園庭の石段からみた情景〜園だより7月号より〜 2014.7.12
<生きとし生ける命に感謝して>
 7月に入りました。梅雨の終わりの兆候か、ぱらぱらと降っていた雨もまとまって降り注いで来るようになりました。八幡浜市内でも国道に土砂が覆い被さって生活道をふさいだり、近隣地域の停電を引き起こし多くの世帯で生活に支障を来たしたりしています。それに追い討ちをかけるように僕達の生活圏を横断してゆくことが予測された台風8号の猛威に、自らの無力さとやるせなさを感じさせられたこの一週間でした。有事の想定・被害に対する備えを十分に検討しつつ迎えた今回の台風でしたが、幸いにもこの日土の地では猛烈な雨風にさらされることも被害の報告を聞くことなく済むことが出来ました。あちらこちらで災害被害が報道されている中で、僕達の住むこの山里が神様に守られ何事もなく今回の台風をやり過ごせたこと、心より感謝です。しかし隣り町では死者が出たり松山の方でも車が倒木の被害に遭ったりと、僕らの安全が決して当たり前で『約束されたもの』ではなかったことを今ひしひしと感じています。ほんの少し何かの状況が変わっていたなら、あれは僕らがこうむる被害となっていたのかも知れなかったのだから。
 被害に遭われた人達と僕らは何ら変わらぬ人間です。『良い人間だから』『正しい行いをしているから』と言うことで僕らが守られた訳では決してありません。その土地土地の住民性や経済活動の規模によって違いはあるものの、僕らは自分達の暮らしのために神様が創ってくださった山を削り海を埋め立てして生活圏を広げ、ここまで繁栄を築き上げやって来ました。その文明に対してこの国の自然は災害をもって度々警鐘を鳴らし、僕らに自らの省みを要求するのです。『本当にそれは必要なものだったのか?人間のおごりは多分になかったか?その代償について深く考える時をちゃんと分かち合った上で選んだ選択だったのか?』などなど。でもそれらは自分達にとって『実際の被害』と言う見返りを受けた者でなければ、なかなか心から省みることの出来ないものでもあるのです。
 しかしそんな僕らに神様は『懲らしめ』だけを最後通告として突き付けている訳ではありません。そのメッセージを真摯に受け止めつつそこから未来に向かってたくましく歩いてゆけるように、「力強く生きてゆきなさい」と神様は僕らを支え励まし生きる糧をも与えてくださっているのです。いつの日か『この町が災害に苛まれる』、そんな悲しむべき時が訪れたとしても、そこから未来へ向かって歩いて行くための確かな希望と、そんな僕らの心を支え励ましてくれる力強い信仰を、神様は与えてくださっているのです。それが僕らにとっての『子ども達』と『キリスト教保育』なのかも知れないと、ギリギリの所で難を逃れた安堵の想いに包まれながら、どこまでも晴れた渡った夏の空を見上げながら、そう思う今日この頃です。

 先日、子ども達と遊んでいる時にある女の子が、「せんせい、カブトムシがいる!」と山を駆け下り僕の所にやってきました。こんな早い季節のこんな時間帯にカブトムシがいるのだろうかと半信半疑で現場に駆けつけてみると、それは大きく真っ黒色をしたカミキリ虫でした。なにはともあれそいつを捕獲し虫かごに入れた僕らは早速図鑑で種類を調べます。日土で長年暮らしていても初めて出会う生き物達は後を絶たず、毎回新たな感動をこの僕にも与えてくれます。この辺で見かけるカミキリといえば黒に白の斑点のゴマダラカミキリとか青地に黒点のルリボシカミキリが多いのですが、つい先日も真っ赤な色のベニカミキリを初めて捕まえましたし、今日のこのカミキリにもワクワクしながら図鑑をめくった僕と子ども達でした。男の子達の人気の昆虫はやはりカブトムシを初めとする甲虫なのですが、それに属するカミキリもやはり格好の良い憧れの的。成人してからも艶っぽいダーク系のスポーツカーを乗りまわす男性が多いと言うのは、この甲虫の質感と似ているからなのかも知れないと、勝手に考察してみたりもして。とにかく子ども達にとってはカッコイイ昆虫なのですが、困ったことにこれはみかんの木を枯らすみかん農家の天敵なのです。そんないきさつがありまして図鑑で調べスケッチをして絵に描き取った後で、見つけた場所で放してやろうと考えていた僕でした。子ども達に感動や喜びを与えてくれたこの虫を幼稚園で殺すもの忍びないし、そうすることで『僕らが捕まえなかったこと』と等価に出来ると思ったのです。
