園庭の石段からみた情景〜園だより11月号より〜 2014.11.15
<帰郷U>
 今年も「『秋の恵み』を神様に感謝いたしましょう」の言葉をちょうど子ども達に投げかけていましたその時分、幼稚園は二人の卒園生を迎えまして共に過ごす時を神様から与えられました。中学校の職場体験にてこの日土幼稚園を二人の女の子が実習先に選んでくれたのです。小学6年生まで日曜学校や夏休みのキャンプに参加してくれていた彼女達、中学生になってからは部活や用事で来れなくなって、久しく顔を合わせ話をすることもありませんでした。それでも彼女達の登下校時、元気に中学校に歩き通う姿を見かけては、車から手を振り挨拶を交し合っておりました。そんな彼女達がこの幼稚園のことを覚え実習先に選んでくれたこと、本当に嬉しいことでした。それはきっと『心の種まき』の大事さと『感謝の想い』をもう一度、僕らがこの心に思い起こすことが出来るようにと、神様が与えてくださった御心だったのではなかったのかと、今そう思うのです。

 事前の打ち合わせで久々の再会を果たした会議室、彼女達は自身の所信といたしまして「日曜学校やキャンプで小さい子達と触れ合ってお世話などをしたその時に、子ども達と関わる仕事がしたいと思いました」と僕らに伝えてくれました。そう、満3歳からの『教会幼稚園』の園生活から始まって、小学生時代に日曜学校とつながることの出来た体験がこの子達の心に一粒の種を撒いてくれたのです。日曜学校では礼拝後のお楽しみとして紙芝居の読み聞かせを行っているのですが、彼女達に時よりその役をお願いしたことがありました。そんな時、もちろん断ることも出来るのですが彼女達は進んでその申し出に応えてくれて、小さな子ども達のために奉仕をしてくれたのでありました。学校での音読のように誰が評価するものでもない、もちろん義務でもカリキュラムでさえもありえない、そんな小さな奉仕において自分を表現しつつ文を読みそれが子ども達の笑顔を生み出した、そんな体験とそれに伴う喜びがこの子達の心に残っていたのかも知れません。また夏休みのキャンプは日土・三瓶・八幡浜の三教会合同で行われるものなのですが、小学校低学年と幼稚園児が参加者のほとんどを占める中、彼女達はよくよく小さな子達のお世話をしてくれたものでした。それは年が離れているせいなのかはたまた他教会の子達だったからなのか、「あれしてこれして!」と決してリーダーぶることなく常に献身的に自分の出来る役割を自ら担ってくれていました。自らの自由意思で集まって来た集いの日曜・教会学校、そこには『義務やノルマ』と言ったものは存在しえず、神様だけが自分の使命や役割をそっと心にささやきかけてそれを自分の想いで実践してゆく、そんな不思議なコミュニティー。そこで培った彼女達の『幼児保育』に対する理想とイメージは素敵に実習の現場でも実践されておりました。
 実習においてもそんなに自分を前に出しながら子ども達を引っ張る様子では決してなかった彼女達。実習後の批評では「声が小さい」とも言われておりましたが、まあ幼稚園の頃から「私が一番!」と言うタイプではなかったお二人さん。そんな所はあの頃と変わらず、むしろより『おしとやかな乙女』として素敵に成長して来た証でしょうか。そんな彼女達でしたがその姿をじっと見ていると、砂場にしゃがみこむ子ども達に寄り添ってずっとお付き合いしていたり、「ブランコ押して!」と言う男の子にいつまでもいつまでも付き合って押してくれたりと、そんな姿がよくよく目につき印象に残ったものでした。『ひとりのその子』にそっと寄り添うことの出来る保育、それは僕らが実践を目指し日々聖書に学び研鑽を積んでいる『キリスト教保育』のあるべき姿なのですが、それがこの子達は自然に出来ているんだなと思うと共に、自分達もこの姿をもう一度思い出し実践してゆかなくてはならないと彼女達に改めて教えられたような気がしたものでした。
 でもこれが『仕事』となるとなかなか実践出来ないと言うのが我々教師のジレンマです。いつも一人一人にずっと寄り添い目を向けていたいと願ってはいても『教師一人』対『クラスの子ども十数人』、目が届かないこともあればその子の心の痛みに気付いてあげられないこともあると言うのが現状です。だからこそ心を痛めた子の打ちひしがれた姿に出会った時は、他の誰をおいてもそこに駆けつけ寄り添い慰めてあげたいと、いつも祈り願っているのです。心迷い悲しみの深い淵に転げ落ちた1匹の小羊を探し助け出すそのために、残りの99匹をその場に残してゆくことになろうと分かっていても旅立って行った羊飼いのお話のように。実習生達の姿を見つめながら、そんなことを想いながら過ごしたこの数日間でした。

