園庭の石段からみた情景〜園だより6月号より〜 2014.6.5
<神様の賜物に依り頼みながら>
 夏のまぶしい太陽が園庭一杯に降り注ぐ頃となりました。それでもまだ風は涼しく暑さも例年よりも控えめな、夏の入りを過ごしている今日この頃。今年は雨が降って新たな破竹が顔を出して来るそのたび毎に、山に入ってはタケノコ採りに勤しんでいる子ども達です。また恵みの雨が降った後、幼稚園や裏山に顔を現わすのが日土のゆかいな仲間達。雨上がりの山沢をお預かりの子達と覗きこめばサワガニが一度に10匹も捕獲出来たり、湿り気の残ったコンクリートの壁や犬走りを探してみたなら生れて間もないデンデン達が10匹も20匹も這いつくばっていたり。さらには台所裏の水槽の中では大きなヤゴを見つけたり、山水から『バスの道』へと上がって来てよたよたしているイモリ君を幼稚園に連れて帰ったりなどなどなど。いよいよ山の生き物達が夏に向けて、その活動を活発化させている姿をよくよく目にするようになりました。僕らも彼らからまた元気と勇気をもらっているところです。
 先月の続報、エサを食べずにみんなで心配したハヤの『チビスケ君』もあれから元気に大きくなりまして、おかげさまで今では水面に浮かぶ大きな粒状エサにも飛びついて行けるようになりました。他の『デカハヤ』に負けじと競り合うその姿はもはやあの弱虫ハヤではありません。神様にその時を与えられ、子ども達のまなざしと応援に支えられ、『生きる力』を勝ち取ったその凛々しい姿をみんなでうれしく見つめ見守っています。

 僕がそんな日土の生き物達をそのたび毎に捕まえて、飼育ケースで飼い始めてしまうものだから、子ども達もそんな僕に感化されてデンデンやカニカニ君を捕まえては幼稚園へと持って来てくれています。そんな訳であちらこちらのカニ達を一同に集め飼育ケース三箱分にも人口の増えた『カニカニランド』や、それぞれの独立自治権を譲らない子ども達が個別に持ち込んだ『デンデンケース』があっちにもこっちにも置かれています。一方『ファッション』でデンデンケースを持ち歩きたいばら組の女の子、大きく手を振り腕振りケースをぶらんぶらんさせるものだから、そのたび毎に中のデンデン君がカランカラン言って殻をあちらこちらにぶつけています。「デンデン君が目を回しちゃうよ。殻も割れちゃうよ」と彼女に自重を促すのですが、その時は分かった風でもまたまたそのうち「カランカラン!」。こんな女の子に捕まったカタツムリと将来のボーイフレンドは「彼女に振り回されてお気の毒…」と言うより他はないのでしょうか。そんな彼女にただただ『デンデン君の想い』を代弁し続け、彼女の『思いやりの心の発露』を願い祈っている僕なのでした。
 一方、僕の飼育ケースをよくよく覗き込んでいたもも組の男の子。持参したデンデンの飼育ケースには卵の殻と縦に切ったキュウリがきちんと入れられて、デンデン達が大事にされている様子をよくよく感じさせてくれました。皮だけをきれいに残してデンデン達に食べ尽くされていたキュウリの残骸が彼にとってはなんとも印象的だったのでしょう。またカタツムリのエサとして飼育本に記載されていた『卵の殻』を飼育ケースに入れてみた僕に、しきりに「なんで卵?」と聞いて来たその男の子。理由がその本には書いてはいなかったので、「カタツムリが殻を作るのにいるんじゃない?」と推論して聞かせた僕の言葉に「なるほど、卵の殻は必要だ」と納得しそう思ってくれたのでしょう。『デンデンの大好物=キュウリ』、『デンデンに必要なもの=卵の殻』の観察・研究結果が自分の飼育ケースのデザインを彼にこのようになさしめたのだとしたならば、彼の研究者としての才覚はかなりのものと言えるでしょう。「よくよく人の話をじっと聞き、観察対象をじっと見つめることから自ら学びを得ることの出来る子だな」と感心しながら見つめています。「将来、どんな発見や開発・発明をしてくれるのだろうか」と楽しみな想いを抱きながら。

