園庭の石段からみた情景〜園だより10月号より〜 2015.10.24
<色水ジュースの奇跡>
  お天気が心配された運動会も当日は曇り模様の涼しいくらいの陽気の中で行われ、子ども達はそれぞれ自分達の『精一杯』を噛み締め味わいそしてそれを楽しむことを学んでくれた、そんな素敵な一日となりました。運動会が終わっても鉄棒の新技に挑んでいるのはもも組さんの女の子。会場から受けた声援がこの子のやる気に火をつけたのか、はたまた大技を繰り広げまばゆいばかりの姿をみんなに賞賛されたクラスメイトにリスペクトされて「わたしだって!」とそんな気になってくれたのか。いずれにせよ運動会までの練習における「わたしはくれくらいでいいの」と言った感じの姿をはるかに凌駕する『やる気モード』で、鉄棒に立ち向かっている今日この頃。こんな姿を見ていると、やはり運動会は『見栄えの良い子ども達の姿』をお披露目するだけの『見せ物』などでは決してなく、この子達がこれから未知なる自分とどう向き合ってゆくのか自ら考える機会を与えると共に、それに向かってひたすら邁進してゆこうと願い続ける動機付けを行えたその時にこそ、幼児教育のカリキュラムとしての役割を最大限に発揮するものだと思うのです。それを体現して僕らに見せてくれている女の子。鉄棒練習に友達みんなを誘いまして、更にその姿を認めてもらいたいと先生達を呼びつけて、その場をしきりながら『自己満足モード全開』でやっているその姿についつい笑わされながら、でもそんな屈託のない愛らしい彼女とそれにつられてがんばっている仲間達の姿を嬉しく見つめている僕なのでした。

 十月のひよこクラブではレジメに「みんなで一緒にお山へ繰り出しましょう」と謳いひよこちゃん達をお誘いしたのですが、時期的に紅葉の季節にはちょっと早い南予地方。今年も柿の葉は良い感じに色付き始めた頃だったのですが、カエデも蔦のはっぱもまだ青々としていて桜の落ち葉も色合い的にはもうひとつ。ひよこクラブの当日、日土幼稚園の『秋遊び』を体現するそのために、それではと言うことで山に分け入り子ども達とヨウシュヤマゴボウの実や果実付きのくるみを拾って帰って参りました。初めは「そんな『やくたいもないもの』をどうするんだろう?」って顔をしていたひよこちゃん達でありましたが、ちょっと磨き上げればピカピカのくるみが現れるし、ちょっと絞れば鮮やかなワイン色の汁がにじみ出てくるし、そんな不思議な『自然マジック』に魅せられて次第にその目を輝かせ始めたひよこちゃん達。そんな導入が功を奏したか、その日のひよこクラブの製作では『さるかに・秋のデコレーションバッグ』と命名した塗り絵バッグに、柿のはっぱやくるみ・どんぐりをぺたぺたぺたと貼り付けてみたり、その中に大きなマツボックリを入れて持って帰ったりと、『自然とのふれあい・遭遇』を楽しみながら、うれしそうに遊んでくれていたひよこちゃん達なのでありました。
 そんな僕らの姿をきっとどこからかそっと眺めていたのでしょう。その時には数人しかいなかったクルミ遊び・ジュース遊びメンバーがその日を境に徐々に徐々に増え出しました。「この間、あそこでやってたあれ、やりたい!」と僕に言って来た子ども達は二人や三人ではありませんで、そこから『第二次・色々ジュース遊びフィーバー』が興ったのでありました。そのメンバーにはコツコツやるのがちょっと苦手な男の子や、ついこの間まで自分の手が汚れるのを嫌うがゆえに『水遊び・砂遊び』をやりたそうな顔を見せながらもいつも遠目に見ていた男の子なんかもありまして、それぞれの心の成長と『やりたい想い』の持つ動機付けの力強さに改めて驚かされたものでした。「どうやってやるの?」と教えを請いつつ僕らのところにやって来たその子達。そのノウハウのレクチャーに耳を傾けながら、また濾し器とスプーン・ジョウゴなどの道具を上手に扱う僕や年上の子達の姿を見よう見まねに真似をしながら、自分達の手で憧れの色水ジュースを作る体験をすることが出来たのでありました。