園庭の石段からみた情景〜園だより1月号より〜 2016.1.25
<自然と命と共に生きる子ども達>
 新しい年が明けまして、新たな希望に胸を膨らませた子ども達がまた幼稚園にやって来てくれました。今年のお正月はもう春先かと思われるほどの暖かさだったのですが、そんな陽気と年末年始の『ぬくぬくちやほや生活』に心も体もすっかりリフレッシュ出来ていたのでしょう。登園初日はみんな元気な顔を見せてくれまして、うれしいスタートを切ることが出来ました。しかしその後、超一級の寒波が日本列島を覆い、例年並以上の厳冬が日土にもいきなりやって来ました。朝からどんより薄暗いわ、空気はキンキン冷たいわ、この急転直下に僕らも震え上がったものです。
 『子どもは自然』とはよく言ったもので、そんな天気になるだけで気分もどんよりと沈んでしまう子ども達。そんな頃から「幼稚園行きたくない」とか「お家に帰りたい」なんて子達が何人も現われて、「なんで始業当初でなくて今頃なの?」と当惑したものです。ある時「なんで泣いてたの?」と尋ねたら「寒いから」と答えた男の子がありまして、そこで合点が行きました。この子達にとって朝の気分は何より大事。これから何かを始めようとする時に、『なんか分からないけど、なんかいや』と言うものがあったなら、そこで立ち上げプログラムが阻害され自分の中の『マイコン』の機動が上手くゆかずに何をするもの「イヤイヤイヤ!」ときっとなってしまうのでしょう。ならば満たされた想いに包まれながらその朝を過ごすことが出来たなら、一日のスタートも上手く行ってくれるはず。夜は早く床についてぐっすり眠り朝は早くすっきり起きる、朝食はしっかり取って歯磨き・洗顔・おトイレなども時間の余裕を持って準備して、とそこから始めることが出来たならこの子達の『立ち上がり』もきっと違って来るでしょう。逆に時間が迫っているのにぐずぐずしてたらお母さん達も「もう!もう!もう!」となりましょうから、そんなに言われた子ども達も「キー!キー!ムキー!」の悪循環にもなるのでしょう。気分良くお家を後にして、あとは『寒くてもこの季節には楽しいことが一杯一杯待っている』と期待を持って登園することが出来たなら、きっと寒さなどどこ吹く風、喜びをもって冬の園生活も楽しんでくれることでしょう。そのためにもこの冬ならではの、そして日土幼稚園のお山や豊かな自然ならではの素敵なもの達を、今日も子ども達と一緒に見つけにゆきたいと思うのです。幼稚園のお山や庭でそれぞれ自分の「これ!」を見つけた子ども達は寒さなんかお構いなし。菜の花の『根っこ大根』を引っこ抜いてそれを水にさらして遊ぶ子どもがいるかと思えば、砂場に水路を作って椿の花を散りばめた砂山から水を流して遊んだりと、こっちが「ほどほどにね」と心配するほどに元気にご機嫌さんに遊んでいます。そんな子ども達の姿を見つめながら、「今度は何をこの子達の心に投げかけてみましょうか」と冬の野山を見渡しながら、毎日子ども達とお散歩をしている僕なのでありました。

 そんな一月でありましたが、この寒さが生き物達にも堪えたのでしょう。『預かりの部屋』の水槽のハヤが一匹、先日来元気がなくなり一週間ほどしてとうとう死んでしまいました。去年の春、この水槽にやって来たハヤ達だったのですがここ半年ばかりはみんな元気にしておりました。そのハヤの不調を見つけたのは『お預かり』で残っていた男の子。まだそんなに悪そうな様子も感じさせなかったのですが、群れから離れ底の方にたたずんでいるその姿に「これ元気がない」と僕に教えてくれたのです。子どもの『何か違う』と言う直感力はなんと鋭いものなのでしょう。その子が指摘した通りそのハヤは段々と弱ってゆきまして、その様子をただただ見つめていた僕と子ども達でありました。その過程では何も言わなかった子ども達ですが、このハヤが死ぬとみんな次々に言葉を語り出しました。「おはかつくらないと」「ふたつめだね」「前のは大きかったもんね」。最初この子達が何を言っているのか分からなかったのですが、ふと思い当たったことがひとつ。この水槽では去年の夏前に別のハヤが死んでしまい、そのハヤのために子ども達とお墓を作ってお祈りをして天国に送ったことがあったのです。僕も忘れかけていたそんなことをこの子達はその小さな心にしっかり刻み付けていて、このハヤの死をきっかけにそのことを再び語り出したのでありました。雨あがりのその合間に僕らはお山に繰り出して、今回死んだハヤのお墓を作ってあげました。すると「おいのりは?」と僕にささやきかける男の子。「そうだね、みんなでお祈りしてあげようね」とその場にしゃがみ込み、みんなでハヤのために「ハヤ君が天国で元気に暮らせますように」とお祈りをしてお別れをしたのでありました。
 先日のキリスト教講演会では『小さな子ども達にも愛する人の死の際には、ちゃんとお別れをして送らせてあげることが大切です』と言うお話を聞きました。自然の中で生き物と触れ合いながら暮らして来たこの子達は、自らちゃんとそれが出来るようになってくれていたんだなと思ったものでした。死んだハヤを想い「かわいそうだね」と言ってくれた子ども達。でもその悲しみに飲み込まれてしまうのではなく、忘れ去ってしまうのでもない。そのことをこの子達になさしめたのが前回の『ハヤとのお別れ』だったのだと思うのです。この子達はハヤが天国で元気に泳いでいる姿を思い描きながら、今ひとときのお別れをちゃんとすることが出来たから、今回のこのような言葉達が紡ぎ出されて来たのでしょう。人と魚では死の重みが違うと言うかも知れません。でも『死』と言うものが絶望ではなく永遠の別れでもなく、ハヤを想って祈りハヤを思って話す時にその命はもう一度輝きをもって僕らの心を照らしてくれるものとなるのだと、そのことに気がついた時に僕らの死と言うものの認識と概念そしてそれに対する立ち位置がきっと変わってゆくことでしょう。永遠の命と救いと贖いとを、神の名のもとに信じて生きてゆける幸せを感じながら。


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