園庭の石段からみた情景〜園だより7月号より〜 2012.7.2
<歌は心です>
 梅雨模様のお天気が続き、なかなかお外で遊ぶことの出来ない6月・7月を過ごして来ましたが、今年は歌好きな子が多いと言うか、歌好きな子どもに育ってくれたと言うか、最近の幼稚園では時と場所を選ばずあちらこちらで子ども達の歌声が元気に響き渡っています。朝一番のそれは幼稚園バスの中から始まります。その中心はもも組の女の子達。彼女達がそろえば何の前触れもなくみんなで一緒に歌い出すは『スマイルプリキュア』。一人がおもむろに歌い出したなら、みんながそれに追従して一緒に歌い始めるのです。始めこそ『プリキュア』の歌で始まるのですが、彼女達の歌はそれで終わりません。それに続いて歌い出されるのがなんと讃美歌。ばら組の女の子も加わって「ぱらぱら落ちる…」と歌う彼女達に驚きとちょっぴり嬉しいまなざしを送っていたなら、その後に「成長させてくださったのは神です」と聖句の暗唱を続ける彼女達。とすれば次には6月のもう一つの讃美歌『どんどこどんどこ』へとつながってゆきます。彼女達の中では讃美歌を歌う喜びが『うれしい想い』につながって、そこから湧き出すように『礼拝』のプログラムが走り始めるのでしょう。出来過ぎた話が大好きな僕をしてみても「へぇーなんでー」と思わず聞きたくなってしまいます。『いたずらぼうず』の本能か、はたまた彼女達の本気度を見極めたいと思ったのか、大真面目な彼女達についつい『ちゃちゃ』を入れたくなってしまう僕。歌詞や聖句の言葉を面白おかしく変えて投げれば、「ちがう!もう、しんせんせい!」と怒られてしまい、「どーも、すみません」と平謝り。怒られているのに嬉しい想いに浸っている朝の『バス礼拝』です。それで終わりかと思いきや、「ちゃんちゃんちゃん、ちゃんちゃーん」としっかり『くちイントロ』までもつけまして『おはようせんせい』を歌い出す彼女達。最後の「おはようございます」の唱和が終わるまできっちりと礼拝をやってのけるのでありました。僕達教師は礼拝を『儀式化』してしまうところがあるようで、ついつい「礼拝はちゃんとやろうね」と子ども達に声掛けをしてしまいます。でもこの様に子ども達が『自発的に賛美の歌を喜び歌う姿』を見ていると、『形だけはちゃんと』と言う意識が自分の中のどこかにあるような気がして大いに反省させられます。形も大事、想いも大事、そのことを体現して教えてくれた子ども達。「『讃美歌』も『プリキュア』も『礼拝』も、大好きだから歌っているの!」と彼女達のそんな嬉しい想いが素敵な歌声に乗って聞こえてくるような朝のひとときです。

 この間、一日お休みをいただいて職員全員で行かせてもらった『キ保連』の研修の分科会でも讃美歌のあり方について議論がなされました。例えば「『どんどこどんどこ』のような調子のいい讃美歌で、歌に合わせて歩き回ることを礼拝の中で許すのはいいことなのか」と言うことが熱く討論されました。「子ども達のやりたい想いを受け止めてあげるべきではないか」と言う意見と「礼拝は静かに守るべきものだから、礼拝の場ではそうはしない方がいいのでは」と言う意見に分かれそれぞれの主張を交し合ったのですが、その場での結論としては「各園で礼拝の持ち方を話し合い、その園の総意の元であり方を定めるべきもの」と言うことで収束されました。その話を聞いていて面白いと思ったのは『自由に』を支持するのは牧師である園長や教育主事、『ちゃんと』を主張するのは現場のたたき上げの先生達と言う構図。これは主義主張と言うよりもそれぞれの『立場』が言わせている発言なのではないかと思ったものでした。聖書には『幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。』と言う箇所があって『子ども達が想いのままに賛美として行う行動はそのまま受け入れるに値する』と言う解釈につながるのですが、それがキリスト教的思想として牧師先生達に支持されるのだと僕は考察しています。一方、キリスト教を重んじる幼稚園だからこそ『礼拝と言う形態』を大切に心を静かにして讃美歌を歌うのが大事であり、一人の自由を許せば『礼拝が礼拝の体』をなさなくなる、クラスや園としての規律が保てなくなる、と言う危惧が実務に当たる先生達にはあるのだと思うのです。その延長線上にあるのが近年の『学級崩壊』。これは教師の指導力不足、そしてそれに加えて子ども達の家庭でのしつけとけじめの欠如が原因と言われますが、これは指導や教育と言う『トレーニング』をもってしなければ育たないものでもあるのです。