおじいちゃん世代。パソコンをいじっていても思ったように動いてくれないと「この機械おかしい!」と真顔の大憤慨で言ってきます。客観的にみれば完全な誤操作なのですが、自分達の作ってきた文明は『やりようによってはなんでも出来る世の中』。出来なければ徹夜してでもやり遂げ、断られれば何度でも説得を試みてその熱意で相手の想いを変える、そんなバイタリティーにあふれたこの国の高度経済成長を支えてきた世代から見てみれば、「機械の分際で言うことをきかぬとは言語道断」なのでしょう。もちろん戦後のゼロから始まった『伸び代』があったことが大きな要因であったことには間違いありません。敗戦によって今までのルールが御破算となり全てをゼロからやり直さなければならなかった苦労はあったものの、そこに自分達の『こうしたいと言う想い』を一杯に込めることも出来たのです。その点、生まれた時から物質的な豊かさを与えられながらも先人の敷いたレールの上を走らなければいけない宿命を定められた現代の子ども達は与えられた社会や規範からはみ出すことを許されず、その範囲の中で欲求を満足しなければいけない生き方を強いられているのかも知れません。なんて言いながらもそんな呪縛を自分達に課しているのはきっと僕ら自身なのでしょう。でもそれはただの思い込み。いつの時代も世の中は常に新しいアイディアとそれを実現する情熱を求めているものなのです。

 東日本大震災から半年が経ちました。今この災害を振り返ってみると、僕らの生活している現代社会の脆弱さが痛いほどに感じられます。電気と言うインフラの供給が滞ることによりあらゆることが停滞し大きな混乱や事故をも引き起こしました。このように電気がなければこの世の中が回ってゆかないのはもう自明の事。でも電気がなくても僕ら人間は動くことが出来、こんな時こそ僕らの働きによって失われた機能を代替・復活させることが求められるのです。「電気がないから、ちゃんとした物がないからなんにもできない」といじけてしまうのではなく、今あるものを材料とし自分のインスピレーションを設計図として新しいものを生み出そうとする想いを自分の中にしっかり宿していれば、僕らはまた先に歩いてゆくことができるはず。そのお手本となるのが僕らのおじいちゃんおばあちゃん達だと思うのです。
 『欲しいものやルールは自分達で作るもの』、その原点は昔遊びの中にあります。昔の子どもは小刀ひとつ持ち歩き、竹とんぼやパチンコを始めとして色んな遊び道具を自分で自作したそうです。またメンコやおはじき・ゴム跳びなど物を必要とする遊びにしても、ルールの本筋はあるものの細則については自分達で編み出して遊んでいました。だからその地方毎に見事に特色が異なり、遊び歌もみんなどこかしら節が違います。それはそれぞれの住む共同体の持つ環境・状況・モラルを基に、自分達にとって必要なものを自分達で生み出し作り出してきた結果だからです。そしてこの昔遊びの中には常に『作る・考える・折り合う』要素が含まれていました。これらの遊びは大人から与えられたものではなく、自分達で作り出してきたものたち。みんなで遊びを分かち合い、知恵を出し合い、自分達にとっての公平さや楽しさを保持するためにそれぞれに練り上げられてきたものだったのです。そしてそれが子ども達の創作力・想像力・社会性を育んできたのです。『遊びは学び』なのです。

 今の時代、子ども達や僕らに必要なのはおじいちゃん達が育んできた『遊び心』なのかも知れません。だからおじいちゃん、一杯お孫さん達と昔遊びで遊んであげてください。頭でっかちの現代っ子達の心をもう一回り太く太く育てるために。物でご機嫌を取るのでなく、『学ぶ遊び』を教え伝えて欲しいのです。それが有事の中でもたくましく生きようとする子ども達の心を育むことになるのだと信じています。


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