園庭の石段からみた情景〜園だより10月号より〜 2014.10.9
<秋の実りの季節>
 今年の秋は全く秋らしい秋でして、涼やかでありながら陽だまりの中では温かい、そんな陽気でうつろいながら秋の様相を深めているようです。例年なら9月の終りまで残暑厳しく、「もうあっつー」「熱中症は大丈夫?」とそんな会話で終始する運動会本番までの日々でありましたが、今年はそんな言葉を一つとして聞くこともなく子ども達と元気に過ごせていることに感謝です。朝一からサッカーや鬼ごっこをしようと園庭に飛び出してゆく子ども達。そんな彼らは運動会練習の終わったお昼からもそれぞれの遊びを楽しみたいと野山に繰り出し駆け回っています。心も身体も健康でなおかつ心地良く過ごせる気候とこの環境が、子ども達の成長にどれだけ寄与しているかと考えた時、改めて神様に感謝したいと思ったものでありました。心や身体が不健康では何をやっても「つまらない」「面倒くさい」としか感じないものですし、うだるような暑さの中、部屋でだらだら過ごしてみても感動も発見も得られるものではありません。『思わず体を動かしたくなるような心地の良い気候』、『自分の想いを満たしてくれるものがきっとあるに違いない山や園庭』、そんな環境の中に飛び出してゆくことによって初めて、子ども達は自らの想いで新たな冒険・未知なるチャレンジへと立ち向かってゆく『動機』を手にすることが出来るのでしょう。入園・進級から6ヶ月、それぞれ自分自身に手ごたえと更なる可能性を感じられるようになってきたこの子達にとって、秋とはそんな季節なのかもしれません。

 ばらさん達、ついこの間まで先生に「作って!作って!」だったヨウシュヤマゴボウの色水ジュース作りを、自分達で挑戦してみようとする姿を見せてくれるようになりました。やり方はこれまで先生の作法をじいっと見つめてきたので、しっかり分かっているのでしょう。自分達で「ああやって、こうやって」とやりながら色水ジュース作りに励んでいます。でもどうも思うように事が運んではくれません。井戸水を汲むために大タライの脇に座り込んで、木の実の入ったビニール袋に水を入れている子ども達。ぺっちゃんこビニールを『入れ物』として機能させるために、必要な技がいくつもあるのがこのビニール袋。入れ口を探し広げて物を中に入れる作業、口をつぼめて内容物がこぼれないよう中に留めるテクニック、そして出したいところで出したいものに中身を上手に移す工程と、微妙なコントロールをもって制御しなければ出来ないものがいくつもいくつもあるのです。ビニール袋に水は入れたいけれども中身をこぼしたくない子ども達ですが、ついつい欲張っちゃって一杯一杯水を入れてるうちにタライの中にジュースがじょわー。手元に残ったものは絞りカスが入ったビニール袋だけでした・・・、なんてこともありました。
 子ども達の困難と苦難は続きます。袋に入れたヤマゴボウの実をビニール越しに潰してゆけば自分の手を汚すことなくジュースを絞り出せるのですが、『実を潰して色を出す』と言う原理が分かっていない子ども達は、わずか数個の実が入った広いビニール袋の何にもないところを一生懸命もみもみもみ。「ジュースできーん!」と自分だけ色のつかないビニール袋を恨めしそうに見つめます。「このぷちぷちを潰すんだよ」と教えても「???」。もう少し修業が必要そうな男の子でした。
 さあ、そんなこんなやりましてとうとう袋一杯に出来ました『ぶどう色ジュース』。それをペットボトルに入れる段になって最後の悲劇が訪れます。ペットボトルの上にジョウゴを置きましてその上から色水を注ぎ込もうとしたのですが、ビデオを持っているために片手しか自由が利かない僕の腕と、細かいコントロールが出来ないばらさんの2本の腕がペットボトルの上で錯綜します。袋の口を持っている男の子に「袋のお尻を持ち上げて!口はちょっとゆるくして」と指示を送るのですがそんな言葉分かるはずもない男の子。ペットボトルを支えて完全な手詰まりになっている僕は「あーだこーだ」言うことだけしか出来ません。そんなこんなしているうちに最後はジョウゴとかけ離れたところで袋の口が開いてじょわわーわー。ペットボトルには一滴のジュースも入ることなく全部地面に流れ落ち、「あーあーあー!」と半泣き顔で滴り落ちたジュースを見つめていた男の子でした。