これらは双方対局に位置する立場と考え方で、両方を同時に満たす一つの形の答えはないでしょう。でもこのことについて考える機会を与えられたこと、それがこの研修の成果だったのだと僕は思います。これはこの『讃美歌の歌い方』だけの問題ではないでしょう。子ども達を育ててゆく過程において彼らの想いをどう受け止め、教育的見地からどのように指導をしてゆくべきか、その問題が抱えているものと全く同じ構図だからです。『わがまま放題』でもだめ、『抑圧的教育』でもだめ、そこで教えるべきこと・伝えたことをしっかりとそこにメッセージとして織り込みながら、子ども達の小さな小さな想いを敏感に感じ取りしっかりと受け止めてあげようとすることが大事だと思うのです。いえ、そうすることしか僕らには出来ないのです。その結果として思うようにいく時いかない時、きっとそれぞれあるでしょう。しかしそれも神様の御心としてちゃんと受け止められたなら、次の一歩を支える礎石になってくれるはず。だから僕らはかたくなになることなくその投げかけの中に緩急をしっかりと織り交ぜて、自発的に子ども達が僕らの想いを感じ気づいてくれることをただただ一生懸命祈るのです。子どもは僕らが作るものではありません。『成長させてくださったのは神です』、その御言葉は本当です。

 ちょっぴり『研修でちゃんとお勉強もして来ました』のご報告も織り交ぜながら進めておりますが、『歌のお話』を続けてゆきましょう。今回のタイトル、『歌は心です』は僕の高校時代の音楽の先生の言葉です。僕が助っ人で入った合唱部の顧問だったS先生は、ことあるごとにこの言葉を口にしておりました。その時は「また言ってるよ」くらいに思っていたのですが、子ども達に向かって歌を歌って聞かせる立場になった今では、その言葉がとても眩しく感じられます。
 『歌を子ども達に教える際に、言葉は全くの無力である』と言うのが最近の僕の実感。特に子ども達への歌唱指導を『言葉』をもってしようした時に強く限界を感じるのです。僕ら教師がよくよく口にする言葉、「大きな声で、でもきれいな声で歌って」。これが子どもには分からない。『大きな声』=『シャウト』となって『がなり声』になるのは自然の理。子ども達だってふざけてやっている訳ではありません。だって子ども達にはどんな声がきれいな声なのか分からないのだから。『大きな声』と言う言葉には具体性があるのに対して『きれいな』と言う形容詞は抽象性が多分に含まれています。そもそも『何がきれいなのか』と言うところから理解できなければそれを再現できるはずもありません。一方で子ども達の得意技は『真似ること』。とにかく面白いと感じたもの、興味を引いたものは誰に言われるまでもなくマネしたがるのが子どもと言う生き物です。そう、『ひとまね子ざるのジョージ』のように。ならばそれを要求する以上、『きれいに』歌って見せることが効果的なのではないかと思い、このところそれを意識しながら子ども達に向かって歌いかけています。『汚い声』の定義は『がなり声』、つまりのどに掛かった大きな声。であるなら、その逆をやって見せればよいのではないかと声帯に掛けない丸みを帯びた声、つまり合唱様式の発声で『僕らはみんな生きている』なんかを朗々と歌いかけています。なんでも子ども達を引きつけるにはちょっとの『面白要素』が必要、と言うことで合唱と言うよりもそれをもっとデフォルメしたオペラ風の発声で歌って見せれば子ども達も大喜び。『がーがー』歌っていた子達がまだ出来はしないものの、それでも見よう見まねで喉を開けた大らかな声で歌おうとしている姿を見つけ、「おっ!」と思ったものでした。『こんな感じ』と言うのは決して言葉で伝わるものではなく『心』によって伝わるのだと実感している今日この頃。「ね、こんな風にやってみて」の『こんな風』を実践をもって表現したなら、それが子ども達の心に伝わり彼らが心に感じたありのままを自分なりに表現しようとしてくれるようになるのです。そしてそれが出来るようになったなら、この子達の歌はきっともっと素敵になって行ってくれるだろうと、僕はそう思っています。でもその自分の歌の『こんな風』に子ども達が感じ入り、感動を与えることが出来るものであると言う事が大前提。『ウケるウケない』を含めそのための研究と自己研鑽を重ねている今日この頃ですがさてさて、その成果は果たして現実のものとなるのでしょうか。