それまでは人の作った物をどこからともなく失敬して来てご機嫌顔だった男の子達や、人の作った物を「きれいだねー」と眺めるだけで満足していた子ども達が、自分の手で何かを作り出すことに喜びを感じ、出来上がった物に対してとっても嬉しそうな顔をしてくれたそのことが僕には何より嬉しく感じられました。『人からしてもらう喜び』や『人から与えられる喜び』もとても尊いものですが、自分が自らの想いをもって未知なる自分にチャレンジしつつ、それを自分の手で出来るようになってゆくその『成功体験・サクセスストーリー』こそがこの子達の育ちにおいて何よりも大きな糧となって行ってくれるはず。そのプロセスを学ぶことこそ幼児教育における大切な教育課程だと思うのです。実際、それで自信をつけた子ども達は次々に自ら課題を探し出し、「これはどうやったら出来る?」と僕らに投げかけて来てくれています。「何でもかんでも『やって!やって!』『僕にも作って!』ばかりだったこの子達が・・・」とその成長に心熱くなる僕なのでありました。

 そんな初々しい『初心者男子』とは違うプロ魂を大いに見せてくれたのが、色水遊び大好きの女の子達。彼女達はペットボトル1本や2本の色水などでは全然満足出来ません。以前はビニール袋にヨウシュヤマゴボウの実と水とを入れまして、外側から手で潰しながら色水を作っていたのですが、このほど開発された『濾し器とスプーン』で色水を抽出する方法をもってすればバケツ一杯の色水がいとも簡単に出来てしまうことを知ってしまいました、彼女達。幼稚園にあるだけのペットボトルをかき集め(たまたまその時、うちから持って降りて来た500mlのペットボトルが何十本もありまして)、透明感あふれる『ぶどう色水ジュース』を20本も30本も作りまして大喜びしておりました。濾し器を使う所が味噌の特許出願中。それまでは色水もヤマゴボウの実のカスも『いっしょくた』に入った果汁たっぷりの色水ジュースだったのが、透明のペットボトルに入れて中身を透かしてもとってもクリアーで濁りのない美しい色水が出来るようになったのです。それもヤマゴボウの実を濾し器の上ですりつぶし繰り返しドリップ出来るので、効率の良さも天下一品なのでありました。またそれをペットボトルに詰める際にジョボジョボこぼしてしまったり、ペットボトルごとひっくり返して『覆水盆に帰らず』になってしまったり、これまでは最後まで何があるかわからなかった色水作りだったのですが、今回そこに導入されたのが子ども達発案の『おたまドリップ』。おたまで色水をすくい上げジョウゴにそっと注いでやれば、無駄なくロスなく『クリアぶどうジュース』の500mlペットボトルが量産出来ることに気がついたのです。こうして彼女達は大量の色水が精製出来る『家内性手工業』のシステムを確立して行ったのでありました。
 そんな色水マイスターの彼女達。それを「全部持って帰る!」と言い出したからさあ大変。さすがにそれはと言うことで「一人1〜2本ね」とお約束。持って帰る分には名前を付けてそれぞれボトルキープしてあげたなら、なんともうれしそうな顔をしておりました。さて、それ以外のペットボトルを集めてずらーっと並べてみたならば、やっぱり20本近くの色水ジュースが残っています。その日はたまたま砂場遊びに使わなかった井戸の水がきれいなままタライに残っておりまして、そこにそれらをドポドポ注ぎ「ワインジュース風呂だぁ!」とやって見せた僕。それに呼応して子ども達も次から次へとそこへボトルのジュースを注ぎ出しました。上から見たならきれいなロゼ色に見えたワイン風呂だったのですが、そこからその水をもいちどペットボトルにすくってみれば、無色透明になってしまいます。やっぱりこのタライ一杯の井戸水を色づけるためには色水が足りないのかと思ってみたりもしたのですが、子ども達がドポドポ注ぐそのうちにワイン風呂はどんどんどんどんその濃さを増して行ったのです。そんな情景に大満足の子ども達。その『二次精製色水』をジョウロに汲んで砂場にシャワシャワ注いでみれば、太陽光線にそのワイン色の色水が輝いて「きれーい!」とみんなで大喜び。その光景が見たくって何度も何度もジョウロにワイン風呂水を汲みに行っては、砂場でのシャワシャワシャワーを楽しんでいた子ども達なのでありました。
