園庭の石段からみた情景〜園だより6月号より〜 2012.6.4
<デンデン先生が僕らに教えてくれること>
 6月に入りましたが例年のカンカン天気はなかなか訪れず、「あついねぇ」とは言いながらも木蔭に入ればさわやかに吹きぬける風が心地よい、そんな気候が続いています。僕らにはそんな風に過ごしやすい初夏の陽気にも、雨が降らずに参っている仲間が幼稚園にいるのですが、今回はそんな彼らと子ども達のお話をひとつ。

 今回の仲間とはカタツムリ、『でんでんむし』です。毎年梅雨時になればあちらこちらから這い出して来て、子ども達のヒーローとなるカタツムリ。でもその直前のこの季節には「いったいどこに行ってしまったのだろう」と思うほど見かけないもの。しかし彼らはちゃんとそこいらにいて雨の季節を待ちわびているのです。
 幼稚園の草刈を一生懸命やってくれている僕の父が、「これはもう枯れてしまったな」と先日、井戸横の紫陽花をきれいに草刈機で駆り取ってしまいました。そこには紫陽花の切り株だけが残されたのですが、そこに今年はカタツムリが一杯ついたのです。それを最初に見つけたのは潤子先生とばら組の子ども達。「あの紫陽花の切り株のところで捕れた」と十数匹のカタツムリを見せてくれたのでした。「瑞々しい葉っぱならともかく、そんな話ってある?」と半信半疑で見に行った僕。そこにはまだまだ鈴なりになってついているカタツムリ達がいたのでありました。なるほど、適当な湿り気のある地面から40cmほど登った紫陽花の乾いた枝に、カタツムリがぴったりと殻の口を閉じてくっついています。そう、これがカタツムリが乾季をやり過ごすスタイル。いつもなら緑色に生い茂った葉っぱの陰に隠れて見つかることのなかったであろう彼らが、今年はこうして子ども達の絶好の遊び相手となってしまったのでした。僕は僕で、「ああ、こうやって雨季を待っているんだ」と長年抱いていた『どこにいるんだろう』と言う疑問を解く糸口を見つけてちょっと満足気分。そこでまたさらに十数匹のカタツムリを捕った後、「こんな感じのところにいるんだよね」と捜索範囲を広げて子ども達と『デンデン探し』を始めたのでした。
 「そんな感じと言うことは」と探したのはまずは定番の花が咲き始めた紫陽花の葉っぱの裏。目線が低い子ども達には葉っぱの裏も丸見え全部お見通し。そこで数匹のデンデンをゲット。山の長すべりだいの裏、ここにも一匹おりました。探し求めながら板柵越しに山の斜面を探していた時のことです。ふと見れば、その板柵の裏面に一杯カタツムリがついて息を潜めているではありませんか。これは子ども達の目線では見つかりません。それを得意げに捕っては子ども達に手渡した僕でした。

 そうして集めたカタツムリ達はゆうに百匹はいたでしょうか。使われていない金魚の水槽を潤子先生が出してきたならば、みんな自分のカップに入っていたデンデンを聞き分け良く入れてくれます。普段なら「わたしの!わたしの!」「持って帰る!」でわいのやいの言うこの子達が素直に水槽に入れてくれたのは意外でした。「デンデン王国を作ろう!」と言ったキャッチフレーズが良かったのか、水槽一杯に入ったカタツムリを見てその絵の壮観さから「もっといっぱいがいい!」と思ったのか、それからも捕ってきては次々に水槽に入れてくれた子ども達でした。初めは「いや!持って帰る」と言っていた男の子もあったのですが、そんな彼には発想の転換で投げたふわっと投げた変化球。「それじゃあ、これ全部君にあげる。君がデンデンリーダーね。君がみんなと一緒にここでお世話するんだよ」と言ったなら「うん!」と機嫌よくうなづいた○○君。それからこの水槽をカタツムリで一杯にするのが彼の生きがいとなり、毎日デンデンを捕まえてきてはせっせせっせと、もも組の下駄箱の上に据え置かれた水槽に入れて嬉しそうに眺めていたものでした。
 捕られた時にはカラカラだったデンデン達、潤子先生から「お水をかけてやれば生き返る」と教えられた子ども達によって浴びるほどの水をかけてもらい、本当に息を吹き返したように『よたよたよたよた』這い回り出しました。それを見た子ども達、最初はびっくりしていましたが『そういうもの』と言うことが分かれば彼らの学習力とはたいしたもの。カップに捕ったカタツムリにその度ごとに水をかけ、彼らが動き出すのを満足気に見つめておりました。しかし『複数の条件を満たす解』を求めることをまだまだ知らない子ども達。カタツムリはすぐによたよた動き出しカップからの逃走を試み始めます。それを戻すのに四苦八苦の子ども達。新しいカタツムリを探しながら、手元の逃げ出すカタツムリを追いかけながら、『もぐらたたきゲーム』のようにわちゃわちゃやっておりました。僕から見たなら「水槽に入れてから水をかけてやればいいのに」と思うのですが、彼らが幼稚園で過ごす間にそれに気づく日は来るのでしょうか。自分で気づけばそれは素晴らしいことなのですが、もうしばらく答えを教えずに見守っていましょうか。