 それではともう一度ジュースを作り直し、ふるいで濾しつつ平たい底のホーロー鍋へと移す作業から始めることを彼に提案してみます。不安定な要因を取り除くことで、彼の成功確率を高めようと言う作戦。大きなふるいと器の上にビニール袋をかざしまして、そこでまるごとビニールからその手を離したとしても全て器の中に入るような設定です。そのような状況で「口を緩めて」「ビニールのお尻をあげて傾けて」と指示をしながら彼のミッションを見守っていた僕。やはり『右手で持った袋の口を緩めながら左手を駆使して内容物を器に流し込む』と言う作業自体の難しさと、僕の難解な『口頭指示』を理解することの難しさがあいまって、結局またまた「じょわー」となってしまったのですが『フェイルセーフティー』の設計思想が功を奏して下の器がそれ全てを受け止めてくれたのでありました。そしてそこからジョウゴを使ってペットボトルにジュースを並々と詰め込むことが出来た彼でした。

 そんな彼らの姿を見ていると、自分のしたい想いとそれに反して思うように動いてくれない自分の身体が、その心をイライラさせているようなそんな様子を感じます。『誰が悪い訳でもないこと』『今の自分の実力』を自分自身で受け止めて、そこから努力したり諦めたりの次のステップへ移行出来るようになる姿、それが成長と言うものなのでしょう。でもこの子達は『出来なかった』と言う事実は認識出来るのですが、「その原因は?」なんてことはきっと分からない。僕らが「なんかこの子、イライラしているなぁ」と感じる時は、きっと『なんで出来ないのか分からない』と言った得体の知れないものから生ずる不快感が彼らの心を支配している真っ最中なのでしょう。しかし今回のような事例においては状況や因果関係も見て取りやすく、それを解決するための手助けをしてゆくことでその子の情緒を落ち着かせる方向へ導いてゆくことも可能です。ご機嫌直しには『自分の手を使って出来た』と言う実績がきっと何よりの特効薬。最後の最後に自己実現の成功体験を十分に味わうことで満足出来た彼の想い。次は『自分でやるにはどうしたらうまく出来るのか』と言う挑戦に自ら立ち向かって行ってくれることでしょう。でもその因果関係や彼らが何にジレンマを感じているのか分からない時も往々にしてあるものです。そんなときに「あれがダメ」「こうすればいい」なんてアドバイスはあまり効果的ではありません。『出来ない自分』を突きつけられる切なさと、それが出来ない自分自身への自己否定が、その心をかたくなにしてしまうのでしょう。だからそんな時はただただその子に寄り添って、気持ちが落ち着くのを一緒に待ってあげればよいのです。

 自分の思い通りに動かず機能してくれないものに対して苛立ちを覚えるのは、僕らも子ども達もきっと同じ。せっかく「こうしたらいい」と教えているのにその言葉通りに動いてくれない子ども達に対して僕らは苛立っていないでしょうか。それもこれも僕ら人間の成長の過程において、頭が先行して進化・成長してゆくためだと思います。人は自分で経験したこと又は人がしていることを見て疑似体験したことを、すぐに頭の中に取り入れて自分のものにしてしまいます。子ども達の泥団子作りから始まって僕らのアプリケーションソフトの活用まで、外部情報の入力に基づく「こんなことが出来るんだ。それなら自分もやってみたい」の想いは急速にそして実行力を持って自分の中に広がってゆきます。だって『出来る』って知ってしまったのですから。建設・発展的に考える子ども達も『自分もやりたい』って思って当然でしょう。でもその後のアクション&チャレンジによって『こういうことが出来る』と言うのと『自分にも出来る』『相手にさせることが出来る』と言う事象の間には大きなギャップが生じるものであることを、この子達・そして僕らは身を持って体験することとなるのです。『こんなことが出来る』と言う禁断の知恵の実を手にしてしまった子ども達、それが自分には『出来ない・適わない』と知らされた時の衝撃を受けて彼らはカンシャクを起し地団駄を踏み泣き喚くのです。