 子ども達の『色水狂想曲』はまだもうひとつ続きます。そんなこんなの色水フィーバーの終わり頃、ばら組の男の子がやって来ました。色水にしてもさら粉にしても、まだなかなか自分で作れる所まで行かないこの子達。でも幼稚園にはこんなような素敵なものが沢山あって、自分もそれで遊びたいと常々思っていたのでしょう。自分の手間隙かけずに作られたこんなに沢山の色水を見つけてしまったこの子達は大喜び。みんなが中身をタライに注ぎ空にしたペットボトルを潤子先生が片付けようと洗って干して置いてあったのですが、そこからまた引っ張り出して来てタライの色水を詰め込み並べてご満悦の男の子。その色合いもオリジナルのものよりも薄くはあるけど、その分透明感を増しまして中々にきれいなものでした。ボトルに入れただけにしても「自分で作った!」と満足げな顔のこの子達。一方、さっき洗ったばかりのペットボトルが色水入りでまた大量に並べてあるそんな情景を見つけまして、「せっかく洗ったのに」と半笑いの潤子先生でありました。

 そんなこんなの子ども達の『色水狂想曲』を見つめていると、彼らの想いや興味の行く先・そしてそれを自らのカリキュラムとして成長してゆくその姿が、僕にはなんともうれしく伝わって来ます。神様の与えてくださった自然の恵みや僕らのかけた手間隙が子ども達の『自然遊び』と言う教材に昇華され、こんな風に色んな形で色んな子どもにその意識や知識の覚醒蓄積・そしてそれらに対する向き合い方などに大きな影響を与えてくれているのです。人間が作った教材カリキュラムと違いまして、何がどのようにどんな時にこの子達の学びにつながるかと言うことは僕ら教師にも分かりません。自然の形はその時その時で違いますし、そこから得られるものもいつも一定と言う訳ではないからです。でもそれを受け止める子ども達の方も『何に興味を示すのか・何に感じ入ってくれるのか』、それも僕らには分からない未知数要素。子ども達はひとりひとり、自分の心に感じることもその感じ方や感度さえもみんなみんな違うから。でもそれらの不確定因子の要因をとても上手に組み合わせつつ用いてくださるのが神様のみこころだと思うのです。
 僕らが『こう言う子どもに育てたい』と思ってその枠に子ども達を押し付けはめ込もうとしたとしても、彼らは反発するばかりでしょう。どんなに立派なスーツでも柔軟性のない肩肘ばった上着では、人には窮屈にしか感じられないそんなもの。「これを着れば自分は色んなことが出来る、出来るようになれるはず」とそんな希望や期待を感じられる、そんな教育課程を用意し投げかけてあげることが出来たなら、この子達は自らそれを着込んでがんばることをきっと心地良く感じてくれるはず。そう、あの運動会後もがんばっている『鉄棒女子』の物語のように。
 それにしても今回の色水物語を思い返してみれば、数人で始めた色水遊びがこんなにも沢山の子ども達の心を満たし、色んな学びと素敵な成長を与えてくれた『奇跡』のように僕には感じられるのです。そう、それはまるで神様が『大きな瓶一杯の水がぶどう酒に変った奇跡』の話や『二匹の魚と五つのパンが五千人に分け与えられ、その残りが十二の籠一杯になった奇跡』のお話を、この幼稚園の保育の場において体現して見せてくれたかのよう。僕らは神様のみこころと子ども達の想いを何より大事に受け止めながら、僕らの日々のあるべき姿を聖書の御言葉の中に探しつつ、決して自分のエゴや自己満足を押し付けることなく神様に用いられるものとして、保育のわざを精一杯全うして行きたいと願っている者なのです。


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