 飼育ケースに100匹のダンゴ虫が入った時は、彼らの小ささや入れたはっぱ・小石の陰等に隠れてしまったこともあってそうすごいとは感じなかったのですが、100匹のカタツムリが一つの飼育箱に入っている図は壮観なものです。梅雨前でまだまだ小さいサイズのデンデンが多いのですが、それでも迫力満点です。元々金魚の水槽なので蓋がなかったのですが、息を吹き返したデンデン達は一斉にガラス壁を登り始めます。「何か蓋を」と探していたところ、潤子先生がまたまたプラスチックの籠を持って来て、見事に蓋に収まりました。蓋がついたと言ってもデンデン達は上へ上へと登って来ます。ロックも何もない、自重だけで蓋されている飼育箱の上部にデンデン達が大集合している図を見たなら、みんなで「よいしょ!よいしょ!」と籠を持ち上げて逃げ出そうとしているように見えて、「絵本やアニメのお話みたいだね」とみんなで笑ってしまいました。粗い網目の蓋なので極小サイズのデンデンはスルーして逃走。網目から逃げ出した彼らはそれで満足してしまうのでしょうか、折角脱出したのにその蓋の縁でじっと『梅雨待ちのポーズ』を決め込みます。子どもと動物の心理とは実に不思議なものだと、その『チビデン』を見つめながら思ったものでした。逃げ出したものの仲間達から離れたくないのでしょうか。それとも仲間救出のチャンスをそこで伺っているのか、色々考えると段々と面白くなってきてしまいます。そのうち仲間を引き連れて大脱出なんて事件が起こるかも。『ニモ』のように小さな主人公が大活躍してみんなを救い出すなんて図が幼稚園で見られるかもしれません。お母さんや先生達にしてみれば、そこいら中をデンデンが這い回っていたら「きゃー!」となってしまうでしょうが。