 乳幼児の頃はそんな反応を示していた子ども達、しかし成長の過程においてその経験の繰り返しによって『自分にはまだ出来ないことがあるのだ』と言う自意識を育てながら鮮鋭過ぎる心のゲインを下げてゆきます。それが『場になれる』『状況に対応出来るようになる』と言うこと。自分を多少なりとも客観的に見つめられる様になって来たならそんなことも出来るようになって来るのです。そしてそれと共に現状以外の方法論をもって『自分の欲求を満たす術』を体得してゆくのです。その第一が『他人を使って思いを満たす』と言う行為。そう、「誰かにやってもらえばいいのだ。自分の想いを代わって実現してもらえばいいのだ。」と言うこと。自分が出来ない事実に変わりはありませんが『出来た結果』を手にすることは出来るのです。そこで他人への依存度が急に高まって来るのです。「○○してー」と自分の意思を表明出来るお年頃になれば「あれして、これしてー」とひっきりなしに自分の要求ばかりを突きつけるようになる子ども達。相手の都合やその場の状況や雰囲気など考慮に入れてくれるはずもなく、それが満たされなければこれまた「ふんぎゃ!うんぎゃ!」の大騒ぎ。しかしこの子達が一番の不満として感じるものは要求が通らなかったそのことよりも自分の想いに対して「ダメ!」「NO!」と言われたこと、つまり自分を受け入れてもらえなかったと言う『自己否定』の絶望感によるものです。ならば相手の想いの幾分かを満たしてあげながらも、『教育的見地』からこの場を子どものしつけの機会と位置づけること、『大人の不利益』を継続的に生じさせる場にならないよう子どもとの間の落とし所を模索してゆくこと、へのアプローチをバランスよく行ってゆくことが肝要なのでしょう。相手の要求に100%応えられないそんな時には「ダメ!」の一言で切り捨ててしまわず、「じゃあこんなのは?」と彼らにとって魅力的且つ自分の負担も軽減されるような提案をすることが出来たなら、彼らも意外と乗っかってくることもあるものです。お互いに正面から力押しでぶつかり合えば被害も大きくなるものですが、こうやってこちらから間を外して話しかけたり予想外の提案を聞いて気分が変われば、それまで固執していた自分の想いもふっと変えることが出来るような、そんなことも往々にしてあるものなのです。
 そして次の成長の過程が『自分で出来るようになりたい』と願い、それに向けて努力出来るようになると言うことです。僕らでも自己課題を設定した上でその達成度に対して喜びを感じることがありますが、子ども達もそれは同じ。出来ないことを人にしてもらって満足していた子ども達が『自分が出来る』と言うところにプライドを感じ、自分でその目標を達成するために自ら努力をするようになるのです。その中でも出来ない自分に対して「むきー!」となってしまうことはありますが、ここではやるもやめるも自分次第。『やりたい』『出来るようになりたい』と願うのは自分自身の心なのだから。だから想いが強ければ強いほど努力も続けられるし自分自身もがんばれる。今回の運動会、そんな自己修練の姿がすみれさんの跳び箱練習の日々の中にも垣間見れて、嬉しく見つめていたものでした。成長の歩幅やそんな想いに至る覚醒の時はみんなみんなそれぞれですが、今確かにこの子達はそんな季節を迎えようとしているところなのです。暑い夏を努力と根性で大汗かきながらも乗り越えて、ここまでがんばって来ましたこの子達。そこで流した汗や涙と引き換えに、心と身体にしっかり体力もつけました。そんな自分自身を喜び見つめながら、更に高みを目指しながら、秋の実りのその時を彼らは今迎えている所なのです。


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