 最近の音楽機材の中には色々と使い勝手の良い『SDラジカセ』と言う機械がありまして、軽くて単三電池でも動くと言う携帯性の良さから幼稚園でも使うようになりました。僕の機械は安いものなのでファイル名表示などは出来ないのですが、とにかくたくさんの曲が一枚のSDカードに入るのがこれまた大きなメリット。この間の参観日や春の遠足で使った曲はもちろん、ダンス曲集に子ども達のお気に入り、そして去年の運動会のCDも丸ごと入ると言う懐の広さで、とっかえひっかえメディアを入れかえることなく、ふと思い出した時に色んな曲が使えるので重宝しています。僕がその機械を度々使って見せる所をよくよく見ている子ども達。みんなこの中に色んな曲が入っていることを知っていて、「あの歌にして!」「今度はあれ!」とおねだりしてきます。ある雨の降る日、ホールで遊んでいた時のことです。数人のばら組の女の子達が僕の所に集まり、「トムソーヤかけて」と膝下にすり寄って来ました。言われるがままトムソーヤの曲をささっとカードの中から探し出し、「はい!」とそれをかけてやれば4〜5人がそこで輪になってご機嫌顔で踊り始めたのでした。「さあ、踊って見せて!」なんて誰も言っていないのに。それでちょっと気分も高揚した子ども達、リクエスト曲の次に続いて流れてくる音楽達に合わせて『創作ダンス』を踊り始めました。一人が先生になって「いい、私の真似してね」と言いながら腰に手を当て、『ん、ぱっ!』とかどこかのダンスで見たような振りをランダムに織り交ぜながら踊り始めます。それに続く女の子達、嬉しそうに真似をしながらみんなで『ん、ぱっ!』なんてやって踊ります。こう言うのって『先生志向』と言うのでしょうか『女王様願望』と言うのでしょうか。「みんな、私の言う通りにやって!」を公然と出来るのが『先生役』。普段は控えめな彼女達もこの『天下御免の紋所』が欲しくてたまりません。みんな「次は私が先生!」と手を上げながら、変わりばんこにその至福の順番を待ちながら、いつまでもいつまでもみんなで踊っておりました。そのメンバーはやっぱり全員女の子。上手に自分達で『自己満足』を満たし分かち合える彼女達の姿を、「やっぱり女の子だねえ」と思いながら眺めていた僕でした。
 また別の日のことです。僕が登園バスの添乗から戻って来ると、もも組の部屋で女の子達が机の上に置かれたSDラジカセの前に座り込みかじりついておりました。潤子先生も再生ボタンだけは操作できる様で、彼女達におねだりされてかけてあげたのでしょう。流れてくる曲に合わせて彼女達だけで盛り上がって歌っておりました。僕はそんな女の子達を嬉しく見つめながら『お外遊び』に飛び出して行ったのですが、しばらくあちらこちらで子ども達の外遊びに付き合った後、水を汲もうと山水をためるタライの所にやってきました。するともも組の部屋の窓越しに讃美歌が聞こえてきたのです。そう、あの女の子達です。彼女達はあれからずっと流れてくる曲に合わせて歌っていたのでしょう。この讃美歌はこの間の春の遠足のために録音したもので、このSDカードの中ではだいぶ後の方に入っているもの。ファイルやフォルダーのスキップなどで頭出しも出来るのですが、子ども達も潤子先生もきっときっと出来ないはず。そう、歌の大好きな彼女達はずっとずっと歌っていたのです。しかもさっきの『童謡』や『流行り歌』の時よりもずっとずっと嬉しげに『讃美歌』を歌っていたのでした。
 その時、彼女達の姿を見つめながら感じたのは、「この子達は『讃美歌』を『歌』として歌っているんだ」と言うこと。『カエルの歌』も『だからあめふり』も『主イエスと共に』もみんな同じ。僕らは「はい礼拝です、さあ讃美歌を歌いましょう」と言う思考に捉われてしまいがちですが、彼女達にはそんな固定観念はありません。ここでも大人が「さあ、讃美歌を歌いましょう」と言った訳ではないのに、讃美歌を嬉しそうに歌っていた彼女達の姿がそれを物語っています。しかもこの子達は『楽しい』『楽しくない』に関してははっきりしていて、それが楽しくなかったならデッキから音楽が流れていようがいまいがぷいっとすぐにどこかに行ってしまいます。彼女達に自発的にそうさせるもの、それが『歌のちから』『音楽のちから』そして『讃美歌の魅力』なのではないでしょうか。その力・魅力を感じ取る感性も子どものひとつの才能。歌を歌うことにより子ども達は満足感を得、共に歌う仲間達との一体感や連帯を強め、その伸びやかな歌声と心で自分を表現し、今の自分を「うれしい」「たのしい」「しあわせ」と肯定しながら神様への感謝の賛美を歌にして奏でるのです。