園庭の石段からみた情景〜園だより2月号より〜 2014.2.23
<キリスト教保育・一考>
 小春日和が時より訪れ、暦の上でも「これから春です」の立春を過ごしたこの時期に、例年にたがうことなくこの冬一番の猛烈寒波がやって来まして、日土の谷も寒い冬に逆戻り。大人ばかりが「寒い寒い」と愚痴をこぼしている今日この頃です。幼稚園の主役・当の子ども達はと言いますと、僕らの顔を見上げながら「お外いい?」と訴えかけて来るのですが、曇り空ながら前日雪や雨がチラついて、水たまりも残る園庭の様子を見つめながら、行事のために少ししか取れない朝の自由遊び時間のことも計算しながら、「お昼からね」と言う気の利かない返事しか出来ない僕ら大人達。がっかりしているであろうはずの子ども達なのですが、劇や合奏の練習の時にはそんな想いをさっとすぱっと切り替えて、一生懸命やってくれるものだから僕らの方が申し訳ない想いになってしまいます。こんな日々を彼らと一緒に過ごしていると、多少の波や個人差はあるにしても「子ども達とは偉いものです」と思わず思ってしまうのです。

 そう、最近よくよく思うのは、僕ら大人の感情って基本的に子ども達となんら変わらないって言うこと。僕も家にいて自分の仕事に勤しんでいる時、親やお嫁さんから「○○して」なんて言われることが多分にあるのですが、そんな時には自分の中で葛藤が生じるのを感じる訳です。「それって自分の仕事を中断してまで受け入れなければいけない用事なの?」と。そのように多少不機嫌になりながらその申し出に応じる僕なのですが、「感情的にならないためには」と自分の心理を客観的に見つめてみようなどと試みたりもしてみるのです。そう、それが自分の感情の中で『何で不快に感じるのか』と言うことを理論的に考えてみたならば、『自分の予期していなかった業務が不意に発生し、自分のこれまでしていた仕事を中断することを余儀なくされる事に対するストレスが生じる為』ではないかと言う考察に、あるとき達したのでありました。でもこれって僕らが日頃、子ども達に強いている要求と、それに対して子ども達がいだくであろう感情と、とても酷似しているのではないかと思えた瞬間でもありました。そう、それは例えばこんな場合に。
 それが一番顕著に表れる場面は自由遊びの『おかたづけ』。幼稚園に通う年頃の子ども達は、まだ時計を確認しながら自身の遊びの時間配分など出来るものではありませんから、『おかたづけ』の時間はある時突然やってきます。「おっかたーづけー」と誰かが言い始めたならば誰もが「しってーますー」と言い返しながらおかたづけを伝播してゆくのが子ども達のならわしとなっているようで、そのやり取りを通して子ども達は自分を納得させようとしているのかも知れません。自分のやり残した遊びへの未練を、自分がイニシアチブを取りながら他者に「おかたづけだよ、分かってる?」と告げ、おかたづけを遂行してゆくことに転化することで消化しているのでしょう。『人に言われてやるよりも先に、自分はおかたづけを始めた』と言う自負による満足感と、人に「君たちも早くやりなよ」と言うことによる優越感、そんなものがこの子達の心の支えとなっているのでしょう。こんな子ども達のことを定義するとしたならば『見て見て!私はおりこうちゃん派』。一方で自分のやっている遊びを中断したくない子ども達もいる訳で、もっともこちらの子達の方が『子どもらしい・原初の人間らしい子ども達』と言えるのですが、こちらの面々は自分の遊びを黙々とやり続けようとする訳です。それどころか人に「おかたづけ!」なんて言われた日にはますますもってかたくなになってしまい、わざとに「私はこれを一生懸命やっているんだから」と言うパフォーマンスで対抗しようとするのです。こちらは『不器用な一途貫徹派』とでも言っておきましょう。そんな子の周りに『私はおりこうちゃん派』の子ども達が集まり囲み出しますと、『不器用な一途貫徹派ちゃん』はますますもって身も心も身動きが取れなくなってしまいます。