 生き物と触れ合い向き合う中では、小さな命の『生き死に』が必ずついて回るものです。いつも『捕まえた生き物は自分でお世話出来ないのなら、必ず逃がしてあげる』と言う約束の元、観察・勉強・研究・そして情操教育のために僕達は『生物部』としての活動を行っています。子ども達も段々とその想いが分かるようになって来てくれたようで、「かわいそう」とか「よろこんでいるね」と小さな命達に対して優しさを持った感情移入をしています。しかし若さ故に、知識が届かなかったそれゆえに、死なせてしまう命も無くなることはありません。「虫は暑い所に置きっぱなしにしておくと死んでしまうから、虫かごは涼しいところに置いておいて」、その言葉を覚えていてかある男の子、小さなヒシバッタとカマドウマの入った虫かごを日陰の母屋入り口横のコンクリートの上に置いておいたのですが、そのまま忘れて違う遊びに飛び出して行ってしまいました。お日様が高くなるとともに日陰だったその場所は銀銀の太陽光を浴びるひなたへと変わってしまい、気がついたときにはカマドウマの方が死んでしまっておりました。そのケースを見つけた僕は持ち主を探し出し、『この場所では時間と共に日陰がひなたに変わってしまうこと』を教えた上で可愛そうなことになったカマドウマを一緒にお墓に埋めに行きました。決して悪意があった訳ではなく、大事にお世話したいと言う想いから日陰にちゃんと置いておいたのに、少ししょげたような表情で虫かごの中を見つめていた男の子でした。
 してしまったことはしょうがない。そのことから『学ぶ』ことこそこの子達にとって大事なことなのだと、僕はそう思います。だからこの子達の失敗を彼らの目の前に掲示しながら反省と回心を促すのです。その男の子とムシムシ仲間を伴って、僕らが向かったのは『ツバメ君のたまごのお墓』でした。以前ある男の子が、ツバメが門の上にかけた巣を中の卵もろとも虫網で叩き落としてしまった事故がありまして、その時に作ったお墓がお山の入り口に墓標と共に設けられています。そこに割れてしまった5つの卵を埋めた後、みんなで「つばめくんが天国で立派に大きくなれますように」と一緒にお祈りをしたのでした。そのことを忘れない為に、時々「今日はお墓にお花をあげに行った?」と投げかける僕に、子ども達は野の花を摘み摘みお墓参りをしてくれています。そしていつしかその場所は『みんなのお墓』へとその姿を変えまして、図らずも虫を死なせてしまった時には子ども達は自主的にそのお墓にその遺骸を埋めてお花を奉げている様子。今回もみんなでそのお墓に足を運びまして死んだカマドウマを埋めた後、一緒にお祈りをした僕らでした。そう、まだまだ過ちはなくならず死なせてしまう命も少なからずありますが、この子達の小さな命に対する思い、自然に対する向き合い方に確かな変化と成長を感じる今日この頃です。僕らが決して理屈をもってしても教えることの出来ない『いのち』について、自然は犠牲を払いながらも実践と体験をもって子ども達にその尊さを教えてくれているのです。人は自分の失敗を後悔することによってのみ、本当に自らを悔い改めることが出来るのです。そう、繰り返し繰り返し失敗することによってのみ、子ども達は事の重さを感じ受け止めることが出来るようになるのです。

 最近このことを考えるたびに僕が想いを馳せるのは、そのことを意図しつつ生き物の命を園児達に扱わせている自分の罪深さについて。そんな時に合わせて思うは『私達のために自らの命を神様への奉げ物として奉げたイエス様の十字架』なのです。『虫けら』とイエス様の命を同等に置くことは不遜極まりないことではありますが、その時の『気分の高揚・排他的感情・嫌悪感・目先の損得勘定・自己正当化』などの想いが僕らを深く考えることから遠ざけて、心のまなこを覆い隠し『過ち』を衝動的におかさせてしまうのが人の業。その過ちに気づくことの出来ない人類としての稚拙さと、その『自我を持った人類』であるが故に己の罪深さを認める事の出来ないジレンマとを有し、でも人は自分を否定しては生きてゆけない生き物だから罪を認めた上でそれを赦してもらえなければ、生きてゆくことが出来ないのです。
