園庭の石段からみた情景〜園だより5月号より〜 2012.5.14
<僕らの面白成長狂想曲>
 連休も明ける頃になると今年の幼稚園も初夏の装いを感じさせ始め、太陽に熱せられた石段の隙間からトカゲがちょろちょろ出たり入ったりとそんな姿を見せてくれる様になりました。やはり自然のものは正直。人肌でまだ肌寒いかなと思うような陽気では顔も出しはしないのに、こうして暖かくなればトカゲを始めサワガニにオケラ、お母さんや先生達には『招かれざる客』のシマヘビまで、久しく顔を見せなかった日土の住人達があちこちで元気な姿を見せては僕らを喜び驚かせてくれています。連休明けの子ども達もそう。毎年『危ない時期』の連休明け、ばらさん達の五月病を心配もしたものでしたが、今年はそれ以前に十分大騒ぎして来たかいあってか(?)拍子抜けするほど落ち着いた再スタートとなりました。この子達も幼稚園の陽射しにいだかれて十分心も温まり、自分の想いが段々と満たされてきたのでしょう。自分の興味と好奇心にいざなわれ、野山へお散歩に行ったり他クラスの教室に遊びに行ったりと、それぞれ好き好きに遊んでいます。『ひとつかじってはよそにお出かけ』、そんな想いのままちょろちょろとあちこちに顔を突っ込んでは遊んでいる子ども達の姿を見ていると、この『ねぼすけトカゲ君』のように見えてしまってついつい笑みがこぼれてしまう僕なのでした。

 この初夏の陽気に誘われてうぞうぞ活動を盛んに始めたのがダンゴ虫。今回の『ダンゴ虫狂想曲』の始まりはバス登園での一コマでした。いつものごとくバスの扉を開いて子ども達を迎えた僕に向かって飼育ケースを差し出したのはすみれ組の○○君。中にはうぞうむぞうのダンゴ虫。アパートの庭でみんなして集めたのだとか。僕も「これがバスの中で逃げ出したら」などと要らぬ不安が頭をよぎり、ついつい「間に合ってます」などと言ってしまいました。幼稚園に持って行きたかったのか僕の感嘆の言葉を聞きたかったのか、そっけない僕の言葉にちょっと寂しそうな顔の○○君でしたが、お母さんにケースを渡していつもの元気な顔でバスに乗り込んで来ました。その時、この子の想いを満たしてあげられるもっと気の利いた返しが出来なかったかなとちょっと心に引っかかった一コマでした。
 次の日、その停車場で別の男の子(△△君)が一匹だけダンゴ虫の入った飼育ケースを持って待っていました。「幼稚園でダンゴ虫捕りたいから持って行って良い?」と言う男の子にお母さんが「先生が良いって言ったら」とパスを出され、「100匹ぐらいに増えて帰ってくるかもしれませんけど?」と投げ返し話は成立。昨日ケースを持って行けなかった○○君も「僕も一緒に捕ってあげる」と『ダンゴ虫捕獲プロジェクトin日土幼稚園』が立ち上がり、みんなで大々的にダンゴ虫捕りをする事になったのでありました。彼らの合言葉は「ダンゴ虫王国を作るんだ!」。彼らの野心はアパートに持って帰って『放牧』する事にあったようでした。
 ダンゴ虫の幼稚園での生息場所は主に湿ったプランターの裏。みんなして大きなプランターをずり動かしては「いたぁー!」と声をあげながらダンゴ虫を捕獲してゆきます。僕もこの彼らのノリについつい便乗してしまい『気合を入れて捕ったらどれだけ捕れるだろう』と『マイギネスに挑戦モード』にスイッチが入ります。プランターを動かしては「あっちに2匹!そこに1匹!」と子ども達への司令塔役を演じてしまいました。子ども達、目が良いように見えてなかなかダンゴ虫を視認出来ません。動いているダンゴ虫はよくよく分かるのですが、驚いて丸まってしまったダンゴ虫は結構見落としてしまうのです。こう言うのは視力よりも経験が物を言うようです。『ダンゴ虫は丸まってじっとしているもの』と言う経験則を基に目を凝らして見てみれば、死んだふりして難を逃れようとしているダンゴ虫がよくよく僕の視界に入って来ます。ただそいつをつまもうと手を伸ばすのですが、いつの間にか大きくなってしまった指先がダンゴ虫をつまむのには大きすぎてなかなかしっくりいきません。ロボットアームで卵を掴むような気の使いようでやっと一匹のダンゴ虫を捕獲することが出来ました。それに比べて子ども達、小回りの利く指先を駆使して次から次にダンゴ虫達をつまんでゆきます。最終的には軽く100匹は超えようかと言うダンゴ虫達が『お持ち帰り』となりました。かくして朝の『お母さん達にとってうれしくないお約束』は実現されてしまったのでありました。
 次の日、その停車場ではケースを抱えた子どもが3人に増えておりました。この日加わったばら組の子にしてみれば、お兄ちゃん達と同じようにケースを持って登園することが嬉しかったのでしょう。幼稚園でケースを持ち歩くだけ歩いて、最後は忘れて置いて帰って行ってしまいました。幼い心に芽生え宿る『執着心』はまだまだ未分化なもののようです。その日もダンゴ虫取りフィーバーは続いたのですが、段々みんな飽きてきたのかそれとも同志の連帯感が高まってきたせいか、「僕のもこっちに入れてあげる!」といくつもあったケースの中のダンゴ虫がひとところに集められ始め、最終的にはあの○○君のケースに集約されて行ったのでありました。やはり一番のダンゴ虫好きは自他とも認める○○君だったのです。その日のお帰りの時、空になった飼育ケースを見た△△君のお母さん、「よかった」と小声を漏らしておりました。行ったり来たり、増えたり減ったりのトランプゲームのようなダンゴ虫君。やはりお母さん達にしてみれば「うちの中を這いまわり出したら」などと思えば早々にお引き取り願いたいお客さんなのでしょう。一方の『総取り』となった○○君のお家ではどんな会話が交わされたのでしょうか。「持って帰ったら庭に放して『ダンゴ虫牧場』にする」と言う約束になっていたのですが、その約束は果たされたのでしょうか。でも子どもの心や想いを育てると言うのは、きっとそう言うことだと思うのです。自分の想いを叶えながら、実体験の中で知恵や知識を学びながら、約束もちゃんと守ることを覚えながら、自分だけでなく「虫が苦手」と言うお母さんの想いも感じてあげられるようになりながら大きくなって行って欲しいと願っています。大勢の『ダンゴ虫先生』達に色々なことを教わりながら、この子達は健やかに大きく成長しているところです。

