園庭の石段からみた情景〜園だより7月号より〜 2013.7.13
<日土の自然が僕らに教えてくれることV>
 今年の梅雨前線ははっきりしない優柔不断君なのでしょうか。いっときザザッと降って「今年もいよいよ」と思ったのもつかの間、また曇天ベースの雨が降ったり降らなかったりの日々に逆戻り。夏休みを前にしたこの季節、この曇り空は暑さをしのぐカーテンとなり過ごしやすくもあってありがたいのですが、『プールが出来る・出来ない』の幼稚園カリキュラムに対しては重要問題。気温が上がらないうえにお日さまが顔を見せてくれない日には、跳びこんだプールの水に「つめたい!つめたい!」と子ども達も歓声を上げてお気の毒。もっともそれぐらいでめげないこの子達の気力と体力はたいしたもの。わーきゃー言いながらも気持ち良さそうに泳ぐ子ども達は自身の運動によって熱量を発生させ、水の冷たさなど一瞬で忘れ去ってしまうのでしょう。一方、『お水きらい、プールいやー』の子達と僕ら大人は心も身体も縮こまったままなので、いつまで経っても「つめたい!さむい!」の文句たらたら。やはり人間と言う生き物は自分の身体を動かして活動してこそ自律神経を自らきちんと整えて、酷暑の夏から極寒の冬まで健康に活動する事が出来るものなのでしょう。そう、きっとこれが今度は梅雨が明けたなら、「暑い暑い!」に変わるだけ。寒い時には身体動かし暖を取り、暑い時には汗をかきかき自然の水と風に癒されながら暑気払い。暑い時も寒い時も元気な子ども達を見習って、僕らも身体をしっかり動かして、でもでも休憩も水分も睡眠も一杯十分に取りながら、元気に健康にこれから来たる日土の夏を迎えたいと思っている今日この頃です。

 今年の子ども達の自然遊びも段々板についてきまして、『自ら発見し・考え・新たな遊びに発展させる』と言ううれしい姿を時より見せてくれるようになってきました。雨上がりの日などに子ども達と今でも通っているいも畑、長年お世話してきてくれた畑のおじちゃんがおいも達の面倒を見れなくなり、今年は雑草が『草ぼうぼう』。今までがおじちゃんに甘えすぎていたのですが、この畑を見るたびに自分達の無気力と無力加減を思い知らされてしまいます。これで例年通りおいも掘りや焼きいもパーティーを企画しているのですから、一体どうなる事でしょう。そんな想いから畑に繰り出しては子ども達と草引きを続けているのですが、毎日数人の子ども達と一緒に十数分草を引いたところで草の伸びる方が早いようで、なかなか下の大地が見える様にはなりません。そんな問題はあるのですが、サツマイモをお世話しながら成長を見届けながら子ども達とそのプロセスを体験することに意義があると、現状にくじけず根気強くお世話を続けています。
 共に畑まで繰り出してくれる子ども達もこの作業に愛着を感じながらしてくれるのですが、最近では自分達それぞれの『おもしろい!』を畑の中に見つけ出しています。葉っぱについていた青虫を見つけては「はらぺこあおむし!」と大騒ぎ。てんとう虫だってスタンダードな七星から始まって、黒ベースの二つ星に黄色ベースの黒ポツ一杯君などなど、園庭では見たことのなかった色々なてんとう虫達と遭遇しては「これなに?あれなに?」とやいのやいの言い合っています。そんな中で素敵な出会いと発見がもう一つありました。畑の隅に一株の小芋が植わっていたのですが、その撥水性の高い葉っぱにきれいな朝露が雫となってたまっておりました。葉っぱの上を水銀の様に転がり回る朝露に子ども達が目を丸くして、「なにこれ?なにこれ?」と僕に尋ねて来ます。彼らにしてみれば初めて見る朝露に、好奇心が心一杯に跳ね上がった体験だったのでしょう。僕が見ても美しい水滴のダンスをただただ葉っぱをゆすりながら、みんなでしばらく見入ってしまいました。
 その葉っぱを園庭まで持ち帰った子ども達。早速その上に水を汲み、水玉ダンスを畑に来なかった子達に見せびらかします。しかし自ら生えているときにはしゃきっとしていた小芋の葉っぱですが、ちぎった瞬間から急速に張りが無くなってゆき、とうとう真中に水がたまらなくなってしまいました。「出来なくなった!」と訴える子ども達と「どうしたらいいかねぇ」と言葉を交わす僕。あれこれいじりながら試しながら、手のひらにくぼみを作ってそこに葉っぱを沿わせてみれば再び水滴がそこにたまると言う技を見つけ出しました。その再生術を模倣する子ども達、小さな掌を一杯に広げて葉っぱのお皿を作ります。友達に「いれて!いれて!」と水を入れてもらえば、再び水滴が軽やかに踊り出しました。しかしそれもしばらくしていると「やぶれた!」。葉っぱに穴があいて水が流れ出したのです。するとある子が「こうすればいいのよ」と葉っぱを折りたたみ二重にしたなら、またそこに水がたまり水滴が出来ました。得意げな笑顔で笑う子ども達。『たかが葉っぱ・たかが水滴』でしたが、一つの自然物からこの子達の遊びが広がってゆき、子ども達の関わりが新しい遊びやアイディアを生み出して展開してゆくと言う面白い情景の一コマでした。