そう、讃美歌は『肯定』の歌。「ありがとう」「かんしゃ」「きれい」「うつくしい」「かわいい」「わらって」「うたって」「ともだち」「いっしょに」などなど讃美歌の中にはそんな素敵な言葉達が満ち溢れ、共に生きる家族や仲間達のことを謳っています。目の前にいるクラスの友達との日常のやり取りの中ではついつい暴発してしまう『自我』さえも、讃美歌の言葉を口ずさんだ後ならば「『いいよ』って言ってあげたらよかったかな」とそんな風にも思えるようにもなるのです。すぐにかたくなになってしまう大人にはなかなか感じられない想いかも知れませんが、瑞瑞しい感性を持つこの年頃の子ども達にはそれが出来るのです。それが僕らにとってはうらやましいほど素敵な『幼子の感性』。この素敵な心をいつまでもいつまでも持ち続けられるように、どんどん伸ばしてゆけるように、僕らはこの喜びの歌を共に歌ってあげたいと思うのです。だからお家でも素敵な歌を一緒に一杯一杯歌ってあげてください。変なお説教よりも、きっとずっとその言葉とメロディーはこの子達の心に響くはず。そう、「歌は心です」。

 一学期最後の『石段の…』なのでそのほかの近況にも触れておきたいと思います。みんなで育てていたサワガニ君ですが、ある日一匹のメスが卵を産んでおなか一杯に抱えているのを見つけました。子ども達と一緒に「赤ちゃん、早く生まれないかな」と楽しみにしていたのですが、次の日に見た時にはそのお母さんガニ、卵を全部お腹のポケットから放出してしまい卵が水の中に散乱しておりました。母ガニの育児放棄です。本来、サワガニはおなかのポケットの中で卵がかえるまで大事に抱えながら子育てするものなのですが、『子育て環境』が悪いとそうすることが多々あるそうです。この親ガニと卵を大事に思って一匹だけ別のケースに入れてやったのがいけなかったのか、子ども達と度々飼育ケースを覗き込んだのが悪かったのか、とにかく彼女のお気に召さなかったよう。野生の生き物達は当たり前のように卵を産み育てているものと思っていたのですが、意外にもサディスティックなものだったことを改めて知りました。それを思えば人間のお母さん達はえらい。ストレスだのなんだの旦那さんに愚痴など言うこともあるでしょうが、ちゃんとこの歳までこの子達を育てて来たのですから。サワガニのお世話ひとつ出来なかった自分を省みて、感謝と尊敬の念をこれまで以上にお母さん達に送りたいと思ったものでした。
 幼稚園での『養殖計画』が失敗、そして雨の度に仲間が増えて定員オーバーとなってきた飼育ケースの環境問題から子ども達に「お家でサワガニ飼ってみる?」と投げかけてみたところ、すみれ・ももの男子連中がこぞって手をあげ「持って帰る!」。それではと、まだ『繁殖計画』のあきらめきれなかった僕は雄雌を一匹ずつペアーにして欲しい子ども達に持って帰らせました。題して『結婚大作戦』。子ども達には「お家の薄暗い所で静かに置いておいてあげたら、結婚して卵が産まれるかも」と指南したところ、俄然うれしそうに目を輝かせていた男の子達でした。家に持って帰ったカニと遭遇したお母さん達、初対面のファーストインプレッションは「!!!?」だったようで申し訳ありませんでした。でも家に帰ってから一日中飼育ケースを覗き込んでいる我が子の姿を見ているうちに段々と彼らの中に息づく本気さと成長を見て取ってもらえたようで、各家庭でのうれし微笑ましい『カニドラマ・エピソード』が報告されています。カニ君達には申し訳ないですが、ここはひとつ『子育ての教材』となってもらって、家族みんなで色んな体験をしてもらえたらと思っています。子ガニが孵って感動体験に立ち会うことが出来るかもしれません。夏の暑さに負けてカニが死んでしまうこともあるかも。そうなる前にみんなでカニのことを考え話し合い、『あらいぐまラスカル』のエンディングのように自然に返すも一つのストーリー。結果は様々となるでしょうが、ただただこの小さな命のことを子どもと一緒に真剣に想いお世話してあげる体験が、きっとこの子達の心を育ててくれると思うのです。さあ、これから冒険の季節・夏休みが始まります。色んな体験を親子一緒にしてみてください。きっと後から思えばかけがえのない、どの時代よりも眩しく輝いた『親子の時間』となるでしょう。その想いが子ども達の、そしてお父さんお母さんのこれからの励みにそして糧になってくれることでしょう。


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