 毎週月曜日に行なわれる合同礼拝では、潤子先生が聖書物語を『お話』にして子ども達にお説教しています。その週は『迷子の小羊』のお話でした。イエス様は自分を羊飼いにたとえて、『百匹のうちの一匹でも羊がいなくなったなら、私は残りの九十九匹を待たしておいてでもその一匹を全身全霊を持って捜し求め、見つかったならそれをみんなと共に大いに喜ぶだろう』と仰ってくださったと言うお話。キリスト教、そしてキリスト教保育の精神を良く表したお話です。このお話を年長児から年少の子ども達まで一緒に聞くのですが、ついこの間入って来たばらさんにそんな話を聞く耳などまだまだ出来ていません。そわそわしながら体をゆすったり後ろを向いてお友達にちょっかい出したり、「まあこれが三歳児の姿だよね」と思いながらこの子達の様子を眺めていました。話が聞けなくともその場に一緒にいることが大事。年長さん達が静かに話を聞いている姿を見ているうちに客観性が徐々に芽生え、何かの拍子に訪れる「先生は何を言っているんだろう」とふと興味を持つ瞬間が『人のお話を聞く』と言う所作につながってゆくのです。子どもの意識の分化とは実に面白い、そしてすごいものだと思いながらこの子達の表情を見つめています。
 そんな子ども達の中にあって、潤子先生の言葉に一つ一つ反応しながらうりゃうりゃ言ってるひとりの女の子がありました。『迷子の小羊』のお話の導入部は、草原で遊ぶ楽しさに我を忘れた一匹の小羊が「あっちにいっちゃおー!」と自ら道を外して出てゆくくだりの話。幼稚園生活にも慣れ、段々と自分の我を通す事を覚え始めた子ども達。先生の制する言葉を突破して、お調子に乗りながら度々お外にお山に飛び出して行っています。でもそれが我々人間の本質と言うもの。だからこそいい大人に対して『迷子の小羊のたとえ話』が成立し、このお話がよくよく用いられるのです。しかしその子にしてみれば「勝手に行っちゃったから迷子になっちゃったの」、「崖から落ちて足を折っていないかしら」などと言う一語一句が決して例え話などではないリアリティーを持った自分への警告に聞こえたのでしょう。潤子先生の言葉に「私はそっーと降りるから大丈夫なんだから」とぼそぼそ応えておりました。先日もこそっとお山への『グレートエスケープ』を試みて、その途中自分で転んで大泣きしているところを僕に救出された彼女。『助けてもらった』よりも『連れ戻された』ことが不満だったのかしばらくの間僕には変な顔をしていた彼女でした。でも『熱さものど元過ぎれば』で「今度はもっとうまくやれるわ!」と『赤毛のアン』のアン・シャーリーのような思いこみと前向きさで潤子先生のお話を聞いていたのかも知れません。聖書物語もこんな風に子ども達の心に響くんだと、興味深く見させてもらいました。こんな子がまたコリもせず勇んでお山を登りゆき、すべり台の頂上まで行って「こわいー!」と大泣き。助けに行って一緒に滑り降りてきたならぐしょぐしょの涙顔のまま大喜びするのですから、そんな彼女にあきれながらこちらもついつい笑ってしまうのです。まったく赤毛のアンのような彼女です。