 僕らは日頃、子ども達の危険やトラブルの芽を出来るだけ取り去り摘み取りたいと、あちらこちらに目を配りながら子ども達に声掛けしたり指導したりしています。でもトラブルを100%未然に防ぐことは本当に申し訳ないことなのですが出来ません。子育てを生業としている者が何を頼りないことを言っているのかと御叱りを受けるのは重々承知。しかしだからこそ僕達はその事例やトラブルを神様から与えられた課題としてしっかり受け止めながら、そこから『何を子ども達に伝えるか・何を学んでほしいのか』を教えてゆくための教材へと昇華させようと、真摯に向き合っているつもりです。そしてそのことは教科書や塾で教えられる通り一遍等の公式やセオリー・常識と言ったものからは決して掴み取ることの出来はしない、自身の心と身体に実像の伴ったメッセージをこの子達の心に刻み残してくれるものと信じているのです。そしてその実体験を伴った学びがこの子達に『問題解決能力・対応力・危険予想能力・相手を思いやる心』など、これから社会の中を歩いてゆくために必要な能力の分化促進を促し助長してくれるものになると、そう信じているのです。迷子になった小羊はその迷子にさえならなければ、例え話に残るような経験をすることもこんな危険な目に合うこともきっとありはしなかったでしょう。でもそれと共に『おりこうちゃん』であり続けた場合には決して知ることの出来なかったであろう『イエス様の元から離れさまようこと』の心の不安も、『イエス様がこんなにも自分を愛していてくださっている』と言う実感も、知ることは決してなかったはず。僕らにとっても不意に訪れるアクシデントは、きっと神様から与えられたメッセージ。だから僕らはただただその時に備えながら祈りながら、この子達がそこから立ち直りそこから新たな自分を掴みとることが出来るようにと、共に寄り添い支えてゆく存在としてここに控えているのです。私達もイエス様に倣い、子ども達を導いてゆこうとする羊飼いです。子ども達の心が迷子になってしまったその時にこそ、自分のすべてをかけてそのさまよえる魂を訪ね探し抱きしめて、その不安な心を慰めてあげるものでありたいと思うのです。そしてその失敗の体験をもってして、この子達の心に自らを省みることの出来る心と『赦し合い・譲り合い・愛し合う心』を育んで行きたいと願っているのです。それは一挙手一投足には達成できるものではありません。日々の子ども達同士の関わり合いや遊びの中で、何度も繰り返しぶつかり合うことによって、それを教材にこの子達に諭し教えを説きながら、共に育ってゆくことによってちょっとずつその心に種を蒔いてゆくものなのです。
 そんなことを考えながら、この二人の中学生の幼稚園時代を思い起こしてみたならば、彼女達も彼女達なりに友達との間で自我をぶつけ悩み合い、その関わり合いの中で一歩一歩成長して行ってた姿を思い出しました。おませでお口のまわる女の子が一杯いました彼女達の卒年次。それに対して『ほわーん』とはたまた『あだあだ』している男子が一杯いましたあのクラス。自分の方が分かるがゆえに、自分の正義の想いを言葉にしたいがそれゆえに、クラスがもめることも一杯一杯ありました。でも『誰が正しい』それだけじゃない、『自分が言いたい』それだけじゃない、みんなの想いを汲み取りそれを積み重ね合うことで、互いに寄り添い分かり合えると言ったことを学んで来ました彼女達。それが更に8年間の時を経て今のこの子達の素敵な所作の元になっているそのことを、今嬉しく感じているところです。