 また草引きを続けてゆく中で己生えのジャガイモが葉をつけ花をつけして大きくなっているのを見つけました。それを「えい!」と引っこ抜けばちっちゃなちっちゃなジャガイモがついてきたではありませんか。それに子ども達が大喜び。「わたしも!わたしも!」と取り合いになるので幾つも抜いてやったのですが、食べれるくらいの大きさのものから大豆よりも小さいようなものまであって、おまけにそんな『豆芋』さえついていないものまでありまして、もらう方としては不公平極まりない訳です。そんな中、お芋のついていなかった茎をもらった男の子は一瞬切なさそうな表情を見せたのですが、「これ、育てたらお芋になるよね」とポツリと言いました。「うん、ちゃんとお世話すればここからお芋が出来るんじゃない」と答えてやれば「うん、うん」となんか納得したような顔をしていました。その日のお片づけの時、水を一杯に張ったバケツの中にあのジャガイモの茎がつけてあるのを見つけました。そうです、きっと彼です。そののち彼がどうしたかは定かではありませんが、もしかしたらお家に持って帰って育ててくれているのでしょうか。結果はともあれ、なんか素敵な男の子の心に触れることが出来たような気がしたものでした。

 こんな文章を書きながら日々を過ごしているうちに、ある日突然四国地方に梅雨明けが宣言されました。あれほど冷たかったプールの水も心地よいほどに暑くなり、たらいに2〜3時間も張っておいた水などはもうお風呂のお湯ほどの熱さとなっています。テントを張ってその下にプールを出店し、その狭いわっかの中に子ども達がひしめく大賑わい。「暑い!暑い!」と言いながら、やっぱり夏はからっと暑い方がいい。ジメジメした冷夏では、元気も勇気も冒険心も湧いて来ません。汗を流した分だけこの子達の身体は強く大きくなってゆきます。それにお付き合いする鈍りかけた身体を抱えた大人の方がちょっとしんどいかも知れませんが、子ども達と共に汗をかきかき過ごした方が、僕らの心も身体も本来の人間としての健康を取り戻すことが出来るのかも知れません。
 春先に散髪した園庭の桜の木、あれからまたまたすくすく伸びまして、青々とした葉っぱを一面に付けこの夏を迎えました。今、子ども達との水遊びに毎日励む僕にとってこの木陰が拠り所となっています。桜の木の下にベンチを置いて佇めば、何とも涼しい特等席。そこに座り水道ホースを片手に園庭に向かって水撒きすれば、気化熱と山の風の相乗効果でなんとも心地の良い気持ち。足元と首元に水をたらしながら真夏の涼を楽しんでいます。そんな僕の元に色んな子ども達が寄って来るのですが、ベンチの隣りにちょこんと腰掛けてにこにこしている男の子が2名ありました。涼しげに水と戯れている僕を見上げながら、「僕にも水かけて」とサンダルの足を差し出してきます。その足に水をかけてやったなら「つめたい!」となんともうれしそうなニコニコ笑顔。ちょろちょろ水が出る程にしか水圧をかけていない水道水なのですが、親指でホースの口をふさげばホースの内圧が次第に高まります。そして圧力水頭が限界に高まったタイミングで指をそっとずらしてやれば、水が勢い良く噴き出て来ます。その指でふさいだホースを覗き込む素振りを見せながら、「出ない。あれれ、出ないなあ」と呟きながら自分の顔に向けつつ指を放したならば、お約束のコントの様に僕はずぶぬれ、子ども達は大爆笑。それを自分らにも「やって!やって!」とお二人さん。元々プール遊びでも顔に水がかかるのを嫌がるような子達だったのですが、こんなお調子に乗りながら水浴び・顔ぬらしも出来るようになりました。これも彼らのこの夏の成長だったと言えるでしょう。彼らの成長に一役買う事が出来た僕の木蔭の水遊びも、神様に与えられた日土幼稚園のこの環境だからこそ出来る保育の業。その事を常に胸に刻みながら、ここで行なうべき教育・ここでしか出来ない保育をこれからも実践してゆきたいと思っています。

