園庭の石段からみた情景〜園だより2月号より〜 2013.2.21
<道化師のソネット>
 今年は菜の花もなかなか咲きそろわず、梅の花も日向の日当たりのよいところで咲きどまり。立春を過ぎたと言うのにそこからこの冬の『寒の強さ』を感じ過ごした2月となりました。節分を終えて、「さあ、節分の次の日はもう立春、春が来るんだよ」と例年の名調子で『春の訪れ』『新たな季節への旅立ち』『新たな自分への挑戦』を謳って聞かせたのですが、その後にやってきたこの冬一番の寒気に「春は一体、どこへどこへ行ったやら?」。子ども達には未来への希望を語り聞かせておきながら自分はと言えば、冷たい風に背中を丸めながら「いつになったら春の陽射しがこの身を暖めてくれるのだろう」と切なく思ったりもしたものでした。季節の歩みなどその場所その場所・その年どしで毎回違って当たり前、この日土の田舎でそのことを学びそして重々承知しながらここまで歩いて来たはずなのに。人の心とは何とも弱く儚く頼りないものです。
 ここでの暮らしを重ねて来た中で『自分は能天気で牧歌的な人間』であることを自負してきた僕でしたが、実は神経質でプレッシャーに弱いただの弱虫であったことを思い出してしまいました。暖かな陽射しの中ではお調子にも乗れるけれど、ひとたび空風の中に身をさらしたならこんなにもいじけてしまうなんて。幼稚園の子ども達と変わらぬ自分を嘲笑してしまいました。でも自分の中には何も頼るものがない程打ちひしがれた時、こんな時こそ『神様に祈り、御心に依り頼む』ように生きられればよいと言うこともクリスチャンである僕は教会生活の中で学んで来たはずでした。そう、『季節や子ども達の成長』がカレンダーやプログラム通りに進まないことも『御心』です。その自分の思うような結果が得られない所に隠された神様からのメッセージを探し求め、その御言葉と共に自らの歩みを省み驕りをあぶり出し、ただただ神様に祈ることによって自分の次に踏み出すべき一歩を見出すこと、それが必要な季節もあるのです。しかしそれは大きな自己否定、自らの生き方を信じその結果に手ごたえを感じている者にとっては受け入れがたい事実。でもただただ神様に祈っているうちに見えてくる自分の姿もあるのです。それまで順調に運んでいると思っていた季節の中に潜んでいたほころびや、僕らが感じてあげることの出来なかった一つ一つの小さな想いに気がついたその時に、自分の自己顕示欲の崩壊よりもはるかに大きくはるかに深い多くの『傷』があることを神様は教えてくれたのです。今はただその傷が早く癒されるように、皆がやさしい春の陽射しに包まれますようお祈りしています。

 そんな寒々とした季節の中でしたが、子ども達は元気に園庭を走り回って遊んでいました。忙しい発表会シーズンの中にあって、僕がバスの添乗や昼食を終え「えいや!」と外に飛び出せば、それを目聡く見つけて園庭に飛び出してくる子ども達。飛び出したはいいものの、外の寒さにおののいている僕なぞほったらかして仲間を募り自分達の遊びを始めます。「増やし鬼する人!」誰かが提案した鬼ごっこにすみれからももからばらさんまで「はい!はい!はい!」。たちまち10人以上の参加者が集い、鬼ごっこが始まりました。ついこの間まで「遊んで!」「○○しよう!」と僕の周りに群がって来ていたこの子達が、大人なしで自分達の自治の上に遊びを立ち上げ上手に遊んでいる姿を見ていると、なんかなんか嬉しいやら淋しいやら。ますます自分の存在を小さく感じ、背中を丸めてしまいました。
 これは本来なら大いに喜ぶべき子ども達の成長であることは分かっているのです。でも彼らが独り歩きを始めたなら、つい距離を置いて遠くからそーっと見守るポジションに自分を置きに行ってしまう僕。走り回る彼らが怪我などしないように、置きっぱなしにされた三輪車を片付けたり、「ぶつからないように気をつけて!」と遠くから声掛けしてみたり。「10年前の僕だったら、この子達と一緒に走り回っていただろうな」なんて昔の自分を懐かしく省みながら、元気に走り回る子ども達の姿を見つめておりました。そんな僕に「先生もやろう!」と声を掛けてきた女の子がありました。「えー?」と言いながらも『かわい子ちゃん』に弱い僕。その気になって手つなぎ鬼に参加することになりました。『その気』になればまだまだ身体も動くものです。アイススケートのバックステップ&ターンのようにスンデの所で鬼をかわして片足でくるっと回ったり、園庭の『テントウムシ』に駆け上がりジャンプ!で鬼のタッチから逃れたり。『昔取った杵柄』で鬼ごっこにおけるハイパフォーマンスを披露すれば、子ども達から「すげー」と感嘆の声。すぐに調子に乗ってしまう僕と、そんな僕の技をすぐさま真似し体得しようとする子ども達。繰り返し『テントウムシ』に向かってジャンプする子ども達を見ながら「こうやってワンツーってステップするんだ!」なんて偉そうに教えている自分に、「さっきまでいじけていた自分はどこへ行った」とまたまた自嘲してしまったのでありました。

 そう、十数年前、初めてここで子ども達と遊び出したあの時も、きっかけはある男の子の「いっしょにあそぼ!」の一言でした。それまで子どもと遊んだことなどなかった僕が子ども達の輪の中に飛び込んで、子どもになって遊べるようになったのはあの時の彼の言葉のおかげ。その彼ももう高校一年生になっているはずなのですが。そう、僕はいつも子ども達にそしてそこへと導いて下さる神様に救われているのです。いつも一緒に遊ぶ子ども達の笑顔に救われ、でもその笑顔の為に彼らの『傷』に気づいてあげられなかった僕。しかしこの子達の笑顔が彼ら自身を救うことが出来るのなら、彼らの傷を癒してくれるなら、これからも一緒に一杯笑ってあげたいと思うのです。「笑ってよ君のために、笑ってよ僕のために」と歌いながら。


戻る