 そんな『自分自身』を省みるために、僕らは自らの犯した罪を自分の目の前に直視して、自分の心にイタミを感じることが必要なのです。人は忘れてしまう生き物です。その時心にイタミを負い、もう二度と繰り返さないと誓ってみても、人の心は必ずそのイタミを薄らげ忘れさせてゆくもの、それが人間と言うものなのです。そう、だから前を向いて未来に向かって歩んでゆける素晴らしい存在なのですが、でも忘れてはいけないこともあるのです。だから繰り返し繰り返しそのイタミを心に覚え、自らの過ちを思い起こし省みる必要があるのです。最近それが僕らにとっての『礼拝』と『生物部』なのかも知れないと、思うようになりました。優しい想いで接しているつもりでも、相手のことを思っているつもりでも、それは自分本意の思いやり。ましてや自分の欲望や欲求を満たすために事を成そうとした時には、人のことを思う余裕もありません。さらには『心に魔が差す』と言われるようなそんな時には、相手が悲しむと分かっていても、いえ相手を傷つけるために画策さえをも計じてしまう、それが我々が『罪深い人間』と言われるゆえんであり、そんな私達を赦し罪から救い出してくださるのが『イエス様の十字架の死』なのです。
 日土幼稚園では毎週の合同礼拝で子ども達に聖書のお話を説き明かし、『神は愛です』『互いに愛し合いましょう』などの聖句がたたえる神様の御業や教えについて共に学ぶ時を持っています。「子どもには分からない」と思わず、聖書の言葉をそのまま子ども達に伝えることの大切さを僕らはこの時間に何度も教えられて来たものです。先生の言うことを聞かずにいつも叱られてしまうような子が、「先週は・・・」と前週を振り返りながら話し出した潤子先生の言葉を先回りして、「あれはああだった。そしてこうなったんよなぁ」と聖書のお話を朗々と語り出したこともありました。讃美歌で「…みんな創ってくださった、優しいお方はどなたでしょう」と歌い、「だれかなぁ?」と子ども達に問えば「神様!」「イエス様!」と矢継ぎ早に答えを返してくることも度々です。子ども達は僕らが思う以上に神様のお話にしっかりと耳を傾け、そこで僕らが何を語りたいかをちゃんと感じとってくれているのです。
 でもそれはおりこうちゃんの模範回答。『どう答えたら僕らに正解と言ってもらえるか』がよく分かる頭の回る今時の子ども達。でもそれが『自分のこととして出来るのか』と言うことはまた別問題。「互いに愛し合いましょう」と成句を毎日唱えているのに、友達とのいざこざは絶えません。でもそれがこの子達の繰り返し繰り返しの学びの教材となるのです。自分の想いを満たすことの出来なかったジレンマと、普段は仲の良い友達との関わりがうまく出来なかった後悔と、自分と相手の憤って複雑に交錯してしまった感情を、大人の介添えを受けながら解きほぐしてゆく実践の中で、『人間関係の修復』のお作法をこの子達は学んでゆくのです。その時ほど「互いに愛し合いましょう」の成句が重みを持ってこの子達の心に響くことはないでしょう。『どちらが悪いかはっきりさせましょう』ではなく『赦し合いましょう』と教えているこの御言葉は子ども達の実体験をなくしては彼らの心に響く言葉にはきっとなり得ないものだから。過ちを繰り返さない為にも状況の整理は必要ですが、最終的には「ごめんね」「いいよ」の和解に向けて僕達も、聖書の御言葉を心の中に捜しながらこの子達の間にこの身を呈している毎日です。事例によって成句も様々、小さな命達にむげなことをしてしまった時には「人にしてもらいと思う事を人にもしなさい」と教え諭し、グループ活動中にいざこざが起こったなら「思いをひとつにしてかたく結び合いなさい」と励ますのです。自然の生き物と聖書の御言葉、神様が与えてくださった賜物に依り頼みながら祈りつつ、子ども達の心に響くような想いとメッセージをこれからもしっかりと投げかけてゆきたいと思うのです。


戻る