園庭の石段からみた情景〜園だより9月号より〜 2013.9.17
<自然の恩恵・神の恩寵>
 この夏は7月終わりの『たんぽぽ組顔見せ』の日、プログラムを終えて帰ろうとしたまさにその時に急に大雨が降り出しまして、皆が驚き右往左往したものでしたが、その日から4週間ものあいだ雨が降らない暑い夏となりました。「暑い暑い!」とこの夏なんど口にした事でしょう。しかし夏の終りに降り出した僕らの待ちわびた恵みの雨は、台風道を作り出し秋雨前線を刺激して、各地に災害を招くほどの大雨もたらせるものとなってしまいました。終わりのない日照りも止まない雨もありはしないと言うことは分かっていますが、適量を越えれば僕らの日々の暮らしはすぐにダメージを受けることを改めて教えられた夏の終り。災害で被害に遭われた人達のことを想いながら、順当な季節の巡りと気候が僕達に与えられる事を祈りながら、つつましく、でも力強く新学期を歩き始めたいと思っています。

 色々僕らに影響を与えて行った大雨ですが、それを境に確かに気温は下がった様子。体感温度も5℃位涼しくなりました。連日33〜35℃もあった猛暑の頃と比べたら体も多少楽になりました。僕ら同様日土の自然も秋への移り変わりを感じ取ったのでしょうか。あまりの暑さに姿を見せなかったやぶ蚊が今頃特大サイズになって現れたり、野山を歩けば足元にこおろぎの鳴き声を聞きつけてどこにいるのかとその姿を探したり、草むらの中に何気なく足を踏み入れたなら驚き飛び出すバッタありと、秋の季節を感じさせてくれる毎日です。そしてやはり子どもも自然の生き物なのでしょう。頭の上を舞い踊るちょうちょや草原を跳ね回るバッタ達、そしてとんぼにカマキリ・こおろぎまでもが自己主張を始めたこの季節の中にあっては、もういてもたってもいられない。新学期が始まるや否やてんこと虫かごを手に手に持って、幼稚園の裏山に繰り出し昆虫採集に勤しみつつ毎日を楽しく過ごしています。
 一度山へと飛び出して行った子ども達、ちょっとやそっとのことでは帰って来ません。『捕っても捕ってもまだ捕りたい』、狩猟民族の縄文人から派生したDNAが彼らにそうさせるのでしょうか。「捕れるだけ捕る!」、それが本来の『虫取り』と言う遊びでしょう。しかしその遊びの中で子ども達は『生命との関わり方・命との向き合い方』を自らの経験を通して学び、自らの哲学として育ててゆくのです。無抵抗な命を相手に自分の采配ひとつで生かしも殺しも出来る立場に立ってみれば、知らず知らずのうちに狂気も湧いてきます。でもその後で必ずその時の行いを悔い、それ以降その時の自分をいつまでも悲しく思い続けるトラウマの中に生き続けることにもなるのです。でもそのような経験があればこそ、命と言うものへの向き合い方をこの幼き時代において学ぶことができるのだと思うのです。昆虫と言う異形の命を忌み嫌うのも生命への不遜。親しむ振りをしてその小さな命をぞんざいに扱うのも生きることに対する驕り。相手が自分に向かって飛んできた時の恐怖感や、意図せず傷つけたり死なせてしまったりした時の感触と嫌悪感に体現される『一寸の虫にも五分の魂』の想いを体感することなしに、その命を心から尊敬尊重することは出来ないでしょう。それがテレビゲームには絶対ありえないリアル。でもその体験は他者に対する思いやりや関わり方、『ここまではやっちゃいけない』と言う倫理を自分の中に培う土壌へと昇華してゆくものとなるのです。僕らはここで、この与えられた環境の中で、この子達にこのことを教えなければいけないと思うのです。

 虫を捕った子ども達の所作を見つめながら彼らに声掛けを行います。「バッタは足を持ったらもげちゃうから、胸の所をつまむんだよ」。「ちょうは両側の羽をたたんで持たないといたんじゃうよ」。虫達へのダメージがなるべく少なくなるように僕の経験に基づく虫の扱い方を伝授すべく声を掛けます。子ども達にしてみても、自分が捕まえた虫の足が取れたり羽が破れたりすることはとっても残念なことのようで、僕のアドバイスを受け入れながら虫を扱おうとしてくれます。でも彼らにとって、昆虫を傷つけてしまうこととは『お気に入りのおもちゃが壊れてしまった』、そんな感覚に近いのかも知れません。そこに「かわいそう」と言う感情を持つことが出来るようになるためには僕らの言葉の投げかけがもう一つ必要なのです。
 羽が痛んだ蝶を見つめながら、「かわいそうだね。そっと逃がしてあげようか」と声を掛ければ子ども達もそんな気がしてきて「かわいそうなことをしちゃったな」と言う顔になりますし、逃がした蝶がふらふら空へと舞いあがってゆく姿を見たならば「がんばれ!」と顔を輝かせながら応援してもくれるのです。死んでしまった虫を草葉の陰にぽいっと捨てて見せたなら子ども達も命の重さをその程度のものと捉えるようになってしまいますが、お墓を作って「天国で元気に暮らせますように守ってあげてください、アーメン」と一緒にお祈りしたならば、この子達は命の重さを実感し大切に受け止めてくれるようになるのです。「一緒にお祈りしよう」と誘ってお祈りする時の子ども達、しっかり目を閉じて最後に心からの「アーメン」を唱和してくれます。クラスの礼拝の時には薄目を開けてお祈りなどしもしないような子達の方がなおさら一生懸命…と言った姿が何とも興味深いのですが。でもそれこそがこの子達が今を生きていることのリアル。小さな命を自分の目の前にして自らの関わりの結果痛めてしまったり死なせてしまったりしたことに対する懺悔とそこから初めて生まれる思いやり。そしてその命のために心から捧げる神様への祈り。僕らが口でいくら言っても伝わらなかった想いが、命との関わりの体験を通して彼らの心に宿り、その命のために自ら祈ってあげようとする想いを芽生えさせ、心豊かに育てて行ってくれるのです。僕らに与えられたこの豊かな日土の自然の恩恵と、それを生かし昇華させてくださる神様の恩寵に、やさしくそっといだかれながら。


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