往々にしてそんな停滞状況になってから僕ら教師がその状況打破の為にやってくる訳ですが、そんな所からその子の想いが好転することなどあり得ません。教師の方も『次のカリキュラムの為』『その子に対する教育的立場から』『周りの子どもに対する示しをつける為』、そしてもうひとつは『その子に対する感情の高揚』、などなどの様々な理由付け及び要因から教師の指導特権をもちましてその子の遊びを強制終了させることになるのです。まあその時の子ども達のリアクションは、1)しぶしぶ教師に聞き従う、2)ブチ切れて泣き喚く、とそんなところでしょうか。子ども達は幼稚園生活の中でこの様な体験を通しながら、段々と2)から1)へと対応が出来るようになってゆき、歳を重ねると共に1)よりも自ら「おっかたーづけー!」と宣言する側に立つ方が気持ちも良いし評価もされる、と分かってゆくのです。
 その成長の過程で自分との折り合いの付け方、感情の切り替え方を子ども達は学ぶこととなるのですが、最初の話に戻りますが僕ら大人でも言われた瞬間は「なんで今なの?」と思ってしまうのですから、子ども達にしてみれば尚更でしょう。でもその時にはそんなことを思い出しもせずに、そんな子ども達の態度にカチンときてしまう僕らは文字通り『大人げない大人』なのかも知れません。自分の業務を規則正しく・効率よく行うために、僕らとしては『当然の正当な指示』を出しているときっと自負しているのでしょうが、『時系列に基づいた行動計画を立案しながら遊ぶ』なんてことの出来るはずもない子ども達にとっては『寝耳に水』。僕らは理不尽な要求を突きつけるイジワルな大人としてその目に映っていることでしょう。そんな時、僕らはそのことを踏まえずに子どもと対峙してしまったなら、当然双方とも感情的に激昂しお互いに後味の悪い結果となってしまうはず。もちろん大人には大人の正当性や正義があり、自分が忙しいさなかには子ども達のそんな想いをなかなか受け入れてあげることが出来ないのですが、そんな相手の潜在的な想いを思い出し感じ取ってあげることが出来たなら、子ども達との向き合い方もまた変えてゆくことが出来るのかも知れません。

 今年度もそんな子ども達との関わり合いの中で、間もなく一年が過ぎようとしています。去年の春、幼稚園に初めてやってきた子ども達には癇癪持ちが多くて、そのふるまいに「この子、大丈夫だろうか?」と思ったことも度々ありました。『おかたづけ』の事例を筆頭に、「おともだちにダメって言われた」「○○ちゃんがイジワルした」と友達との関わり合いの中で起きた様々なトラブルについても、まるで『この世の終わり』のような顔で泣きじゃくりながら僕らに訴えかけて来たものです。その取り乱し方に僕らはドキッとさせられるのですが、こうして一年経った今、その子達を見つめてみれば大きな成長の跡を見せてくれています。確かにまだそのような事柄を受け入れる為にその子達なりの時間を必要としたり許容量を設けてあげたりする必要はあるのですが、それでも「お兄ちゃんになったね」とその大いなる成長を嬉しく感じている今日この頃。どこにその成長を感じることが出来るのかと言えば、『相手の申し出を譲歩を得ながらも受容出来る、そして自分の想いと折り合いをつけられる』の二点です。それまでは家庭でもどこででも自分の自我の強行突破で自己実現を手にしてきたこの子達が、幼稚園に上がって同じような育ちの過程を経てきた『わがままくん』同士で対決することになった訳です。それはお互いに『軋轢が生じて当たり前』の環境に身を置くことであり、前述のような反応を見せることとなるのです。それが僕ら教師の介入があったにしても、この一年間の関わり合いの中で『自分の想いはその形を変えて実現することも出来る』と言うことを学んで来たこの子達。昔の『実力行使』から「こうしたらどう?」「こんなんなっちゃった」と笑いながら自分の想いのベクトル修正を行い、複数の想いを集約したり公約数を導き出したり、そんなことも出来るようになりました。『100%自分!』だった同士が、その満足感よりもお互いに譲り合い許容し合うことで友達同士『うれしく楽しい世界』を共有することの方に自らの想いの重みづけをシフトすることが出来るようになったのです。これが社会の中で生きる人としての『社会適応性』の分化の第一歩となり、この子達は一年と言う歳月を費やしてそれを会得してきたと言えるでしょう。一言で言ってしまえば『経験不足』なのかも知れませんが。
