2014.9.27
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10月の子育て講座は僕の『弾き語り講座』です。これは『音楽を通して子どもの心を感じてみよう』と言う僕のシリーズで、日頃子ども達が興味を示してくる歌や音楽を題材にお母さん達にも『音楽』と言うものを楽しんでもらっています。 今年のテーマは『自分の声を聞いてみよう』。『歌が上手い』ってなんでしょう。勿論一番には音程と言うものがあるのですが、最近「なんかそれだけじゃないよなぁ」と感じる様になってきた僕。アイドルの出すCDでも音程は完璧に補正され、外れた音を聞くことがなくなったような気がするこの時代。でも相変わらずいい歌は心地良く聞こえ、そうでない歌はそれなりにしか聞こえない。では何がそうさせるのかと言うことを突き詰め考えてみたならば、それは『ちゃんと自分が相手に伝わっているかどうか』『その想いが歌の中に表現出来ているのか』と言うことなのではないでしょうか。『自分の出した声・音・言葉・息づかい・そして自分の想い』と言うものを自分自身がちゃんと受け止めながら、相手の心に想いを寄せながら歌えているかどうかと言うことなのではないかと、そんな風に思うのです。そう、自分のことが分からなければ、そして相手の想いが分からなければ、発したらそのままになってしまうものが歌や詩と言うもの。でもそれって歌う時だけではないって思うのです。 僕達は子ども達に声をかける時、人に話しかける時、自分の語気や声色について意識をしながら言葉を発しているでしょうか。電話だと声が変わる人っているものですが、あれは自分の声が耳元で聞こえているからなのかも知れません。普段僕らが発している言葉達はその時々のシチュエーションと感情に左右されているはずで、怒る時には『ケンケン!』と、苛立っている時には『イヤミったらしくねちねち』と、相手にはそんな風に聞こえているのではないでしょうか。もちろん「感情を押し殺してしゃべりましょう」と言っている訳ではありませんし、僕でもそんな時の口調はきっとそういう風になっていることでしょう。でも本当に自分の想いを相手に分かって欲しいと願うのであれば『ケンケン!』や『ねちねち』のままでは伝わるものも伝わらない。そう、ケンカ腰の言葉達や嫌味な言い回しでは相手の感情も逆なでし、双方が冷静になれないまま言葉だけがきつくエスカレートしてゆくことでしょう。自分の言葉が子ども達に届かない時、その原因ってそんな所にあるような気がしませんか? 「自分の声が自分でしっかり聞こえていたならば、自分は何を考え何を伝えたいと願うのか、それがもっとはっきり分かるのでは?」とそんなことを思いながら今回のテーマを選んでみました。子ども達の誤った行為を正すこと、それは子どもを育ててゆく上での大人の責任ですが、自分自身と子どものことを客観的に見つめた上で『叱る』と言う行為が出来ているか、それが大事。ただの感情の暴走となって『怒っている』だけの状態になってはいないか。ちゃんと導くべき方向を確かめて結論の落とし所を探す余裕を持っているか。それを自ら確かめつつ子ども達と向き合うことが大事なことで、そのバロメーターが自分の『声』になると思うのです。自分の声にちょっと耳を傾けてみませんか。 でも今回やることはと言えば詩の朗読を聞いてみること、一緒に歌をうたうこと、そしてその体験の中で感じたことを一緒に話すこと。自分の声を意識して聞く機会はあまりないかもしれませんが、今回は歌声やポエトリー・リーディング等を通して、聞こえ方の違いを一緒に研究してみましょう。10月29日(水)13:00〜 お座敷にて。どうぞお気軽にご参加下さい。皆さんのお越しをお待ちしております。 【ポエトリー・リーディングを聞いてみよう】 佐野元春 『僕は愚かな人類の子供だった』 『フルーツ』 『Dovanna』 【僕のポエトリー・リーディング】 詩篇 第96篇 【一緒に歌ってみませんか】 <歌に想いをのせて歌おう> 十月の讃美歌 『どんなときも』 〜言葉に息吹きを吹き込んで <物語を歌で表現してみよう> 『大きな古時計』 〜『おおきな』のひと言の中に表現出来る想い <ハーモニーの歌声を聞いてみよう> 『今日の日はさようなら』 〜人の音を聞きながら自分の声を確かめながら 【僕らの反省会・感想発表会】 『感じた想いを語らいましょう』 〜自分の歌声を聞いてみて、何を感じられたことでしょう |