 事態は思わぬ方向へ展開してゆきます。ひとりの男の子が「持って帰りたい」と言い出したのです。しかもその子のおうちはみかん農家。屁理屈を並べ立ててでもそうさせるべきではなかったのかも知れません。お迎えに来たお母さんに事情をお話して「いいようにしてください」と僕は卑怯にも責任を転嫁してしまったのです。どのような経過を経るかは分かりませんでしたが、このカミキリが生きて放されることはないであろうと僕には薄々分かっていたのに。翌日、この子の担任からこのことが原因でひと騒動あったことを聞きました。家に帰ってきたお父さんがこの子達の目の前でこのカミキリムシを潰して見せたそうです。この男の子は何が起きたのか分からず唖然とし、彼のお兄ちゃんは悲しみに涙を流したのですが、「なにも子ども達の目の前で殺さなくても!」と夫婦で大喧嘩になったと言う話でした。この話に僕は何も言うことが出来ませんでした。そもそも僕が撒いた争いの種。漠然と打ちひしがれたような申し訳ないような想いだけが僕の中に残った出来事でした。
 その日、僕はこの男の子に寄り添いながら一緒に過ごしました。彼はあまり気にかけていないようでしたが、共に過ごす時間の中で自分に言い訳でもするかのように僕はあれやこれやその子に話しかけました。「カミキリはみかんの木をかじってお父さんを困らせる虫なんよ。みかんが採れなくなったらお父さんもお母さんも君達も、みんなが困るからお父さんはカミキリに『ごめんよ』って思いながら殺したんだと思うよ。『お父さん、悪い!』って思わないでね」と。優柔不断で軟弱な僕が出来なかった『教育』を、生きる事の厳しさを自らの実践をもって彼らのお父さんは子ども達に教えようとしたのだと思うのです。きっと言葉足らずで乱暴な振る舞いに見えたことでしょう。でも自分の手を汚す姿を子ども達に見せたくなかった僕の偽善より、確かな教育と子ども達への想いがその所作の中にはあったと僕にはそう思えるのです。
 この日土の地でみかんを作る仕事を生業と選んだ以上、カミキリや菜の花などの雑草も自分の生活圏から排除すべき外乱であり、そこには躊躇を挟み込む余地や余裕はありません。それと同じようにこの日土の地で子ども達に神様の愛や命の大切さについて教え彼らの心を育むことを生業と選んだ僕達は、やはり「命は大切に」と教えてゆくべき使命を与えられた存在の者なのです。それはどちらが正しいと言う二次元論の線上にあるものでは決してありません。しかも僕らは『子ども達の命と安全を守る』と言う正義も同時に抱えているために、『他の命を絶対に殺さない』と言う原理を掲げようとしてみてもこの時点で矛盾が露見してしまうことを認めざるを得ないのです。毛虫を見つけたなら「子ども達がかぶれる」と言ってすぐさま駆除や木々の消毒をしたり、ムカデがいたら「咬まれたら大ごと」と子ども達の目の前で踏み潰し、ハエや蚊・ゴキブリ等を見つけたなら殺虫剤を持って追い回す。それでいて子ども達の捕まえたバッタや蝶が死んでしまったら「かわいそうなことをして」と彼らをたしなめる、そんな大人の対応に子ども達の頭の中には『?』マークがきっといつも飛び交っていることでしょう。「それって何がどう違うの?」と。

