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<成長のものさし> 寒い寒いと思いながら過ごして来たこの冬でしたが、暦ははや3月。天気予報の最高気温を見てみたら、それまでとなんら変わりない7度8度の日々なのですが、体感としては確実に暖かさを感じるようになった気がする今日この頃です。それはなぜかと考えたなら、やはり『春のいぶき』のせいでしょう。晴れた日に降りそそぐ春の陽射しはやはり心にも温かく、陽の光を受けて飽和気味に黄色く輝く菜の花はまばゆいばかりに心を照らしてくれます。辺り一面に花をつけ出したオオイヌノフグリの小さな花の青いお花畑に僕らの心は躍り、陽だまりの中に白く映える梅の花を渡りながら飛びまわるメジロの声と緑がみんなの待ちに待った春の到来を告げているかのよう。そう、この日土の谷にもやっと遅い春がやって来たのです。 春の音楽発表会をみんなで何とかやり遂げて、残された今年度の園生活をゆったりまったり過ごしている子ども達。やはりこんなまったりしている時にこそ、何の変哲もない日常の中から人は何かを感じ何か新しいものを見つけ出すもののようです。ある日カマキリの卵を幼稚園に持って来た子どもがありました。飼育ケースに入れられたカマキリの卵をしきりに気にし、あちこちに持って連れ歩く男の子。あれは幼少男児に共通してみられる行動のようです。彼らを見ていたならば、カニを捕まえてはケースに入れて持ち歩き、ダンゴ虫を集めてはケースごとあっちにこっちに連れまわす性癖がある様子。歳を重ねるごとに『卵が孵化するためには静かな環境が必要だ』とか『大事なものこそ大切にしまっておくべきだ』などと言う経験則やセオリーがそのような行動から彼らを解き放つようになってゆくのですが、まだまだそれは先の事なのかも知れません。その子がカマキリの卵をしげしげ見つめながら、「ここからどんなカマキリが生れて来るんだろう」とつぶやく声にまたアンテナを立ててしまった僕。「図書室にカマキリの本があるから調べてみれば」と投げ返したのですが、「数は?大きさは?」と彼は矢継ぎ早に質問を投じてきます。図書室の『自然観察ブック』の中に卵から孵化して来たカマキリの写真があったのを覚えていたので、「あの本を見れば全部分かるよ。そしてこれだ、シャキーン!」といつも腰につけているウエストポーチのポケットから取り出したのはこの暮れに購入した無印良品の小型メジャー。「これで図鑑の卵とカマキリの大きさを測るだろ。それからこの本物の卵の大きさを測る。これを方程式に入れて計算すれば出てくるカマキリの大きさが分かるって訳さ」と小学生でも低学年では理解できないような理屈を広げて見せたのですが、なんとこの理論にその子は果敢にも食いついて来たのでした。図書室に走るとカマキリの本を探し出し、小脇に抱えて僕のところにやってきて、「メジャー貸してください」。「え?本当にやるの?」と聞き返した僕でしたが、真剣な面持ちで僕を見つめる彼のまなざしに、「やってみるか!」と測定・計算を始めたのでした。(写真の卵):(写真のカマキリ)=(本物の卵):(本物のカマキリ)と言う数式を立てまして、それぞれの大きさをメジャーで測定。ここで分からない(本物のカマキリ)をXと置いて既知の数字を入れてゆけばX=6mm。見事に孵化してくるカマキリの予測値が計算出来ました。その回答に満足げにうなづいていた男の子、その計算式を書き連ねたメモを大事そうに持って帰ってゆきました。きっと計算自体はなんの事か分かりもしないでしょうが、こうして『メジャーとスケールのデーターが有れば、欲しいものの値が計算出来る』と言う事をこの幼い季節に学んだのです。この感動が彼の心に残りつづけたなら『末は博士かエンジニア?』そっち方面の第一人者に育ってくれるかもしれません。昔の事をよくよく覚えていて、一年も経った頃に「あの時はああやったよなぁ」なんてつぶやいて見せる彼の事だけに、「なんとも楽しみな種が撒かれたものだ」とうれしい想いでその子の真面目な顔を繁々と見つめていたものでした。 でも『成長のものさし』はみんなそれぞれ一本一本子どもによって違う物。こんな等比計算式なんか当てはまるはずもありません。「お兄ちゃんがこの頃にはこんなことが出来たから」とか「お隣の○○ちゃんが出来たんだからうちの子だって」、それってやっぱり違うでしょう。でも僕ら大人は同じものさしを子ども達にあてて一喜一憂してしまうもの。本当は「それって違うんだよ」ってみんな知っているはずなのに。では『成長のものさし』とは何のためにあるのでしょう。それはこの子達一人一人に与えられた成長を見逃さないように、神様への感謝を忘れないようにするために、きっと僕らに与えられた『隠しメジャー』なのではないでしょうか。いつもその子の面影を心に置いて、ただただ昨日と比べ、三月前・半年前そして去年と比べて、その子自身の時間変化に伴う成長を計るためにあるものなのです。子ども達は常に劇的な成長をしている訳ではありません。ある時にはちっとも成長が感じられず「この子はちゃんと成長しているのかしら」と思うような時期もきっときっとあることでしょう。でもそんな時にも一年前のあの姿を思い出してみたならば、どれだけ大きくなってくれたことかと言うことが分かるはず。彼らが出来ない事には毎回「出来ない出来ない!」と小言を言うのに、出来たことには「すごい、できたね!」の最初の一回きりではありませんか?子ども達は毎回言ってきます、「先生、見て見て!」「お母さん、見て!出来たよ!」。でも僕らはその想いにきちんと応えてあげられているでしょうか。うーん、自己反省。僕らがその想いにちゃんと応え、「いつも見ていてくれる」と子ども達から信じてもらえたなら、きっとこの子達は自分の足で更に上に一歩一歩あるいて行ってくれることでしょう。神様に見守られていると言う安心感から、「一生懸命生きよう!」と歩き続ける僕らのように。 |