 そう、家庭でもご近所でも、子ども達が身をもって経験を会得してゆく環境と言うものは現代ではあまりにも少なく小さくなってしまいました。核家族化や小家族化によって、『価値観の違う複数の大人と関わる機会』や『多兄弟間に置かれた子どもの生存競争と自己主張のスキルアップの腕を磨く環境』などは極めて減少し、子ども達は『多面性を持たない価値観』と『社会と言う集団に対して何の備えも持たない自我』しか持ち合わせないまま幼稚園にやって来るのです。そしてそんな彼らが抱くファーストインプレッションはやはり『ジレンマ』だったのです。しかし彼らは子ども同士の関わり合いの中で、昔よりひとタイミング遅ればせではありますが、そのことを学び自分の視野と世界を広げて来たのでした。

 長々と考えてきたこれらのことから、『子ども達の成長に必要なものとは何か』に一つの答えを提示するならば、『自らの気付きと意志を持って、なりたい自分になろうとする想い』だと思うのです。僕ら教師・大人・幼稚園・家庭・仲間・家族はそのための人的・物理的構成環境に過ぎません。それをどう組み立ててどう重ね合わせて子ども達の気付きと成長につなげてゆくか、それが幼児保育であり子育てであるのです。その方法論のひとつとして『キリスト教保育』と言う概念があり、僕らはそれをこの園で実践しようと日々子ども達の顔を見つめながら投げかけを行なっています。子ども達のスキルアップのために物事を指導する場面は日常的にあるでしょう。繰り返し繰り返し教え諭し、反復練習をすることも必要です。でもそれと共に、子ども達が自分の想いを持ってそれに挑み会得するその時を、その物事の本質に気付くその瞬間を、じっと待ってあげることもそれ以上に大事なことなのです。
 新約聖書の中にはイエス様と弟子達のやり取りが多分に渡って記されておりますが、未熟な弟子達の失敗を諌めながらイエス様が彼らに物事の真理を教え諭されている場面が多く描かれています。人は自らの体験をもって、つまり自らを基準として物事を感じ考えることによって、真理を理解し受け入れることが出来るようになるのです。イエス様のその姿を『キリスト教保育の模範』とするのであれば、僕らは子ども達に自らの経験に基づく学びの機会を多岐に渡って準備しながら、彼らがそれを理解し受け入れられることが出来るようになるその時を辛抱強く待ってやらなければならないのです。高度な情報化社会が形成され、何でもすぐに結果が得られるこの時代において、『待つ』という事は僕らの一番苦手とする『ジレンマ』。目の前のこの子達がどうなってゆくのか、ちゃんと成長してくれるのかという事に何よりも心を痛め不安を感じておられることでしょう。だから子ども達の『不従順』に憤り『未達』を責めてしまうのです。そんな私達に出来ること、それは今の子ども達を受け入れること・信じること・そして神様に感謝をささげ祈ることだと思うのです。『キリスト教保育』を掲げその精神に基づき子ども達と向き合おうとしている私達にはきっとそのことが理解出来るはず。神様の御心を信じることが出来たなら、どれだけ心が軽くなるでしょう。今のこの子達の姿を受け入れて、そこからの成長を感じ取ることが出来たなら、神様に感謝することが出来たなら、親子教師共々どれだけ幸せになれるでしょう。『信じる者は幸いである』、この聖書の御言葉は僕ら子育てに関わる者にとって、きっと真理を示す救いの言葉となるでしょう。


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