 この春からみんなでスキップに挑戦し始めたのがもも組です。リズム遊び同様、身体を動かすことが心地よくみんな喜んでやっていたのですが、やれば出来るのに『みんなの前』がいやな男の子が二人ありました。「やらんやらん!」を通してきた彼らに、「折角出来るのに」と潤子先生と二人で色々言葉を投げかけながらの『魚釣り』が始まりました。「××君のスキップみたいなぁ」、「・・・(知らん顔)」。「みんな見たいよねぇ」、「うん!うん!」と言う僕らの言葉にも素知らぬふり。そこで「××君と一緒にスキップやって見せてくれる?」と一人の女の子にお願いしてみたところそっぽを向いていた××君、その子が手を差し伸べるとすっくと立ち上がりご機嫌顔でスキップし始めたではありませんか。男なんてそんなものです。まずは一匹釣れました。
 もう一人は『やったのに出来なかった』が嫌なタイプの男の子。この間、先生と二人でやった時には上手にやっていたのですから出来ないはずないのですが、イマイチ自信のなさげな男の子。でたらめなスキップを自信満々のステップでやって見せるアバウト男子チームの勢いがちょっとでもあればと思うのですが、世の中そんなもの。その慎重さがここまで彼の実力を高めてきたのですからその性格を否とする事は出来ません。そう、そんな時は『押してもダメなら引いてみな』。「いやいや無理無理、この間出来たのは□□君じゃなかったんじゃない」と小声で聞こえる様に言ったなら、突然奮起してスキップをやりだした男の子。「すごーい!一番上手じゃん!」の感嘆の言葉にニコニコ笑顔のご満悦。こうしてこの日初めてみんな揃ってスキップをやって見せてくれたももさんでした。そう、一人一人の感性は各々それぞれ十人十色。子ども達とのやり取りの中で相手の反応を感じ取り、配球を変えながら『その気』にさせてゆくしか、僕らには出来はしないのです。それを神様が「よし」として下さった時だけ、子ども達も応えてくれるものなのかも知れません。

 こんなしながら、そんなこんなの子ども達とのやり取りと小さな小さな彼らの成長を記憶の片隅に留め反芻する事は、いつも「もー!!」ってなってしまいそうな僕らの精神をニュートラルに戻してくれもするものです。まずはよくよく見つめながら、笑い処を探して一緒に笑ってしまいましょう。小さな喜びを分かち合いましょう。それがきっと僕らと子ども達の成長の糧となるはずだから。


戻る