園庭の石段からみた情景〜園だより3月号より〜 2014.3.2
<瞳に宿る子ども達の想い>
 春の音楽発表会をそれぞれの想いをもってやり遂げた子ども達。『なりたい自分になるために研鑽を積み重ね、それを本番の舞台の上からお客さんに向かって自己表現出来た』と言う嬉しい自己実現の達成と共に訪れた温かな陽射しの毎日に、この世の春を謳歌しているかのようです。毎日裏山に登っては菜の花を小さな掌一杯に摘んで来たり、異年齢の子ども達がドッヂボールの集いに馳せ参じ園庭を所狭しと走り回りながら遊んだり。クラスに戻ればもも・ばら・たんぽぽさんのクラスでは、自分のやりたい役で『劇遊び』をみんなで楽しんでもいるところ。この子達にとって『お仕事』でやり遂げた劇だったなら、終わってからこんなに盛り上がることはなかったはず。それぞれが自分の精一杯をぶつけやり遂げて、手応えも感じた発表会だったのでしょう。また年長児の凛々しい立ち振る舞いや友達の楽しそうな演技に惹かれ、憧れをいだいた子ども達もきっと沢山あったのでしょう。この子達の心の中に芽を出した素敵な自己啓発の種が、どんな木に育ちどんな花を咲かせてくれるのか、本当に楽しみな春を過ごさせてもらっている今日この頃です。

 そんな子ども達の『変化』に触発されて、「僕も子ども達へのアプローチに変化をつけてみよう」と思ったのはやはり『春の気分』のせいだったでしょうか。普段はカメラやビデオが苦手とする泥や砂埃を避けるため、あまり間近まで近寄って長いこと逗留することのなかった『さら粉づくり』。それに勤しんでいる女の子達の所に行きまして、彼女達のさら粉づくりをじっと眺めておりました。そんな僕は彼女達の『恰好のカモ』だったのでしょう。「しん先生も手伝って!?」と言われるままに流されるままに『さら粉づくり』の『ふるいシャカシャカ』を始めてみてしまった僕。やはりとびきり若くてもこの子達は『女性』なのでしょう。『何かをしてもらう』ことで相手の愛情をはかりながら、そのように仕向け持ってゆく『ワザ』にはもうこの頃から長けているようで、「○○ちゃんはいつもやってくれるのに」とか「わー、しん先生上手!」などと巧みな話芸をもって僕を誘導してくれるのです。思わず心の中で「この光景、なんかいつものどこかの風景と同じだよな…」なんて笑ってしまいました。しかしおかげさまでやる気にさせてもらった僕は一生懸命シャカシャカやり始めたのですが、なんか生産性が上がりません。園庭の端っこ、砂が乾いて白く浮き出している所に座り込んで彼女達はシャカシャカやっているのですが、そもそも真砂土の園庭からそんなに大量のさら粉が取れるはずもありません。長年同じことを繰り返しやって遊んで来たはずの彼女達、それでもそう言う検証と考察にはなかなか行き着かないようで、一途に同じ所でシャカシャカやっています。きっとこの場所は先輩達から教わり受け継いできた伝統の場所だったのでしょう。確かにここは遊具の洗い場の近くで、そこで洗われ排水口へと流れてきた粒子の細かい砂が集まる場所ではあるのです。そう、『伝統もなかなか捨てたものではない』とも思わされたのですが、いかんせん絶対量が足りません。『砂が欲しければ砂の一杯ある所へ』の発想から僕はその場をひとり飛び出しまして、砂場脇のコンクリート上の白砂が一杯降り積もった所でシャカシャカやり始めました。さすがに豊富な供給源がすぐそこにある『白砂ランド』は、効率よくさら粉を製造してゆきます。あっという間にタッパー一杯になったさら粉を女の子達に見せたなら、彼女達は大喜び。みんなで大移動して来て、そこはあっという間にゴールドラッシュの現場となってしまいました。しかし得意げな顔の僕に対して更なる精製を要求してくる彼女達。すでにペットボトルに3本分もさら粉を集めたと言うのに、まだまだ足りないと言う彼女達。熱しやすく冷めやすい僕は「ここでの仕事は終わった」と勝手に自己満足いたしまして、次のミッションを求めてその場をエスケープしたのでした。

 次にたどり着いた所で僕は「先生も一緒にやろう!」と言う言葉に誘われて、かくれんぼをしている女の子達の仲間に入れてもらいました。ちょっと心配性で先生やお母さんの姿が見えなくなるとドキドキしてしまう彼女達。そんな子達同士が連れ立ってかくれんぼをして遊んでいるのですから嬉しい成長を感じるのですが、一方で「なんでかくれんぼ?」。ただでさえ怖がりのはずなのに、「誰もいない所にじっと隠れているのは大丈夫なんだ」と不思議な想いでこの子達のことを見つめていた僕でした。かくれんぼをしつつ僕と手をたずさえ嬉しれしそうに笑っている彼女達の笑顔を見つめていると、僕も嬉しくなってきてしまいます。子どもはひとりひとりが特異で不思議な存在で、自分に理解出来ない時には受け入れがたいもののように感じてしまうかも知れません。でも僕らの心を大きく開いてその子が心開いてくれる瞬間をじっと待つことが出来たならば、この子達はきっと何かの拍子に自分のボールを投げかけて来てくれるでしょう。今日のこの子達の気まぐれのように。
 この一年間、子ども達との関わりをテーマにしながら学びを深めてきた僕らでしたが、そこではこちらからの投げかけ以上に『子ども達の想いを感じ取り受け止めることの大切さ』を実感してきたものでした。一見『ナシノツブテ』のように見える子ども達にも発信している想いはあって、それを僕らが感じ取りそっと投げ返すところから『僕らのキャッチボール・彼らに親近感を感じてもらえる関わり合い』が始まるのだと言うことをこの子達は身をもって教えてくれました。「なんで?どうして?」ではなくありのままのその姿を受け入れることが出来て初めて、僕らの目指す『キリスト教保育』へのスタートラインに立てるのだと実体験をもって気がつかされた一年間。まだまだ僕らの学びと歩みは道半ばですが、これからも子ども達に教えを乞うべく、その瞳の中の想いを見つめ一杯感じてあげたいと思っています。


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