 そう、だから僕らはそのひとつひとつの事例について子ども達と経験を共にしながら、ひとつひとつ共に考えその状況において判断し、教えてゆかなければならないのです。『これは本当に取らなければならない命なのか』と言うことを。壊さずにおける自然であるならば、今取らなくてもよい命であるのなら、それは神様から与えられた大切な贈り物として僕らは後世に残しそっと受け渡してあげればいい。僕らは文明の力によって『取ること・壊すこと』は一瞬でやってのけるほどの存在になりはしましたが、葉っぱ一枚・ミジンコ一匹を『創る力』は持ち合わせないものであることには変わりないのです。ならばその葉っぱ一枚を刈り取る時に、小さな命を一つ取ろうとするその時に、それが本当に必要な一手なのかを考えてゆきたい、そしてこの子達にはそのことについて何かを感じ考える心を持って大きくなって行って欲しい、とそう思うのです。そうは言ってもこういう時は往々にしてハイな心理状態になっているもので、きっとなかなかそんな冷静な対処や判断は出来ないことでしょう。それでも後になってからでも構わないから、大人に指摘されたその言葉を自分の中で反芻したり、大量の虫のムクロを目の前にして自分の『正義・大儀』以外の何かを感じた時に初めてきっと「それが本当に取るべき命であったか」と言うことを自分に問いかけることにつながるのでしょう。
 こうして僕らは目の前の事象や事件の中から子ども達に教えるべき事柄を抽出し、その中に息づく僕らの想いを伝えながら『ともに生きること』の大切さをこの子達に説いてゆくのです。『自然とともに生きること』『社会とともに生きること』『友達とともに生きること』『大人とともに生きること』そして『自分とともに生きること』、これら一つ一つの生き方は皆それぞれ異なるものであるけれど、どれか一つだけを選んで生きて行くことは出来ないのです。人はこれらの生き方をバランス良く自分の人生の中に散りばめてゆくことによって初めて、今のこの世の中で『ひと』として生きてゆけるのだから。その割合や落とし所を絶妙に決めてくれるものこそが『本当にそこまで必要?』の自分への問いかけなのです。その問いにきっと形を持った答えはないでしょう。その時々の想いがその問いの答えを良くも悪くも変えてゆくから。でもその積み重ねの繰り返しがその人の価値観や人生観を作り上げてゆくのです。それは今こうして大人になった僕達にとっても常に課せられている課題です。物事を感情的に判断していないか、自分自身が自らのことを客観的に見つめることが出来ているか、言い訳は後からいくらでも塗り重ねることが出来るがそれが自分の利己主義を正当化する方便となっていないか、などなど。ちょっと自分のことを振り返ってみても、とても出来てはいないことだらけですが、そこを目指してゆこうとする自分にならなければ人に対してどうこう言う立場に立つことなど到底出来ないように思うのです。そう言う問題提起と自分達への課題を自らに、そして子ども達に対して投げかけてゆきたいと思うのです。そのことがこの国の文化やモラルや『生きざま』と言われるようなもの達を形作って行ってくれることを祈りながら。

 今回の事件は僕らにまた色々なことを教えてくれましたが、このカミキリのために涙を流してくれたお兄ちゃんの幼稚園の時と変わらぬ優しい心に慰められ、彼にはいつまでもこの心を持ち続けて欲しいと祈っています。僕らは色んな命の犠牲の上で生きる事を赦されている生き物です。お肉屋さんで買ってくる鳥や豚達も僕らの代わりに手をかけ食べられるようにしてくれる人がいるおかげで食べられるのであるし、ベジタリアンであると言っても野菜から命をもらっている事には代わりないでしょう。だから僕らはその事にもう一度目と想いを向けて、回りの全ての命にそして神様に感謝をしたいと思うのです。そんな僕らの真摯な態度が、子ども達の心を育んでゆくための僕らから彼らへの何よりのメッセージとなってくれるはずだから。夏休み、意図的にちょっとした出来事を大真面目に取り上げて、子ども達と正面から向き合ってみませんか。これまで見えなかった子ども達の想い、そして自分の立ち位置について、きっと何か新たな発見がそこにもたらされると思うから。


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