子育て講座2月『ひきがたり』レジメ〜歌によって伝わる想い〜
    2014.1.20
 二月の子育て講座は僕の『ひきがたり』です。年に一度、皆さんの前で僕の素の想いを歌と共にご紹介させていただける時を持たせてもらっているのがこの『ひきがたり』。口下手な僕は人に何かをお話する時、どうも理屈っぽくなってしまいます。『つじつまが合っているか?』とか『前に言ったことと矛盾を生じていないか』、などそんなことが気になってなかなかに上手に自分の想いを言葉につむぐことが出来ません。また、たまに出てきた言葉を自分自身で思い返してみれば、「もっと違った気の利いたセリフはなかったのか」なんて推敲が始まったりと、この情報化時代においてなんとも処理周波数の低いアナクロ処理回路をしょってしまっているようです。でも一つの言葉を探し味わいかみしめると言うことはとても素敵なことだとも思うのです。
 今回は僕が好きだったオフコースの歌を紐解きながら、いろんなことについて語ってみたいと思います。きっと言葉足らずは相変わらず、だとは思いますが歌詞とメロディーからその想いを察していただいて、素敵な彼らの歌と僕らの日常と子ども達のことについて共に感じ合える時を持てたなら、素敵なことだと思うのです。2月26日水曜日13:00より、ホールで行います。どうぞ遊びに来てください。

○昨日への手紙 ○きっと同じ
『窓の外のまぶしい朝に 昨日への別れの言葉が言える』
 オフコースの歌詞は抽象的で解釈が難しいものが多いです。今時の歌、特にラップのような同じ拍の中に言葉を何倍も詰め込んだ歌達に比べて決定的に情報量が少ない上に、状況の説明不足に対して物足りなさを感じられることでしょう。しかし歌は論文ではなく報告書でもない、聞いた人の心を通して何倍にも膨らみ感じ考える『ものの種』のひとつぶてであれば、僕はいいと思うのです。子どもの言葉もそうでしょう。「この子は何を言っているのか?」と受け止める側が辛抱強く聞く耳を持って読解してやろうとしなければ、きっと何も感じてあげることが出来ないはず。この『昨日への手紙』、何年聞いても歌ってみても『今日と言う日の肯定と明日への賛歌』それ以上の理解は出来ないのですが、僕はこの歌の世界観がなぜか好きなんです。すばらしかった昨日を肯定し、その上で今日と言う日に向かって歩いてゆこうと言うメッセージ。昨日と今日の間には悲しみや困難がきっとあるだろうけれども自分を信じて歩いてゆこうよ、とそんな歌に聞こえるのです。

○かかえきれないほどの愛
『あなたの微笑みは僕のもの かかえきれないほどの悲しみは涙で流して』
 「子どもは泣くのが仕事」とは昔から語られてきた言葉ですが、目の前の我が子や子ども達が泣いていたならば、「もう泣かないの!」「なんで泣いてるの!」とそんな言葉を投げつけてしまうこと、あると思います。でも『泣く』と言う所作は子ども達にとってみればひとつの『自浄作業』なのかも知れないと、最近そんな風に思うようになった僕。泣いていること自体には関心を示さず、まるで関係のないくだらない冗談の言葉の数々を投げかけながら子ども達の表情を覗き込み見つめています。気の済むまで泣いて自分の想いと折り合いをつけた子ども達に次に必要なのは、恥かしさ消しの『きっかけ』なのだから。一言「ケラッ」と笑えたなら、そこからはいつも以上の陽気な顔で僕らに笑いかけてくれる子ども達。きっとそれでいいのでしょう。押しつけがましくないそんな優しさもあっていいと思うのです。

○いつもふたり ○あなたがいれば ○私の願い
『あなたが笑っている 小さな肩ゆらして ねぇ明日も きっといい日だね』
 僕らの幸せの尺度は何でしょう。物質的豊かさには事欠かない現代においては『自己実現』つまり『自分の思い願う通りに物事が実現すること』に重きが置かれるようになりました。しかしその流れは個人主義の助長をも促しました。かつては多少のやせ我慢を必要としながらも、美徳とされ大切なものとされてきた『共有すること・ゆずり合うこと・分かち合うこと・我慢すること』などのモラルを、遠い過去の中に置き去りにしたまま僕らはここまで歩いて来てしまいました。でもかつて僕達も大切な人がそばにいて笑ってくれている、そのことだけで「きっと明日もいい日だね」ってなんの裏付けも必要とせずに微笑み合えた、そんな時を過ごして来たはず。今もう一度、大好きな人の笑顔をそっと見つめてみてください。そこに幸せを感じることの出来たあなたが、きっと一番幸せな人なのだと思うから。こんな想い、昔の高校生のようかもしれないけれど。

○ロンド
『母はいつまでも 子どもに追いつけない』
 うちの母は子どものしたことをまるで自分のなしとげた大事のように人に話して聞かせるので、昔は気恥ずかしく感じたものでした。自分がしたことでもない事を自分の手柄のように言うのですから。照れ隠しもあるとはいえ、息子とはそんな所に過剰反応してしまうもののようです。でもその愛想のなさをも含めて子どもの全部を受け入れられる姿、それが母親と言うものなのかも知れないと最近思うようになりました。「この子が今ここにこうしていること、まずはそれが私のお手柄」、『母親の論理』の根本はそんな所にあるのかも知れません。でもその想いに支えられ子ども達は未知なる世界へ飛び出してゆけるのです。帰るべき古里がちゃんとそこにあることを知っているから。母は子どもに追いつかなくてもいいのです。子どもは自分の一部なのだから。子どもを通じて自分の想いを実現しようとしているのだから。我が子のことを誰よりも信じているのは、きっと母親なのだから。そして子どもはいつか自分の元に帰って来るという事をきっと知っているのだから。


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