 今回の実習の中で担任と共にクラス活動の中に参加をしているその際に、先生が子ども達に投げかける言葉を自分も一緒に受け止めながら、求められていることが分からない子や出来ない子どものそばにそそっと寄り添っていました彼女達。その子の耳元で「○○するって言ってるよ」とそっとささやき助け舟を出すのです。それが教師の想いをしっかり受け止めながら行動している姿に僕には見えて彼女達の成長と言うものをよくよく感じたものでした。複数の教師で一つのクラスを運営してゆくことを『チームティーチング』と呼ぶのですが、実際にはこれが難しいミッションです。『欲しい時の手助け』が上手く入れられたならこのシステムはとても効果的に機能するのですが、『自分の想いと違った介入』は時に相手を苛立たせ、現職の職員同士でもなかなかに『いつも百点』と言う訳にはゆかぬもの。それを少しでも高めてゆくには『周りの状況を観察する力』と『相手の先生はそして子ども達は何を困っているのだろうと察する想像力』を、幾つになっても鍛え培い養ってゆかねばならないと言うのが僕らの現場の課題です。それを誰にも教えられずとも素の自分で出来る彼女達、卒園からの8年間で『人との触れ合い・付き合い・学び合い』をいくつも繰り返し積み重ねながら、沢山のことを得とくしてここに戻って来てくれたんだなと、本当にうれしく思ったものでした。

 また今回の来園の中で彼女達、「昔の私達の写真やDVDはありますか?」と尋ねて来まして、一生懸命そこに残された自分達の姿と軌跡を見つめ確認しておりました。中学生時代の僕だったらそんな恥かしい代物、「見せてください」とは決して言えはしなかったでしょう。そこが女性の大きさであり自分を省みれる心を持つ人の懐の深さと言うものなのでしょう。でもこうして自分のアイデンティティーを確認し、自分達の足跡を振り返りまたこうして人生の岐路を模索する時、彼女達の巣立った幼稚園が今もここにこうしてあり続けていることのその意義と意味を、彼女達の想いによって今回改めて感じたものでした。この子達は人生に喜び迷い・省み疲れたその時に、自分の人生の一番最初に一番輝いていたと感じるこの場所を再び訪れたいと願うからこそここにやって来てくれるのです。そんな卒園生の方々は決して彼女達だけではありません。年末年始・お盆の帰郷のその時期に、毎年数人の来園者が懐かしい母園の門をくぐりここを訪ねにやって来ます。そんな人々の『帰郷』を待ちわびながら、そんな方々の想いをずっと大切にしたくって、僕らはこの日土幼稚園を今もこうして続けているのかも知れません。
 最終日、彼女達にも大人の礼拝に参加してもらい実習が全て終わりました。僕らが大切にしている礼拝はキリスト教保育の大切な研修です。キリスト教保育は一冊のテキストを読んだだけで「あーこうやればいいのか」なんて解が決して得られるものではありません。何年務めても何十年この仕事をやっていても、ひとりひとり違う子ども達とのひとつひとつ異なる関わりに自分の答えを出そうと言うその時に、指針となるものこそが『イエス様の教え』であり『聖書の御言葉と神様の御心』なのだから。自我の押し付けでは決してない『神様の御言葉と御心に適う保育』、僕らが目指している保育の姿を彼女達が礼拝の中に感じてくれたなら、なによりうれしいことだと、僕はそう思うのです。今回の帰郷、それは僕らにとってそして彼女達にとって、またこの幼稚園と教会にも色々なことを気づかせ改めて教えもしてくれた、やはり神様から与えられた『秋の恵み』だったと思ったのでありました。


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