 もも組の下駄箱の上で生き物を飼い始めてからひとつき半が経ちました。もも組の子ども達の日課は、『自分のお片づけが終わったらばら組さんのお手伝い、それが終わればミミズ取りとカエルのお世話。そしてカニさん達のお水替えが出来たなら、畑に草引き、そして最後はクールダウンの水遊び』。参集してくれるメンバーは毎日違うのですが、誰かしらがみんなのお世話を買って出てくれています。おかげさまで毎日子ども達からエサのミミズを与えられているカエル君はいつの間にやらでっぷりとした風格を身にまとい、少々大きめのミミズでも一口でぱくりと食べれるようになりました。カニ達は暑い夏に突入した今でも元気元気に暮らしています。そんな中、水槽にいた2匹のハヤのうち、一匹が死んでしまいました。これはもう一匹による『いじめ』が原因だと思われます。大きさは最初同じくらいだったのですが、ある頃から一匹がもう一方を追い掛け回す様になりました。魚の特性によくある縄張り争いのような行動だったのですが、エサを十二分に与えてもその行動がやむ事はありませんでした。最期にはでっぷり太った意地悪魚とやせ細った弱々魚の姿となり、やせた方は傷だらけでうろこもはがれてしまっておりました。こう言う環境で飼育していることによるストレスが一方を『いじめ』に走らせたのかも知れません。いえ、元々野生のものが『仲良く』なんてありえないのかも知れません。それぞれが『自分こそが生き残ろう』とする本能で行なっている行動なのだから。でもその姿は『かして!』『いいよ!』が出来ない子ども達を見ているよう。人間もその幼い心のまま年齢だけを重ねて行ったなら、きっと『自分!自分!』だけの社会性の持てない、『共存』と言う概念の元で自分を生かせない大人になってしまうのでしょう。可愛そうな一つの命の死ではありましたが、死んでしまったハヤをダシに子ども達に呼び掛けます。「ほら、『あなたが悪いのよ!』ってお友達とケンカばっかりしていたハヤ、死んじゃったよ」。「戦いごっこばっかりしていたハヤ、血が出て死んじゃったね」。友達と仲良く出来ずにプンプンしている子、戦いごっこで手加減が出来ずに相手を泣かせてしまう子達に、それぞれシチュエーションを変えながらハヤの死を題材に言葉を投げかけ訴えます。子ども達もひとつき以上に渡ってお世話して来た生き物の死を目の当たりにして、神妙な顔をしています。人間は自分の可愛がった生き物の死や自分の手を汚した嫌悪感をもってしなければ、『死』と言うものの重さを受け止められないものなのです。子ども達は口々に「お墓を作ってあげよう」、「けんかはいけんよなあ」と僕に言ってくれました。一匹のハヤの死がこの子達の心に何かを残してくれたなら、この命は自然の中で鳥に取られる以上に尊い業をなしてくれたと思うのです。この命を死なせてしまった自分の罪深さを感じながら、この命に、自然が僕らに与えてくれた教えに感謝したいと思うのです。


戻る