 そのデンデン達、その後もまたいい仕事をしてくれています。礼拝の前の席取り合戦、これが毎回多かれ少なかれもめごとの原因となるものです。「誰々ちゃんの横がいい!」から始まって、新年度のクラス再編後の新たな人間関係に『仲良し同盟』が現れ始めるこの時期には『ここはいやだのあそこがいいの』、『先生の横じゃないとダメなんです』などなど、皆が段々と主張の声を大きくしてなかなか配席が決まりません。それでは礼拝が始められないので最後には「好きな所に座りたかったら自分の準備をちゃんと早くやって先に座ってなさい」の『決め台詞』が宣告され政治決着がつけられます。もちろん自分の想いが通らなかった方の子は『ぶーたれ顔』。床に座り込んでストライキの姿勢。これが例の『デンデンリーダー』の男の子でした。そこで空いている席を指さして「デンデンリーダーの席はここね。あ、空いてるから僕が座っちゃおうかなー」なんてつぶやいて見せれば、「はい!はい!」としっぽを振って飛んできた男の子。「リーダーやけんね」と即座にご機嫌を立て直し、嬉しそうな顔でその席についてくれたのでした。今日もまた一匹釣れました。
 潤子先生が水槽の掃除をしていた時、周りに集まってきたのはすみれ組の男の子。「お手伝いしてくれる」との潤子先生の言葉にもちょっと腰が引け気味。「こわいの?」と訪ねれば「こわくない、でんでんむしは触れるんだけれどうんちが…」とこぼす彼ら。100匹分のカタツムリが5日間も過ごした水槽は彼らの糞や粘液でかなり汚れています。水槽は潤子先生がきれいに洗ったのでそこにデンデン達を戻すのを子ども達に頼んだのですが、そのデンデンが「汚くて触れない」と言うのです。普段はひょいひょいつまんではデンデンを捕まえてくる子ども達ですが、そんな彼らにもあの水槽は大いにインパクトがあったよう。水槽と一緒に水浴もさせられたデンデン達は汚くないのですがイメージと言うのはそう言うもの、『うんちまみれになったデンデン』と言う情報が彼らの嫌悪感を刺激するのでしょう。「生き物をお世話するってことはこう言う事でしょ。君達もうんちもおしっこもするでしょ。それでもお母さんは君達のお世話をしてくれるでしょ。君らはどうなの?もうお世話してあげないの?」、また『究極の説法問答』のような問題提起を子ども達に投げかける僕。僕だってこの子達がいなければ自分からカタツムリを捕まえてきてどうこうしようとすることはきっとないでしょう。そんな自分を棚に上げてよくも偉そうなことを言うものです。でもせっかく本物の命を教育の場に持ち込んで子ども達に『大切なこと』を教えようと言うのだから、こちらも『聖人君主』となって大上段の構えを見せなければいけない時もあるはず、と思いながらの声かけ。でもそんな想いにちゃんと応えてくれる子ども達の心がうれしいじゃありませんか。すみれイチの『真面目君』が「そうよ、みんなうんちもするんだもん。お世話しなくちゃ」と言ってくれた言葉にみんなが続き「そうそう、あとで手を洗えばいいんだから」とみんなしてデンデンを水槽に戻す手伝いをしてくれたのでありました。
 『したい、したくない』ではない『どうするべきか』を考え行動できる様になるのが成長と言うもの。神様に与えられた教材をテキストに、どう読み解かせて行くかが教師のそして大人の仕事。そこには小さな生物達に余計なストレスを与えたり、下手をしたらその命を奪ってしまったりするリスクがあるのですが、だからこそリアリティーと説得力を持たせる事が出来るのです。本物の命を彼らの日常の中に持ち込むことにはリスクがあります。豊かな自然があだとなり、『いくらでも捕っていい』、『いくら殺してもいい』と言う方向へ心が流されてしまう可能性があるから。『猟奇的本能』、それがゲームと言う遊びを楽しみ嗜好性にこだわりを持つ、我々『人類』の本能なのかもしれません。でも社会という集団を作り自然の恩恵を分け合って生きる存在である『人間』として生きてゆくためには、我々はモラルと呼ばれる良心をその心に育てていかなければ、この社会と言う共同体を維持してゆくことは出来ないのです。それを教えるのが『教育』なのです。

 生き物を忌み嫌うことなく優しく接することのできる心、その芽生えと成長を僕らは願っています。本物の命はTVの映像が見せるような美しくきれいなものばかりではありません。『きたない』『くさい』『みにくい』『わずらわしい』、そんなものに接しなければいけないことの方がはるかに多いことでしょう。それでもその命に関わり、その命のために何かをしてあげることの喜びは、それらをはるかに凌ぐ素晴らしい感動として子ども達の心に刻まれることでしょう。それが将来この子達の人間関係や社会参画の基となってくれたなら、この国は今よりもっと生きやすい暮らしやすい僕らの故郷となってくれるのではないかと思うのです。『排他』よりも『共生』することの素晴らしさを、この小さな命達がこの小さな魂達に教えてくれることでしょう。僕らはただそのガイド役。人の言葉で頭で理解するだけでは決して得られない素敵な心が、ただただ真直ぐに育ってくれるよう祈るだけの者なのです。


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